今の自分の姿
「うわぁーーん」
蜂だ。怖い。どうして私はこんなところにいたのだったか。
幼い手で何とか払おうとするけれど、頭上を飛び回る蜂が怖くて泣くことしかできない。
「ミレーネ!!」
「カルロス!!うわあぁん!!!」
「くそっ!」
ジャケットを脱いだカルロスは、私の頭の上をばさっばさっと払うと、一回り大きな手で私の手を攫った。
「走るぞ!」
(ああ、なんて頼もしい)
不思議だ。足がすくんでいたのに、カルロスとならどこまででも走っていける。前を走るその背中を見て、胸に切なさが込み上げた。なぜそんな風に思ったのか分からないけれど。
「しつこいな、まだこちらに向かってくるぞ」
「っっっ!!やだあ!!!」
「…ミレーネ、頭の花冠を捨てろ!」
「だめだめ!!これカルロスが作ってくれた…あっ!!!」
花冠は蜂に向かって投げられてしまった。この世で一番大事なものがぞんざいに扱われた気がして、胸に杭を打たれたみたいな衝撃が走る。涙が一気に溢れた。
「泣くな!あんなもの、また作ってやる」
「カルロスのばかあ!あれが良かったのにっっ!!」
足を止めて後ろを振り返ると、蜂たちは花冠に群がってブンブンと羽音を鳴らしている。
「あっ……」
私の横顔を見て仕方がないと言うため息をついたカルロスが私の手を取って、跪いた。
「カルロス、ごめん…助けてくれたのに馬鹿って言った」
「そんなのは良い!けど、ミレーネが泣くのはすごく嫌だ。だから、これから毎日ミレーネに花冠を作ってやる」
「ほんとに?」
「ちょっと待って」
まだ花の咲いていないクローバーを摘んでちまちまと何やら編んでいる。
「左手、貸して」
「ん、」
少しブカブカのクローバーの指輪が薬指を滑った。
「カルロス・スノウレストは、ミレーネ・ドトレストを生涯愛すると誓います」
「カルロス、しょうがいって何?」
「六歳は知らないかも知れないが、七歳の僕はバレンシアの結婚式に行ったことがあるから知ってるんだぞ。生涯っていうのは生きてる間って意味だ!」
「じゃあ私は、天国に行ってからもカルロス好きー」
「ずるい!僕は生まれ変わってもミレーネが好きなんだぞ!」
「そしたら私は千年好きー」
「なら僕は一億年だ!」
「いちおくってなに?」
「もういい、キリがないからやめよう」
薬指のクローバーの指輪はすごく儚げで、すぐにでも萎れてしまいそうだった。
だから私は、壊さないようになるべく触らないように。
「へへ、カルロスありがとう」
「返事は?結婚の、返事」
「ちょっと待って」
私は袖の赤いレースが一箇所ほつれていたのを思い出して、そこから多分二十センチくらい糸を引き出した。
それをカルロスの薬指にくるんくるんと巻き付けてから蝶々結びにした。私の左手を重ねる。
「ミレーネ・ドトレストはカルロス・スノウレストをいちおくねん愛すると誓います!」
それで…それでカルロスは、私の頬に口付けしたんだった。
家に帰ったら、蜂に襲われて助けてくれたカルロスに、お父様と一緒に改めてお礼に行った筈だ。この頃、前スノウレスト伯爵はまだご健在で、父は多分それを口実に、親友である伯爵と酒を酌み交わしたかったのではないかと大人になってみて気がつく。
けれど、それからどうやらカルロスと遊んだ記憶がない。どうしてだったか。
そういえば、あのクローバーの指輪は、どこにしまったのだったっけ。
「う、ん?」
朝だ。私は生きている。身体が重たく感じる。水が飲みたい。
(そうだ、私は昨日死に戻ったら両親を亡くしていて、旦那様が…)
「うっ…おえっ…っっはあ、はあ、は…」
水指が重たい。ぶるぶる震えながらグラスに注ぐ。滑り落ちて行く水が朝日に乱反射した。
乾き切った喉を、枯れた体を、冷たい水が浸透して行く。
ひたり、頬に触れてみる。
昨日は萎れていた肌が少しだけマシになっている気がする。
「そういえば、鏡を見ていないわ。私、どうなって…」
鏡台に駆け寄ると、なぜか鏡の部分が取り外されているではないか。
「え?どうして…」
その異様さに、思わず後退した時、肘に水指が当たって溢れた。
「大変!拭くものを…」
ぴちょん、
サイドレストから横倒しになった水指から水滴が落ちて、水たまりを揺らした。
朝日が反射している。水が、陽が、水たまりを覗き込む私を映し出している。
(ああ…)
がしゃん!!
横倒しになった水指が転がり落ちて、派手に割れた。
「どうしました!ミレーネ様!」
朝支度をしに来たローラが扉を開け、私を見ると固まった。
「ローラ、死ぬって、こういうことなのだわ」
「ミレーネ様…まさか…ご覧に…」
水は、容赦なく二十歳は年老いてすっかり老婆になった私を映し出している。
「泣きたくても、涙すら出ない程にこの身体は枯れてしまった」
「ああっ!ミレーネ様!」
ローラが私にしっかりと抱きついて、何か励ましの言葉を掛けてくれているけれど、私の耳には届かない。
(花冠、そうだ。どうして私は死に戻った時、花冠に囲まれていたのだろう)
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