クモの糸
アマゾナイトノベルズ様より2026年2月3日配信開始!
『現実世界に追放された悪役令嬢はモブを育てる』 第2巻!
ぜひぜひ応援よろしくお願いいたします!
部屋を出たあと私は長い廊下を歩きながら、ずっと同じことを考えていた。
――おかしい。
3億円だ。
代理出産、親権放棄、以後一切の関係遮断。
条件は確かに重いが、それでもなお3億円という金額は異常だった。
人生を一度リセットして、余生を安全圏で生きるには十分すぎる。
それなのに、私は即答できなかった。
それどころか、胸の奥で、別の感情が芽を出し始めていた。
――もしかして。
――私、思っている以上に「価値」があるんじゃない?
浮遊能力。
世界に一人。
それが遺伝する可能性。
そうなれば今後の一族にも影響する。
マシューはそれを見抜いている。だからこそ、こんな条件を出してきたのだ。
なら――。
交渉余地は、まだある。
次に会ったとき、私は以前よりも少し背筋を伸ばしていた。
マシューは変わらず穏やかな表情で私を迎えたが、私はその笑みを「余裕」ではなく「隠しきれない焦り」だと解釈していた。
「考えはまとまりましたか?」
「はい」
私は頷いた。
「ただ……一つ、思ったことがあって」
マシューは何も言わずに続きを促す。
「3億円という条件を提示されたということは、それだけ私に“強み”があるということですよね」
自分でも驚くほど、声がはっきりしていた。
「もしこの能力が本当に遺伝する可能性があるなら……今後、この能力は私の専売特許ではなくなる可能性が出てきます。そのリスクも含めて、金額はもっと上がってもおかしくないと思うんです」
マシューの表情がほんの一瞬だけ止まった。
私は、それを見逃さなかった。
「それに、出産後一切の関係を断つというのも……正直、かなり酷な条件です」
言葉が次々と出てくる。
「せめて、年に一度の写真とか、成長の報告とか……」
「それは契約条件に反します」
マシューは静かに遮った。
「でも、それくらい――」
「反します」
その声は、先ほどよりも低かった。
私は内心で舌打ちした。
――やっぱり、焦ってる。
「では、こうしましょう」
私は強気に少し身を乗り出した。
「そちらの条件を飲んで、5億円」
私が言った瞬間、部屋の空気が変わった。
マシューは私を見たまま、しばらく何も言わなかった。
私はその沈黙を「思案」だと受け取った。
吹っかけすぎたのだろうか?
「……いえ、やはり」
私は畳みかける。
「5億ではなく、最低でも4億。命がけなんです。安すぎます」
そのときだった。
マシューがゆっくりと息を吐いた。
そして、今まで一度も見せなかった表情で、私を見た。
それは、失望だった。
「話は、ここまでにしましょう」
「……え?」
「この件は、白紙です」
あまりにもあっさりした言い方だった。
私は一瞬、意味が理解できなかった。
「ちょ、ちょっと待ってください」
慌てて声を上げる。
「今のは交渉で……まだ最終決定じゃ……」
「決定です」
マシューは書類をまとめ始めていた。
「3億でいいです!」
私はほとんど叫ぶように言った。
「さっきの話、忘れてください。3億で……条件も、そのままでいいです!」
自分の声が情けないほど震えているのがわかった。
マシューは手を止めた。
そして、こちらを見ずに、淡々と言った。
「遅い」
その一言で、全身の血の気が引いた。
「あなたの知性や性格が、一部でも遺伝する可能性があるのだとしたら」
ゆっくりと、しかし残酷なほど明瞭な言葉。
「私は、最初からあなたに代理出産を依頼するべきではなかった」
胸に、鈍い衝撃が走った。
「……な、何を……」
「理解できませんか?」
マシューは、初めて私の目を正面から見た。
そこには、もはや微笑みはなかった。
「自分の立場を正しく把握できない。交渉の線引きができない。短期的な優越感で、長期的な利益を損なう」
一つひとつが、私を解体する言葉だった。
「それは親としても、契約相手としても、致命的です」
私は、何も言えなかった。
「今回の件で、確認できたことがあります」
マシューは淡々と続ける。
「能力そのものよりも、それを持つ人間の資質のほうが重要だということです」
そして、最後にこう言った。
「それがわかっただけでも、三百万円の価値はありました」
私は反射的に、返す気も返せる見込みもないのに応えていた。
「その三百万円、返しますから……」
マシューは、首を振った。
「いいえ」
そしてほんのわずかに哀れむような目を向けた。
「それはあなたに交渉のテーブルについていただくための費用でしたので」
その言葉で、私はすべてを理解した。
私は、交渉相手ではなかった。
最初から評価対象だったのだ。
部屋を出るとき、私は足元がふらつくのを感じた。
浮いているはずなのに。
いや、違う。
私はもう、浮いていなかった。
現実という重力が、容赦なく私を地面に叩きつけていた。
お読みいただきありがとうございます。
『現実世界に追放された悪役令嬢はモブを育てる』 第2巻!
2026年2月3日 アマゾナイトノベルズさま より配信開始!
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