浮いた話
息子や娘たちがそろそろ恋愛市場に入る年頃となり、心配ごとが尽きません。
アプリや結婚相談所では女性がヤバすぎて男性不足となるも、まだ目を覚まさない方々もいるようです。
草食化したのではなく、腐った肉を食べなくなっただけと言う人もいますね。
子どもたちのためにも早く恋愛市場が正常に戻ればいいなぁ……なんて、そもそも正常な状態なんて私にわかるはずもありませんが、ちゃんと向き合わないとですね。
そんなふうに考えてもらえる作品にしたいと思いましたが、さてはて。
私に浮いた話がやってきた。
背筋も凍るような思いとともに。
「さむっ」
私がそう身震いしたその瞬間、グッと内臓を押し上げるような感覚とともに私の身体はベッドに落ちていた。
ベッドの下に落ちたのではない。ベッドの上に落ちたのだ。
そして遅れて落ちてくる布団の重み。
いったい何が起きたんだろう?
ベッドの上で弾む反動が収まったあと、私は少し目をパチクリさせ、寝転がったまま自室を見渡した。
カーテン越しの朝日がピンクのカーペットにぼんやりと模様を描いていた。推しの男性アイドルのポスターは今日も変わらず私に優しく微笑んでくれているし、子どもの頃から捨てられていない学習机の上に飾られた同じ推しの写真立ても倒れていない。
……地震の類ではないようだけど……?
私は今起きた現象を冷静に考えてみた。
寝ている間、私は掛け布団を持ち上げて空中に浮いていたのではなかろうか。
そうすれば背筋が凍る思いがしたのは背中の下に冷たい空気が入り込んだことによるものだと説明がつく。
そして意識が覚醒することによって夢から覚めたように不思議な力は消え、浮いた身体がベッドの上に落下した――つまり、この状況を作り上げるために必要な条件は私が夢を見ていることになる。
そんな意味不明で間抜けな考察を寝ぼけた頭でしながら、私はカーテンから差し込むわずかな陽光に顔を向け、ゆっくりと身体を起こした。
まだ虚ろな思考で時計をひと目見て、ぼんやりと一階に降りるのはまだ早いと考えた。
定年間近の父がまだ出勤前の時間だったからだ。わざわざ顔を合わせる時間に降りていって言葉を掛けられるのもダルい。
私は適当に髪をクシでとかしながら、持て余した時間に何を思うでもなく、先ほどの不思議な浮遊感を思い出そうとしていた。
あぁ。もし空が飛べたなら、こんな最低な思いはしていなかったのに。
そんなふうに恨みがましく思ってはドレッサーの前に腰掛けた。
たしか、もっとフワフワした感じで、足も水平に上に向かっていく感じで……。
私はイスに乗せたお尻に全体重を預け、両手両足を空中に持ち上げていた。
そしてそんな滑稽な姿を映す鏡の中の自分と目が合って、少し恥ずかしい気になった。
「アラフォーにもなって、なぁにやってんだろなぁ……」
私は少し自嘲気味に笑ってフッと肩の力を抜いた。
するとどうしたことだろう。急に視界が私の意思によらず下のほうへ落ちていったのだ。
「わっ」
私は思わず声を上げた。妙な浮遊感。私はそれをめまいがして倒れる前兆なのではないかと思った。
「あれ……?」
しかしいくら衝撃に身構えていても私の身体にそれは訪れなかった。
痛くなかったのはよい。だがおかしい。
現に私のめまいはいまだ収まっておらず、こうやって見慣れた部屋の景色もグルグルと回っているというのに……。
回ってる……?
そこで私は不審に思った。
いや待て。いくら寝ぼけまなこであったとしても、ここまでアホなことが起こるものかと。
いくら夢であったとしても、さすがに目が覚めていてもいいのではないかと。
空を飛びたいだとかそんな願望を抱える歳は今はもう遥か彼方に置き去り、男を知り社会を知り現実を知り、すべてに打ちひしがれるような歳になってまでそんな非現実を夢見たりするものかと。
ここで舞い上がりでもしたら、私はまた地に落ちる。
そんな考えが真っ先に思い浮かぶような歳になってまで、勘違いでも空を飛んだなんて言いはしない。
だけど……。
「う、浮いてる……?」
見間違いはしない。
鏡に映った私の身体は、間違いなく床から1メートルほど離れていたのだった。
|馬場«ばば»|茜«あかね»、38歳。彼氏いない暦5年、婚活中。
性格は普通だし、昔はそれなりにモテるほうだったので見た目は上の下だと認識している。
実家暮らしで兄弟は兄が一人、結婚して出ていったので今は両親と三人暮らし。
パート勤務で年収は二百万円くらいだが生活費が不要なのでそれなりに趣味にお金を掛けられるような生活を送っている。
ただ一つ、悩みがあるとすれば将来に対する漠然とした不安や焦りが日に日に強くなってきていること。
もしもこの先、両親がいなくなったあとに私の生活を支えてくれる人が現れなかったら私はいったいどうなるのだろうか、と。
だけど、このときの私は、今日を境に何かが変わるような気もしていた。
マッチングアプリでも結婚相談所でも賞味期限切れだの子供部屋未使用おばさんだの言われ、だんだん男に相手にされなくなってきた頃ではあったが、そんな私に、とうとう浮いた話がやってきた。
そのあと私は感覚を忘れないうちに身体を空中に停滞させる練習をし、浮くことに慣れていた。
それはやってみれば自転車の練習のようなもので、感覚的に覚えさえすれば思いどおりに浮いたり降りたりできるものだった。
そしてその頃にはもう、寝ぼけた私の頭も完全に覚めていた。
これは、夢ではない。
人類史上、初だ。
長い歴史のなかで誰もが夢焦がれながら到達できなかった領域に私は踏み込んだのだ。
そんなふうに童心に返ってはしゃいでしまうのも仕方のないことだろう。
どれだけ飛べるのか知りたくならないわけはないし、人が飛んだとなれば世界中の注目を集めて時の人となろう。
だが喜びのあまり窓を開いてイカロスよろしく外に飛び立ってしまわなかっただけ私は大人だったと思う。
私がすぐ舞い上がらずに思いとどまった理由があるならば、私にはそのあとどうしたいかのビジョンがまったくなかったからだ。
もしかしたら有名になって将来的なお金の心配がなくなるのではないかと考えなかったわけではない。
だけど、今までの人生においても、少し浮かれたあとは決まって不安が私の心を支配したからだ。
そもそも、何かの間違いで変な力を授かっただけで、明日には水疱のように消えてしまっているかもしれないわけだし。
空を飛んでいるときに急に感覚を忘れてしまったら墜落して死んでしまうわけだし。
私は少し臆病になって、まずはカーテンを閉め切った部屋の中で十分に実験をしてみるべきだと思い至り、そのあと三十分に渡って自分の能力の限界を試していた。
そしてわかったことと言えば、非常に残念な結果だったということだ。
まず、この能力は『飛ぶ』と言うより『浮く』と言うのがふさわしい。どうやら最高高度が地面から1メートルほどしかなかった。
そして悲報。この能力は移動には適さないということ。多少は前後左右に動けるが移動速度は歩くよりも遅いのだ。結果、ただ少し浮くだけで、ほかに使い道がない能力だと判明してしまった。こんな超常現象を感覚的な表現以外で説明できる気はしないが、この能力が練習によって伸びしろがなかろうことを私は感覚的に悟ってしまったのだ。
タダで海外旅行に行けないどころか近所のコンビニへも歩いて行ったほうが早い始末。これではなんの意味もない。
無償で授かったものに文句を言うつもりはないが、せっかく授かるなら強盗に役立つ能力だったり、ムカつく弱者男性をバレずに処せる能力だったらよかったのにと思わずにはいられなかった。
ただ宴会の演し物としては驚かせることくらいはできるだろうけど、これでは動画投稿サイトで何かを始めようとしたところですぐに飽きられてしまうのがオチだ。
よかった。
調子に乗って窓の外へ飛び立ってなくて本当によかった。
私はそんなふうに胸をなで下ろしつつ、やるせなさを感じていた。
やはり人生、そううまい話はないらしい。
下手に人前で見せるのもデメリットしかない気がするし、軽々しくそれを使えないことは理解できる。
せっかく人類が夢に見てきた力を得たというのに、私はそれに気づいた直後から失望し、浮かれていた自分を恥ずかしいと思った。
そして試行錯誤に使ったこの三十分間を無駄にした挙げ句、この能力は初めからなかったものにしようと決めていた。
私の浮いた話は、すぐに地に足をつけてしまうことになったのだ。