一生の値段
アマゾナイトノベルズ様より2026年2月3日配信開始!
『現実世界に追放された悪役令嬢はモブを育てる』 第2巻!
ぜひぜひ応援よろしくお願いいたします!
あのラウンジでの別れ際から、私の時間の流れは明らかに変わった。
スマホを見る回数が増えたわけじゃない。通知が増えたわけでもない。
なのに、常に「次」を待っている自分がいる。
次の連絡、次の展開、次の“段階”。
マシュー・クロフォードという男は、約束どおりすぐには現れなかった。
それが逆に効いた。
こちらの生活を尊重しているふりをしながら、実際にはこちらの思考を占拠する。
連絡が来ないこと自体が、メッセージになっている。
私はそのことに気づいて、少しだけ苛立ち、同時に少しだけ誇らしくなっていた。
――焦らされる価値がある。
そう思いたかったのだ。
そんな折、また別の連絡が入った。
今度は弁護士事務所からだった。件のトラブルについての最終的な書面確認。形式的なものだと説明され、私は淡々とサインをした。そこには、もう私を責める言葉は何一つなかった。
すべてが「過去」になっていた。
それは安堵でもあったが、同時に奇妙な喪失感でもあった。
あれほど私を追い詰め、震えさせた騒動が、たった数枚の紙切れで片づけられてしまう。その現実が、私の中の何かを鈍く削っていく。
――私は、守られた。
でも、それは私自身の力じゃない。
数日後、再びマシューから連絡があった。
今度は、より具体的だった。
『一度、正式に話をしましょう。あなたの能力について』
能力。
その言葉を見た瞬間、背筋が伸びた。
待ち合わせ場所は前回とは別のホテル。さらに格が上がったと空気でわかる場所だった。
ロビーに足を踏み入れただけで自分の服装や立ち居振る舞いが場違いに感じられる。
それでも、私は引き返さなかった。
案内された個室でマシューはすでに待っていた。
今日は前回よりもさらにビジネス寄りの装いだ。
「改めて、あなたの能力について確認したい」
挨拶もそこそこに、彼はそう切り出した。
「浮遊能力。再現性は?」
「あります。意識すれば、ほぼ確実に」
実現のほうが早いと、私は少しだけ腰を浮かせて見せた。
「限界高度は?」
「……二メートル前後が安全圏です」
「持続時間は?」
「数分なら問題ありません」
まるで面接だ。
私は少しだけ、鼻で笑いたくなった。
「そんなに詳しく知って、どうするんですか?」
少し上から目線だったかもしれない。だが、私はもう“対等”だと思いたかった。
マシューは、否定もせず、淡々と答える。
「価値を測るためです」
「……ずいぶん率直ですね」
「率直でなければ、あなたは信用しないでしょう?」
そのとおりだった。
「あなたの能力は、エンタメとしても、科学としても、そして――遺伝的観点からも価値がある」
遺伝。
その言葉が、はっきりと出た。
私は一瞬だけ言葉に詰まるが、すぐに立て直す。
「子ども、ですか?」
「ええ」
マシューは頷く。
「もし、あなたの能力が遺伝するなら、その子どもは世界的な注目を浴びる。研究資金、スポンサー、メディア……想像に難くない」
彼は、淡々と未来を語る。
そこに、夢や希望の色はない。ただの計算だ。
「私を、産む機械みたいに扱うつもりですか?」
私は、あえて強い言葉を使った。
マシューは少しだけ目を細める。
「そう感じるなら、どうぞ」
即答だった。
脅しでも、引き留めでもない。完全に交渉の主導権を持っているような口調。
それが、私の虚勢を剥がした。
「……違います」
私は視線を逸らしながら言う。
「ただ、私はもう、安く扱われるのが嫌なんです」
「安く?」
「同情とか、保護とか、そういう形で」
マシューは少し考えてから言った。
「では、本題から話してしまったほうが早そうですね」
テーブルの上にタブレットが置かれる。
「あなたの人生の一部を、お金で買わせていただきたいという話です」
まるで私の人生を左右する条件を提示するのが、今日の天気を伝えるのと同じくらい自然なことだと言わんばかりに軽く言う。
「具体的な条件についてお話ししましょう」
その一言で、私の背筋は勝手に伸びた。
逃げ場はない。もう、引き返す段階は終わっている。
「代理出産、という形を想定しています」
私は黙って頷いた。そこまでは予想していた。
「出産後、親権はすべてこちら――正確には、私と妻に移ります」
妻。
その単語を、私は初めてはっきりと意識した。
既婚者。そう、最初から聞いてはいた。でも、こうして話の中に組み込まれると現実味が違う。
「あなたには、出産後いかなる面会・交流・接触も認めません」
淡々と、しかし一切の含みもなく告げられる。
「子どもは、完全に私たちの子になります」
私は、喉が少し渇くのを感じた。
「……それって」
言葉を選びながら、私は聞いた。
「産んだことを、なかったことにしろってことですよね」
マシューは否定も肯定もせず、ただ頷いた。
「その代わり、対価をお支払いします」
彼は、テーブルの上のタブレットを操作した。
そこに記された数字を見て、私は一瞬、理解が追いつかなかった。
「……いち、おく?」
声に出してみて、ようやく現実味が出る。
「はい。1億円です」
あまりにも軽い言い方だった。
1億円。私の頭の中で、何かが弾けた。
家。老後。親の介護。将来の不安。働かなくていい人生。すべてが、一気に具体的な映像として流れ込んでくる。
でも――。
「……安くないですか?」
自分でも驚くほど、上から目線の言葉が出た。
マシューは、それを聞いても表情を変えない。
「そう感じますか?」
「だって……女の家事労働だって、年収換算で千二百万円相当とか言うじゃないですか。それが、私にとっては一生の問題なのに」
自分で言っていて少し恥ずかしくなる。ネットで見かけた言説をそのまま信じて口にしている自覚はあった。
「それに、妊娠と出産って……命がけだし……」
私は、交渉しているつもりだった。
マシューは私の言葉を遮らずに聞き終えると、ふっと微笑んだ。
「なるほど」
そして、まるで思いついたように言う。
「では、2億円でいかがでしょう」
「……え?」
軽い。あまりにも軽い。
値切る客に、少し上乗せするみたいな調子で、数字が倍になった。
「それでも、まだ足りませんか?」
私は、言葉を失った。
2億円。それは平均的な生涯収入にほぼ近い額だ。普通に働いて、老後まで生きて、ようやく手にするかもしれない金額。
それが、一度の出産で。
でも――。
「……それでも、ちょっと……」
なぜか、私は頷けなかった。
不安なのか、プライドなのか、自分でもよくわからない。
マシューは少しだけ考える素振りを見せてから、こう言った。
「では、条件付きで3億円」
今度はさすがに心臓が跳ねた。
「条件……?」
「はい」
彼は、初めて真剣な目で私を見た。
「妊娠は、私との関係によるものとします」
一瞬、頭が真っ白になった。
「……それって」
「性交による妊娠、という意味です」
言葉ははっきりしているが、声はあくまで落ち着いている。
私は反射的に身構えた。
「それ、身体目的ってことですか?」
マシューは即座に首を振った。
「いいえ」
そして、静かに続ける。
「身体目的なら、私にはほかにいくらでも手段はあります。若い女性も、健康な女性も、金でいくらでも」
それは否定のしようのない事実だった。
「3億円を支払う理由は、そこではありません」
「じゃあ……なに?」
マシューは少し間を置いてから答えた。
「あなたが、心理的にこの取引を受け入れやすくなるためです」
私は息を飲んだ。
「人は、一度関係を持った相手に無意識に好意や信頼を抱きやすい」
まるで講義のような口調。
「それは、あなたを縛るためではありません。むしろ、あとから後悔しないためです」
逃げ道を塞がれているのに、なぜか配慮されているような錯覚を覚える。
「そしてもう一つ」
マシューは、はっきりと言った。
「これ以上の金額の上乗せは、ありません」
その一言で私は理解した。
これは、最後の提示なのだ。
ここから先は、選択しかない。
3億円。
私の人生を丸ごと買い取っても、まだ余る金額。
その代わり、私は母親にならない。
産んでも、名乗れない。
思い出すことすら、許されないかもしれない。
でも――。
私は、ふと気づいてしまった。
この条件を提示されている時点で、私はもう「守られる側」ではない。
利用されている。でも同時に、必要とされている。
それが、これまでの人生で一度でもあっただろうか。
私は、ゆっくりと息を整えた。
「……少し、考えさせてください」
マシューは満足そうに頷いた。
「もちろん」
その笑みは、最初から答えが決まっている人のものだった。
私は、自分がどこまで追い詰められているのかを、ようやく正確に理解し始めていた。
そして同時に――。
この提案を、完全には拒絶できていない自分がいることも。
お読みいただきありがとうございます。
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