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滑る指

「どうかしら、カルロス…」

「身支度が済んだのか?ティータイムの時間だから店に行くには丁度良……」


 はくはく、と何度か口を動かしたカルロスはそのまま固まって黙してしまった。


「カルロス?」

「あ、いや…」


 どうしてか慌てている彼の袖を、ローラがちょんちょんと引っ張った。落ち着きのない主人を横目で見ている。


「その、良かった、と思って」

「ええ、ローラが綺麗にしてくれたの。見て、この小さな帽子。帽子に目線が行くから白髪があまり目立たないと思わない?よく考えられているわ」

「そうだな」


 袖を引っ張っていたローラが、今度は主人の脇腹あたりを肘で突いている。

 それでカルロスは何でか顔を赤くさせてから、絞り出すように言った。


「…その、だからつまり…綺麗だ」

「全部ローラのお陰なのよ」

「それだけじゃなくて…」

「ええ、そうね。ルイドスやカルロスのお陰でもあるわ」

「ミレーネだって懸命に努力しているじゃないか。日暮れと共に庭園で歩行訓練しているのを知らないとでも?」

「え、あっ…」


 こっそり歩く練習をしていたのを知られていた。何度も腰を叩いたり、ふうふうと息をあげていたのを見られていたのかと思うと、恥ずかしさが込み上げてきた。

 俯く私に、カルロスは手を差し出した。


「君自身の努力が、今の結果だ。僕たちはただ傍でそっと見守っているにすぎない。もっと自分を誇ったら良い」

「…あ、りがとう…」

「さあ、今日はそんな毎日の気分転換だ。大いに楽しんでほしい」


 繋がれた手が熱を帯びている。それを悟られないか不安で何度も解こうとしたけれど、カルロスがそれを許してくれない。


(私、どうかしているわ。こんなにも切ない気持ちは初めてよ)


 締め付けられるような心臓と、覚束ない足。定まらない視線。

 ロシュアに対してこんな気持ちを覚えたことはなかった。確かに好きあったはずだ。記憶にはあるのに、その時の感情だけが思い出せない。

 想い人という単語を辞書で引いたら、ロシュアの名前があったので「ああそうか」と納得させられて、覚えたという感覚のほうが近い。


 ならば私は、本当の恋を知らないのかしら。


(恋?そんな訳ない、カルロスは幼馴染で…)


 名前のないこの気持ちを、誰か説明してほしかった。


「きゃあ!」


 ぼうっとしていて、乗り込む馬車の段差に躓いてしまった。私を支えてくれるカルロスの腕は頼もしい。


「ほら、足元に気をつけて」

「いたた…」

「ぶつけたのか?中に入って見せてみろ」

「平気よ、大したことないもの」


 馬車に乗り込むと、中の装飾が随分と様変わりしていることに気がつく。


「まあ!まるで別の馬車のようだわ」

「…前に馬車に乗った時、ミレーネが辛そうだったから、椅子の座り心地を良くしたり、クッションを増やしたりしてみた」

「乗り心地が悪かったとかではないのよ!?ただその、私が痩せてしまったから…」

「別に無理することないじゃないか。骨が当たったりして長い時間座っていられないんだろう?」

「でも…わ、私、本当に…何もお返しできないわ?どうしましょう」

「別に、見返りが欲しい訳じゃないから良い」

「でも…」

「それより早速座ってみて欲しい」


 知られていたのだ。隠し事が全て。隠しているつもりだった自分が恥ずかしい。

 促されるまま椅子に腰掛けると、まるで雲の上に座っているかのような座り心地に驚く。


「ふかふかだわ!どうして?」

「家具職人と相談して作ったんだ。随分こだわったんだぞ」

「私…本当に…」

「うん?」


 そんなに優しくしないで欲しい。老婆が勘違いするなんて滑稽じゃないか。


(そうだわ。カルロスはただ私が老婆だから優しくしているのよ)


 ふう、と息を吐くと「見せてみろ」と言われたので困惑する。


「な、何を?」

「さっきぶつけたところ」

「大丈夫よ。ちょっと打っただけだもの」


 無意識に脛を摩ったので、「ふうん」と言ってから、するりと筋肉質な腕がドレスの上を滑った。


「カルロス?」


 ほんの少し、ドレスの裾を捲って痛む脛に中指が伝っていく。


「痣になっている」

「き、きゃあああぁ!!!??」


 私の悲鳴に、コンコンと外から御者がノックした。訳がわからずパニックになる私の口を大きな手が塞いだ。


「出立しても大丈夫ですか?何かありましたか」

「いや、なんでもない。行ってくれ」

「かしこまりました」


 どきどきする。

 また心臓が止まって死んでしまうのかもしれない。

 カルロスは私の口を右手で塞いで、御者が持ち場に戻るのを耳で聞いてから「全く」と言って振り向いた。


「あのなあ、そんなに叫ぶことか?」

「〜〜〜っっっ!!!」

「……ミレーネ?」


 僅かに眉間に皺を寄せている。ちらちらと瞳が揺れ動くのを見て胸が痛む。

 身体が硬直してうまく動かない私を覗き込むように、カルロスの顔が近づいてきた。

 私の口を塞ぐその手に唇が近づいた時、がたりと馬車が動き出した。

 それでカルロスは、ハッとして私の口から手を離した。


(何が、起こったの)


 訳がわからぬまま、大層座り心地の良くなった馬車は進む。

 氷菓子屋に着くまで、カルロスは一言も喋らぬまま窓の外へ顔を背けていた。

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