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異国時代劇風短編集

Reconquista-レコンキスタ-

作者: 久蘭

Reconquista-レコンキスタ-


 石畳の表を流れてゆく恵みの雨は、カタルーニャの乾いた土地を潤す。

 それにしても、と修道士ディノは思う。雨の時期のこの季節は、街頭からこのごろ気に入りのショーム吹きの軽妙なしらべを隠してしまった。彼はきっと昼間っから酒場で日銭を稼いでいるのだろう。さすがに修道士の身分では、彼の笛の音を聞くためだけに盛り場をうろつくことなど許されぬ。

 ラ・ロカ(狂女)のことで街の人々の話題はもちきりだった。カスティーリャ女王ファナは、ハプスブルグ家のブルゴーニュ公フィリップを夫としていたが、眉目秀麗な浮気者の性質を許せず、常に心を乱していた。そして二年前に、即位に関して共同統治王としての位を求める諍いのなかにあってひどく苦しみ、その夫の逝去とともに、さらに深く心を病んだ。女王としての立場は愛を求めるファナに、どれほどの重圧を強いたのか。それから彼女は夫の棺を馬車に載せ、カスティーリャ中をさまよっている。人々はそれを『ラ・ロカ』と呼んで噂した。さすがに女王名指しというわけにもいかなかったので。

 高貴なる女王の本来の心情に深く考えが及ぶべくもないが、海路にあるとき嵐を鎮めるためにの海に投げ込まれる娼婦たちをかばったという内に秘めた深き慈悲を持つファナには、今のスペインで行われている異端審問が耐えられなかったのかもしれない。

 レコンキスタ、イスラム教徒からキリスト教徒のものへと、このスペインを再征服する栄えある偉業は、グラナダの陥落によって完成した。グラナダ条約によって、イスラム教徒の信仰は保証されているはずであるが、その年に始まった異端審問はイスラム教徒を追い出し、また、ユダヤ教徒に対しても厳格に改宗を求めることとなった。そして出国するすべを持たない異教徒に対して、教会は審問の手を緩めることはない。

 異端審問所の前で、ディノ修道士は立ち止まる。

 大きく深呼吸をして、この世に思い残すことは無かったか心の中を点検する。あと一度だけ、ショーム吹きの笛を聞くことが叶うなら、その上のことはないけれど。それから門番に取り次ぎを申し出る。

「ガスパール審問官にお取り次ぎを。昔、見習いの頃に修道院で教えを賜りました修道士ディノが参りましたとお伝え頂きたい」

 扉が開かれると、案内の修道士が迎えに出た。

 ディノ修道士は奥に進み、そして案内された一室で静かに時を待つ。

「これは、懐かしい方が来たものだ、ディノではないですか。元気でありましたか」

 黒い僧衣に身を包んだ審問官が入室すると、ディノ修道士は起立してこれを迎えた。

「ガスパール様が私に良くしてくださいましたので、今日の私がございます」

 子供時代のほんのひととき世話になっただけであるのに、幸いガスパール審問官はディノ修道士のことを忘れてはいなかった。短い挨拶だったが、ディノ修道士の中で遡りはじめた時間は過去の記憶を呼び覚ます。

「それで、今日は私にどのようなご用ですか」

 一通りの挨拶を済ませると、審問官はさっそく用件に入った。

「先日、異端の嫌疑が掛けられましたアラニス家の当主エミリオ様についてでございます。

かの方の嫌疑を晴らすべく、審問官にお話にまいりました」

「エミリオ・アラニスの件ですか、少々お待ちを」

 審問官は別室から分厚く綴られた書類を持ってくると、その名前を探した。

「使用人であるメイドから告発を受けていますね。異教の本を持っていた、とあります。 近々審問に掛けることになりますが、この件ですね」

 一番最後のページに、その名を見つけた審問官は、その行を指で押さえた。 

「はい。私が昔、グラナダ解放の際に、負傷者の看護と布教のために従軍していたことはご存じだと思います。その際、私は多少医術をかじりまして、現在もその際の経験を人々のために生かすことが神の御心にかなうものとして、懸命に務めております」

「そうでした。あなたが見習いとして私のそばで学びはじめてほどなくして、院長はあなたをグラナダに派遣なさったのでしたね。修道院長が特に若いあなたに経験を積ませようとなさった事です。無事に帰ったと聞いて、ほっとしたものですよ」

 審問官は、かつての日々を思い出したのか、心持ち声和んだ声であった。ディノ修道士は相手の心がほぐれたのを好機として、本題を持ち出すことにした。

「アラニス家は、いまでこそ昔ほどの財力はございませんが、グラナダ解放の際には、我々のもとにたくさんの物資と薬を寄進してくださいました。その献身を考慮していただきたいのです」

 あの戦争で、王国は商人たちに多額の借金をすることになった。とりわけユダヤ商人からの負債は大きく、今日の異端審問はその件での締め付けといってもよい。グラナダ陥落の当初は南部スペインにおいて生まれついての信仰の自由は保証されていた。それはローマも認めたことだったはずである。だが、この負債をうやむやとするために、渋るローマから強引に新しい異端審問の規定を決めて承認させた。

 そのようななかにあって、先見の明のあったエミリオが負傷者の看護にあたる修道会に対して物資の寄進を積極的に行ったことは、将来への投資に間違いはなかった。

 そのことを見透かしている審問官は、ディノ修道士の擁護の言葉には厳しくならざるをえない。

「ですが、寄進と異端の問題はまったく別のものでございましょう。それを加味して審問を行うのだとしたら、悪徳は富で解決できることになってしまう。私としては認めるわけにはまいりません」

 当然のことだ、とディノ修道士は思う。その程度のことで審問の手を緩めるわけがない。

 現在の嫌疑を晴らすための証拠とはならないからだ。

 仕方ない、腹をくくった。蒔いた種は自分で刈らねば。賄賂か、それともコネにつけいる隙があるなら、富豪であるエミリオが捕らえられたときに何かしら呈示されていたはずである。

 ディノは審問の際のことに思いをはせた。思わず深呼吸するが息も震えてしまう。

 そして心を決めてようやく話し始めた。

「私は今、アラニス家の奥方様の病気を診ています。もちろん、グラナダでの援助は我々にとって大変ありがたいものでした。その時のご恩返しの意味でも、なんとしても治癒してさしあげたいのです。

 それで、私が昔、グラナダにおりました時にたまたま目にしたイスラムの書に、我々の知らぬ東洋の薬の記述がございまして、それを思い出し、エミリオ様にお取り寄せ願ったものです。あれは私のものでございますので、審問にかけるならば、どうぞ私をお裁き下さい」

 ついに口に出してしまったが、それを云わぬままエミリオを見殺しにすることなど、当然修道士であるディノにはできないことだ。

「あれは、あなたが取り寄せたものなのですか。神に誓いを立てた身でありながら、なんという軽率なことをしたのですか。あなたの今の告白に対して、審問官である私は耳を閉ざすことはできません。あなたに対しても罪の告発を行い、後日、審問致しますので、この場にて収監致します」

 審問官の声は怒声に近かった。自分の関わりのある者が異端者として目の前にあれば、当然そういう反応になるだろう。

「ですから、エミリオ様に罪はございません。グラナダでの寄進は心からの信仰の証でございます。どうぞ、釈放願えませんでしょうか」

 捨て身の哀願が、果たして厳格なる審問官にどれほど通じるか、これは一つの賭けでしかない。

「それはどうでしょう」

 冷徹な審問官の言葉に、ディノ修道士は落胆する。

「──告発されておりますからには、それなりの根拠があると思われます。

 アラニス家の先代の当主は、イスラム教徒との交易のために、一時イスラム教徒を家に招き、その風習を真似していたというではありませんか。その息子であり、グラナダ陥落当時、南部に交易基盤を持っていたエミリオが、まだ異教徒との交わりに心を残しているということも充分考えられます」

 どうすれば、審問官から、エミリオの釈放の言葉を引き出せるのか、とディノ修道士は焦る。第三者の件まで持ち出したくはなかったが、この際仕方ないだろう。

「ですが、その告発には、メイドの逆恨みも考えられます。かのメイドは、どうやらエミリオ様の孫娘様に怪我をさせたようで、その事で怒ったエミリオ様が暇を出されたようでございます。それを正統な告発と申せましょうか」

「それは、当方で吟味することです」

 審問官の態度は、すでに先ほどの旧知の間の者に対するものではなく、厳然たるものだった。審問官が書類を閉じ、退出の用意をする。

「お待ちください、審問官」

 ディノ修道士は、話を終えようとした審問官を引き留める。

「私は、異端として審問されることを覚悟の上でこの場に参りました。審問に入りますれば、もう直接ガスパール審問官とこのように言葉を交わすこともかないますまい。

 ですから、今しばらく話を聞いていただきたい。その上での判断でございましたら、私も服従せざるを得ません。

 せめて審問官に、昔のよしみとしての情が、多少なりともおありなら、ですが」

 いま暫く駆け引きを。

 エミリオの厚い信仰心は間違いのないものである。そして、妻が病にかかったことに対してどうにかしたいと思う心は人として仕方のないことも。また、それに答えようと、いささか出過ぎた真似をしてしまったが、一縷の望みをと願う心に、悪魔が取り憑くというのだろうか。ヨブのようにあれと、天にあります方は我々にそう望まれるのだ。

「では、聞きましょう。他にどのような話がございます」

 そのひと言に、ディノ修道士は光明を見出した。

 まだ、すべての手を尽くしてしまったわけではない。

 ディノ修道士は、今まで秘めてきた事にまで口にするつもりはなかったが、もう後には引けない。

 生唾をゴクリと飲んだ。微かに肩が震えるのは、過去にあった忌まわしい記憶を呼び起こしたからに他ならない。

 次の瞬間に、その記憶からの精神の重圧から逃れ、平静を装って話し出すのに苦労する。

「私がグラナダへとやられた理由を、審問官はご存じないとは思いません。その事について、私がガスパール様を告発したらどうなりますか」

 今度はディノ修道士は審問官を厳しい眼差しで見つめた。

「審問官の叔父上は大司教であらせられた。わたしが最初に身を寄せた小さな修道院は、審問官が定住の場所としたおかげで様々な優遇を受けておりました。誰も、あの頃の審問官に対して、悪く云う者はおりませんでしたね」

 それが、ディノ修道士の手の中に最後に残った切り札であった。

 審問官は、突き上げるように頭を動かし、そして次にわずかに眼差しを泳がせた。

「思い出していただけましたか」

 意味ありげに微笑む。その芝居がかった仕草のせいで、胸のあたりから苦しいような熱が突き上げてくる。それに構わず、ディノ修道士はつとめて冷静に、言葉を紡ぐ。

「修道院長フェリシアーノ様は、ガスパール様の間違いに気づいておられた。ですから、もしこれ以上、ガスパール様が間違いを犯されることのないようにと、当時募っておりましたグラナダへの奉仕の一団への参加の際に、その手伝いとして私も加えたのです。

 この意味が、おわかり頂けますか」

 審問官の指先が、ガクガクと震えている。それを押さえながら、つとめて平静にと立ち上がる様子が見て取れた。そして開かれたままの扉を閉めた。

「何を言い出すのだ」

 そう云う顔が青ざめるのを、ディノ修道士は微笑んで見返した。

 だが、ここで攻める言葉を緩めてはならない。

「もし、私に悪魔が宿っていたのだとしたら、その時でございましょう、おそらく。

 私がもう少し大人でありましたなら、私の中の悪魔の意図を見抜いたかもしれません。

 ですが、なにぶん私も幼い子供でございました。赤ん坊が純粋に神の恵みのもとに生まれるのだと信じていた頃でございます。ガスパール様がなさった事が、どれほど罪深き事であるのか、その最後の瞬間まで理解できなかった。

 そして、その時の快楽こそが、悪魔の仕業と気づいた時、私はあなたから逃げ出した。 あの日も雨でございました。雨の中で、私は父なる方に問うた。私が悪魔の穢れを受けたのでございましたら、即刻稲妻をもって、罰をお下しくださいと。

 そして、私は今、ここにおります。

 私がその件について告発するとしたら、証人としてフェリシアーノ修道院長をお願いするでしょう。今、フェリシアーノ修道院長は大司教の要職にあらせられ、そしてガスパール様の叔父上はもういらっしゃらない。

 おそらく、フェリシアーノ大司教は、そのような昔の事などお忘れだと思いますが、私が告発したらいかがでしょう。古い記憶を思い出されるかと存じますが」

 相手の蒼白な顔に、ディノ修道士は勝利を確信した。

 だが、その勝利の感覚は、果たしてエミリオを解放するきっかけを見出したゆえだったのか。

「そなたはまた悪魔のごとく囁くのか。記憶すら曖昧な過去の事を持ち出し、まるで真実私に過ちがあったかのごとく言い放ち、そのことで己の罪に手心を加えよと私を脅すのか」

 取り乱す審問官を前にして、ディノ修道士は鏡のごとく落ち着いていた。

「私の望みは、ただ、アラニス家のエミリオ様の釈放でございます。

 全く他意はございませんし、私が異端の書を所持していたことに対しての裁きは謹んで受け止めます。

 ですから、どうぞこの件をご再考いただきたいと、私はそうお願いしているのです。

 グラナダにおける、エミリオ様の寄進をご考慮いただき、是非とも寛大なる措置をお願い致します」

 ディノ修道士が言葉を終えると、審問官はしばし言葉を失い、宙を煽いだ。

 その時、いつの間に雨が止んだのか、異端審問所前の通りでショーム吹きが楽しい調べを奏でながら通り過ぎるのを聞いた。その後に子供たち踊る靴音とざわめきが続く。

 これで思い残すことはないのだと、ディノ修道士は安堵した。

 安堵して、気づいてしまった。まだ、エミリオの釈放を取り付けているわけではない。

 あの日とりついた悪魔はまだ確かにそこに存在したのだ。


【作者コメント】

歴史的背景が説明的になっていないといいですが。

それにしても、ヘルシングのレコンキスタはかっこよかった(OVA)

あんな風なのが書きたいですね。


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