溢れる記憶(カルロス視点)
ミレーネはあの日のことを、必死に思い出そうとしているのだろうか。逡巡しているのか戸惑っているのか判然としない。
「…覚えていないのか、本当に」
「なんだか靄がかかったみたいで…」
「そもそも君は、以前ロシュア殿から求婚された時、一度断っているだろう。それも覚えていないのか?」
「え……?おかしなことを…私、旦那様とはあの日初めてご挨拶をしたのよ…。あれ?でも、そんな筈はないわよね。広い社交界とはいえシャルマン家に一度も挨拶したことがない、など…」
彼女は困惑の中で、必死に何かと戦っているみたいだった。
こめかみに手を当てて、閉じた瞳には細かく皺が寄った。
「あの日確かに初めてお会いして……」
「ミレーネ、百合の花を覚えていないか?…君に求婚する者は多くいたが、ロシュア殿は頻繁に君に百合の花束を送りつけたと聞いている」
「百合……」
ミレーネは頭を抱えて、ぴったりと動かなくなった。まるで人形のように。
「ミレー…」
「この純白こそ、君に相応しい」
「え?」
「そんなことを…言われた気がするわ。毎日百合を送ろう、求婚を受けて欲しい…。そう言われた。それで、毎日百合が送られてきたのよ」
僕は、記憶を手繰るその瞳に光が差したのを見て、ハッとした。
今、この瞬間、ミレーネは確かに核心の部分を思い出しつつある。記憶の尻尾を掴み損ねぬ様、微動だにできないでいる。
「わ、私…その百合を見る度に胸焼けを起こして…」
「胸焼け…それはなぜだか思い出せるか?」
「あの人が私に異常なまでに執着するからよ!お父様から『金輪際贈り物をしないでくれ』と厳しく言ってもらったのに!それなのに、あの人は…」
「君はロシュア殿が嫌いだった?」
「好きも嫌いもないわ、興味がなかったの。なのに急にそんな風に毎日百合を送りつけられたって戸惑うだけだわっ!」
厳しい顔つきで嫌悪を隠さない。ミレーネがロシュア殿の話をするとき、こんな顔をするのを初めて見る。
細い小さな肩が上下に動くほど、荒い呼吸を繰り返している。
白湯を勧めると、一口飲んでからため息をついて、僕をじっと見つめた。
「…私…今何を?」
「ロシュア殿とのつまらない思い出を話してくれたな」
「あれ…私…どうして?どうしてあの人のことが好きになったのだったかしら…だって、だって私…」
理解できないと言う風に眉尻を下げて、口をぽかんと開けている。瞳がゆらゆら揺れて、その内がたがたと震え出した。
カップさえ持っていられなくなり、座っていたベッドの寝具を濡らす。自分の身体をぎゅうと抱いているが、震えは治りそうにない。恐怖で震えているのか、自分が抑えられないのか、そのどちらともなのかもしれない。
「ミレーネ」
「っ…」
僕は怒りにも似た感情が湧き起こって、痩せ細った彼女を抱きしめた。
(なんと儚げなんだろう)
もともと線が細かったけれど、枯れ木のようなミレーネは、生命エネルギーというものが今にも尽きてしまいそうである。
僕の胸で「ふう」と落ち着いたような吐息が聞こえた。抱き寄せたことで不思議と少しだけ震えが治ったらしい。
「ミレーネ、大丈夫だ。ミレーネ」
「カ、カル…カルロス…あ、ああ!わ、わた、私な、何を…」
「ミレーネ、大丈夫」
白く艶を失ってしまった髪の毛を何度も撫でる。
(こんなになっても、君からは懐かしい陽だまりの香りがする)
僕はミレーネが落ち着いてくれるまで、そうしていたと思う。
「カルロス、ありがとう。もう大丈夫だわ」
どれくらい経っただろう。不謹慎にも心地よさを感じていた僕から離れた彼女は、気丈な微笑みでしっかりと前を見つめた。
「…旦那様に関する記憶が欠落しているなんて、おかしいわよね。私の結婚自体にきっと何かあったのだわ」
「決して無理はしなくて良い。ゆっくりでも良いんだ。君の心まで死んでしまったら…僕は…」
「私ね、まだ夢なんじゃないかってどこかそんなことを思っていたの。本当の馬鹿なのよ、私。それではいつまで経っても前に進まないというのに。全ての現実を一度に受け止めるのは怖いけれど…」
ミレーネは強い眼差しのまま「でもね、カルロス」と言った。
「貴方が知っていることがあったら教えて欲しいの。私だけ十ヶ月前に取り残されたまま一生を送るなんてごめんだわ。私も、前に進まなければ」
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