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これは契約結婚

 猫足のバスタブにはヒヤシンスの花が浮いている。

 ローラの指が頭皮を滑った。


「…これも、マロニカ薔薇園に咲いているヒヤシンスなのかしら」

「ええ!そうですよ。カルロス様からお聞きになったのですね」

「あの薔薇園は今、スノウレスト家の所有だと」

「何を仰いますか!いずれはミレーネ様にお返しするつもりで、その為に庭師や管理者に今までの五倍の金額を支払っているのですから!いくらシャルマン伯爵でもそこまでされたら、手を引くだろうと」


 え、と言ったが、別の侍女に窘められたローラは口を噤んでそれ以上何も言ってくれなかった。

 今日のオイルは、レモンバームとヒヤシンスから抽出したオイルらしい。


(甘いけれど、すっきりした香りだわ)


 手で掬っては何度も香りを嗅いでみる。

 ローラがふふ、と笑みを漏らした。


「色んな花をオイルにしてみようと提案したのはカルロス様なんですよ」

「そうだったの。お父様は、薔薇のオイルは手掛けていたけれど、どうしても好みが分かれるの。薔薇というのは、ご婦人は好んでも、男性は嫌厭するでしょう?種類が豊富なら土産品にも喜ばれそうだし、名案だわ」

「ええ、それはもう熱心に取り組まれておりますわ。このオイルは男女問わずとっても人気があるのですよ」


 それはそうだろう。香りの素晴らしさもさることながら、私のシワだらけの肌が回復しているのは食事だけではなく、このオイルの効果が大きい。

 ふと、バスタブの足元に置いてあった綺麗な小瓶が目についた。恐らくオイルが入っているものだ。美しい書体でラベリングされている。


「リメンドット…?このオイルの販売名かしら?」

「ええ。カルロス様が付けたのですよ。ドトレスト家を忘れない、という意味の造語なのだとか」

「え……?」

「…カルロス様はいつだってドトレスト家の皆様方を想っていらっしゃいます」


 幼馴染がこんなにも心を寄せてくれるなんて、と思うと嬉しくて気恥ずかしかった。


「本当に、カルロスに恩返ししなければ」

「うふふ、きっと喜ばれますわ!」

「まずは、カルロスが想い人と万事うまくいくように、私ができることはなんでもするわ!私、まだどなたか存じ上げないの。ローラはどんなご令嬢か知っている?」

「カルロス様から伝えられていないのなら、私が言うのは野暮というものでしょう」

「そういうものかしらねえ」

「…手が届くようで決して届かない、そのような方ですよ」

「手が…届くようで、届かない…?」


(私が知っている方の中にいるかしら…)


 湯浴みを終えて、夕餉の為に選ばれたドレスは薄い水色だった。


(シワだらけの白髪頭がこんなに綺麗なものを着たって、滑稽なだけなのに)


 そう思うけれど、選んでくれた手前、黙って袖を通した。

 かつて鏡がかかっていたであろう壁には、鏡の形がくっきりと境目になっている。映りもしない壁に向かって頬をぺちぺちと叩く。ぶよぶよとして弾力がないけれど、それでもオイルの効果で中年くらいには若返った気がする。

 この効果は一時的なものなので、続ければ続けるほどに良いと聞いた。その為には食事も大切なのだと。

 まだ、本当に元の姿に戻るかは半信半疑であるけれど。


 ぐうぅ…


「あっ…」


 食事のことを考えたからだろうか。お腹の音を聞いたのは十ヶ月ぶりである。


「あらあら!すぐに用意させますわね!」


 ローラは眉尻を下げた満面の笑みで、足早に去って行った。


(お腹の音が鳴るなんて、はしたない…でも)


 今は体の素直な反応が嬉しかった。私は生きているのだと実感できる。この身体は、懸命に戻ろうと奮闘している、そんな気がした。


 ダイニングには、取引先から帰って来たばかりだというカルロスが、タイを緩めて上げていた前髪をぐしゃぐしゃと下ろしていた。


「お疲れ様でございました」

「おや?ミレーネ、オイルの効果が少し現れて来たみたいだな」

「本当に、カルロスやローラ達のおかげだわ」

「…旦那様」

「え?」

「これから僕のことは旦那様と呼んでくれるんじゃないのか?あれ以来、一度しか聞いていないぞ」

「ふふ、おかしなカルロスだわ。まるで待ち望んでいたみたいに言うのね、旦那様」

「わはは!いざ言われるとこそばゆいな。勿論、待ち望んでいたに決まっているだろう?」

「まあ!ふふふ」

「お、笑ったな。塞ぎがちだったから、笑顔が見れると正直ほっとするよ」

「ありがとう」


 運ばれて来た食事には、柔らかそうな白パンが付いていた。


「わ!パンだわ!!」

「なんでも水分量がすごく多いパンらしいぞ」

「嬉しい…嬉しすぎるわ…っ!!」

「それは良かったな」

「もう、カルロスは気にしないで普通のものを食べてって言ってるのに。また私に合わせた食事を?」

「良いじゃないか。好きでしてるんだから」


(いけない)


 不覚にもどきりとしてしまった。まるで本当の新妻のように労わってくれるから、カルロスの優しさに心が動かされてしまう。

 目の前の幼馴染がにこにこと美味しそうに頬張っているパンから、湯気がたった。

 作りたての、私のために作られたパン。この幸せが萎んでしまわないように、ゆっくりと噛み締めた。


「このパン、ふかふかだわ!それに、もちもちだわ!」

「…良い顔して食べるなあ」

「はしたなかったかしら」

「大いにしてくれて構わない。心許せる仲なんだからな。…ああ、そうだ。これ」


 差し出されたのはパーティーの招待状だろうか。私はチラッと上目でそれを見ると、すぐに視線を逸らせた。


「私に気を遣わず、行ってちょうだい」

「君も連れて行きたい」

「…え?私を?やだ、だって私こんな…なんの冗談?」

「冗談じゃないさ。そこで君を妻として紹介したい」


 椅子が倒れた。私が勢いよく立ち上がったからだ。

 理解ができず、わなわなと震える。


「紹介?妻として?」

「…君は鬼籍に入っているんだから、正式な書類が出せないだろう。今の君が、ウェディングパーティーができるとも思えない」


 これは、カルロスが想い人と添い遂げるための契約結婚なのだ。なら、私はこれまでの恩義に尽くさなければならない。


(当たり前だわ。私、カルロスの優しさに勘違いして、馬鹿みたいだわ)


 さっきまであれほど恩義を返したいと言っておきながら、自分勝手な自分自身に嫌気がさした。

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