婚約者の浮気に怒らなくなった理由
私の婚約者は顔がいい。
婚約者のルカスと私フェリシアは、帝国の田舎で隣り合う領主の貴族の家に生まれ育った幼馴染みだ。
領地がお隣の田舎貴族同士、父親達も幼馴染みで仲が良く、一緒に進学して同じような時期に結婚して同じ年に男女の子供が産まれたから、そうだ、結婚させよう!というノリで私達の婚約は決められた。
そんなわけで、ルカスとは物心ついた時から頻繁に会って一緒に育ったようなものなので、ルカスの顔は見慣れてる。
田舎にいたときから、同年代の他の男子に比べてルカスの顔がいいのは薄々わかってたけど、まぁ貴族だからそんなものなのかなって深く考えたことはなかった。
身近な貴族である私の家族もルカスの家族も顔が良くてキラキラしてるし。私だけ地味な顔だけど。
顔面偏差値に差があれど、なんだかんだ仲の良い婚約者同士だったと思う。
イチャイチャするような関係ではなかったし、喧嘩もよくしてたけど、私が体調を崩したら毎日お見舞いに来てくれたり、ルカスにプレゼントするために刺繍をがんばったり、一緒にたくさん遊んで笑って成長して、誰よりも思い出を分かちあってきた。
っていうのは貴族学院入学前の話。
卒業すればそれだけでステータスになる帝都の貴族学院に、私とルカスは合格した。
受験の時や合格発表の時は、地元から二人で汽車に乗ってきた。駅から学校までの道中、人が多くてはぐれるかもしれないからって、手を繋いで帝都を歩いたのが懐かしい。ぶっきらぼうに私の手を握ったルカスの赤い耳を見て、甘酸っぱい気持ちになったのも今では過去のこと。
貴族学院に入学してルカスは変わった。
ルカスの顔は帝都でも上級の部類だったらしい。入学初日からルカスはすごくモテた。都会は自由恋愛の文化が進んでいて、婚約者がいようがルカスに群がる女子は後をたたなかった。
顔が良くても中身はただの田舎の少年だったルカスは、最初こそ婚約者がいるからって言い寄ってくる女子からのお誘いを断ってたみたいだけど、渡された手紙には律儀に返事を書いたり、一対一でなければ遊びにいったり、自称いじめられてる子に頼られて相談に乗ったり、だんだん交流が深くなる女子ができてきて、浮気をするようになった。
自称いじめられっ子を放課後の教室で抱きしめているルカスを見た時の衝撃は忘れられない。私だってあんな風に抱きしめられたことなんてなかった。すごくショックで、腹が立って悲しくて、ルカスと大喧嘩した。喧嘩っていうか私が一方的に責め立てた。「いじめられてるみたいで泣き止まなくて、抱きしめてほしいって言われて仕方なく」ってルカスは言い訳してたけど、それを皮切りに他の女子ともイチャイチャするようになった。
浮気現場に遭遇するたびに怒って、ルカスを詰って、寮に帰って一人で泣いた。
ルカスの浮気相手は頻繁に変わった。真剣交際は婚約者がいるからって断ってたらしい。ルカスの浮気相手達から何度も呼び出されて言われた言葉は「アンタと婚約してるからルカスは自由になれない」「ブスのくせに」「ルカスと釣り合ってないから婚約を解消しろ」「アンタが怒ったせいでルカスに距離を置かれた」エトセトラ。
何人と浮気しても本命は私なんだって自分を慰めてたけど、冷静に考えてみれば色んな女の子と遊びたいから真剣交際を断る口実にされてただけなんだよね。
直接言ってくるのは全然マシなほうで、ロッカーにゴミを詰め込まれたり、私物を捨てられたり、トイレの個室に閉じ込められて水をかけられたり、食堂でスープをぶっかけられたり、嫌がらせも色々受けた。自称いじめられっ子は本当はゴリゴリのいじめっ子で、なのに私にいじめられたってルカスに泣きついてたのは今思い出しても腹が立つ。でもそのおかげで浮気に腹が立たなくなったから、ある意味感謝でもあるんだけど。
そんなこんなで貴族学院に入学して二年。
ルカスは色んな女の子とデートしてるくせに、私とは帝都でデートらしいデートを一度もしたことがないので私から誘ってみた。
話題のカフェで待ち合わせ。張り切った私は一時間前に到着した。
約束の時間を十分過ぎた時。
「シア」
愛称で呼ばれて振り向いた。目が合ったルカスは、驚いたように目を丸くした。まじまじと私の顔を見ている。
「十分遅刻」
そう言うと、ルカスはハッとしたように謝った。
「待たせて悪かった‥っていうか、いつもと雰囲気違うけどどうしたんだ?」
「婚約者とデートに行くって言ったら友達がメイクしてくれたの」
貴族学院でできた一番仲の良い友達はとても器用で、私の普段のノーメイクの顔と大差がないようで確実に華やかなナチュラルメイクをしてくれた。髪にも香油をつけてくれて、ほのかに花の香りがする。
「そっか、友達が‥」
「変?」
「か‥いい、と思う‥」
なんだか歯切れが悪いけど、今更ルカスにどう思われてもどうでもいいか。
「それより、そちらの方は?」
ルカスの腕に絡みついている豊満な美女を見る。柔らかそうな大きな胸と、猫のような眦のフェロモン系美女だ。
「あー、さっきそこで偶然会って」
「アンナよ。最近ルカスと仲良くしてるの。私が行ってみたかったカフェに行くって話を聞いたから、連れてきてもらったの。ご一緒してもいいわよね?婚約者のフェリシアさん」
私はにっこりと二人に微笑んだ。
「もちろん。入りましょう」
「え」
なぜか固まったルカスをアンナが引っ張って店に入り、私が先導して壁際のテーブルについた。
ルカスとアンナはぴったりとくっついたまま座って、私は二人の正面に座った。
顔を寄せ合ってメニュー表をのぞきこむ二人は仲の良い恋人同士にしかみえない。私達の関係をしらない他人から見れば、私こそ二人のデートについてきたお邪魔虫に見えるんじゃないかな。
きらびやかなルカスと妖艶なアンナ。顔面偏差値の高い二人のツーショットは、相乗効果でキラキラしてる。アンナが婚約者なら、ルカスの彼女達に不釣り合いだの身を引けだの文句なんか言われなさそう。
注文が終わって、ぼーっと二人を見てたらルカスと目が合った。ルカスはおもむろにアンナの肩を抱いて、私に向かって鼻で笑った。
見せつけられてるみたい。最近あからさまなんだよね。
注文したデザートとドリンクはすぐにきた。
「ん!これ美味し〜!ルカスもほら、あーん」
アンナに差し出されたフォークに躊躇なく口を開くルカス。女子から「あーん」され慣れてるのが見て取れる。
「甘ぇ」
「もぉ〜、つ・い・て・る」
アンナが人差し指でルカスの唇をぬぐった。
すごい。絵に描いたようなイチャイチャだ。
私がルカスなら、あんなふうに妖艶な美女に唇を撫でられたら顔が真っ赤になりそうなのに、ルカスは平然としてる。女慣れがすごい。
ぶっきらぼうに私の手を握って耳を赤くしてたルカスはもうどこにもいないんだなって、改めて思う。
「そういえばぁ、二人ってなんで婚約してるの?学院でも一緒にいないし、全然仲良さそうに見えないけど」
「別に」
別にって。質問の答えになってないルカスに代わって私が説明する。
「親同士が仲良くて、物心がつく前に親に決められたの」
「え〜!勝手に決められたの?今どきありえな〜い。可哀想〜!」
「そうなの。自分の意思で决めた婚約じゃないのに、ルカスの歴代の彼女達に睨まれて困ってるの」
「え」
「あ〜、フェリシアさんよくルカスの彼女軍団に呼び出されたり、嫌がらせされてるよね〜。勝手に決められた婚約で可哀想すぎ〜」
「は?なんだよそれ‥」
ルカスがアンナを睨んだ。
そのルカスに私は冷たい視線を送る。
「アンナさんに嫌がらせされたことはないから。アンナさんはともかく、ルカスの他の彼女達にしてみれば、親に無理矢理決められた婚約者の私は排除したい邪魔な存在なのよ。私が何もしなくても嫌われるし、大なり小なり嫌がらせされることくらい考えたらわかるでしょ」
「なっ、彼女とか‥」
「でも〜!フェリシアさん何も悪くないのに、ルカスの彼女ズに逆恨みされてるってことだよね。勝手に決められた婚約のせいで」
「そう。トイレの個室に閉じ込められて、上から水かけられて風邪引いたり。ひどいでしょ?親に決められた婚約のせいで」
「だったら‥婚約解消すれば平和なんじゃない?」
アンナが意味ありげに妖艶に微笑んだ。
私も微笑み返す。
「うん。私にとって、ルカスとの婚約は不幸でしかないから解消したい。ルカスももう婚約なんて煩わしいでしょ?」
「‥彼女なんかいない。だから婚約は解消しない」
私を睨んでくるルカスに肩を竦める。
「じゃあガールフレンド?どっちでもいいけど、彼女でもない女の子とベタベタ触れ合うなんて卑猥ね。色んな女の子と遊びたいからって、女の子を捨てる時に、私との婚約を言い訳にするのはやめてほしいわ。おかげでこっちは大変なんだから」
「そんなつもりは、」
私は大きく息を吸った。
「パパ!おじさん!二人はどう思う?」
「は‥?」
ルカスが私の視線の先を追って、油の抜けたブリキ人形のように後ろを振り返る。
身内贔屓ながらナイスミドルな二人の男性が沈痛な面持ちで立ち上がり、私達のテーブルまで移動してきた。
「親父‥おじさん‥なんで‥」
唖然としているルカスの頭に拳骨が落ちる。ルカスの父親であるボルホール子爵は、優雅そうな見た目に反して武闘派だ。
ルカスに拳骨を落としたボルホール子爵は、私に向かってがばりと頭を下げた。
「フェリシアちゃん!ウチの馬鹿息子が迷惑かけてすまない!」
「シアが婚約破棄したいと言い出した時は、痴話喧嘩でもしてるんだろうと思ってたが‥もっと真剣にシアの話を聞いて、早く婚約を解消してやるべきだった。子供同士を結婚させたいという、親の勝手で辛い思いをさせて悪かったな」
パパはしょんぼりとしている。娘が婚約者の彼女達からいじめられてるのがショックだったみたい。婚約破棄したいと相談しても真剣に取り合ってくれなくて不安だったけど、うまくいったみたいでホッとする。
「じゃあ、婚約破棄してくれる?」
「もちろん、今日をもって二人の婚約は解消だ。なぁ?」
「あぁ。謝って許される問題じゃないけど、本当にすまなかったね」
「頭をあげて、おじさん。私は婚約さえ解消できればそれでいいから」
ダンッとルカスがテーブルを叩いた。
「っ勝手に話を進めるな!こんな、俺をハメるような真似、ずるいだろ!」
バキッとルカスの頬に拳が飛ぶ。
「お前にそんなこと言う資格があるか!この馬鹿息子が!」
まずい。さっきからチラチラこちらの様子を見ていたカフェの他の客や定員がザワザワし始めた。自警団を呼ばれたりしたら面倒な事になる。
「おじさん、落ち着いて。とりあえず座ってください。あのね、ルカス。パパ達が帝都に出張で来るのを知って、ルカスにサプライズで落ち合おうって計画したのは認めるけど、この場にアンナを連れてきたのはルカスの意思じゃない。私が誘ったのはルカスだけ。ルカスが一人で来てれば計画通りただのサプライズだったのよ」
「それはっ‥こいつが勝手に着いてきただけで」
アンナは小首を傾げた。
「私〜?私は前に行きたいって話してたカフェに行くってルカスが言うから、遠回しなお誘いかと思って。私も行きたいって言ったら一緒に行こうってルカスから誘ってきたカンジだけど」
「おい、違うだろ、俺は誘ってねぇ」
「どっちが誘ったとかはどうでもいいよ。重要なのは、貴族学院に入学してルカスが女遊びをするようになって、ルカスが遊んだ女の子達から私は嫌がらせを受けてて、今日婚約破棄が成立したって事実。ちゃんとガールフレンド達に私との婚約はなくなったって周知しといてね。婚約者だと思われ続けるのは迷惑だから」
「だから!婚約破棄はしねぇって」
聞き分けの悪い子供みたいなルカスにため息を吐く。
「いい加減にしてくれる?もう婚約は破棄されたの。私はルカスと婚約してるとすごく迷惑を受けるの。これ以上、私の人生の邪魔をしないで」
立ち上がって、ジュースを飲んでいるアンナに目を向ける。
「巻き込んでごめんね。帰ろう」
「いいの?」
「うん。パパ、もし婚約破棄を撤回するなら親子の縁切るから」
「わ、わかった。二人とも寮まで送ろう」
「シア!」
私達を追いかけてきそうになったルカスをボルホール子爵が取り押さえた。おじさんナイス。
翌日。
私が在席する特進クラスにルカスがやってきた。昨日別れた時より顔が痛々しいことになっていて、あの後おじさんに更に叱られたのが察せられる。
顔の痛々しさで不健全な存在感を放つルカスは、教室で頭を下げた。
「シア、ごめん。今まで悪かった」
「謝罪はいいから、もう私に関わらないでくれる?」
「本当にごめん。お前が許してくれるまで謝るから」
「許す許さないとかじゃなくて、もう関係ないんだから関わらないでって言ってるの」
「シア‥」
休み時間の度にウチのクラスまできてずっとこんな調子。本当に迷惑。
クラスメイト達の視線も痛いから昼休みに美術部の部室で、ルカスの迷惑行為を止めさせるために改めて話すことにした。
「シア、その二人は?」
私の左隣には三つ編み瓶底眼鏡の女子、右隣には前髪の長い男子が座っていて、それぞれマイペースにランチを食べている。
「私のクラスメイトで信頼する友人のジュリベール兄妹。この部室を貸してくれたのは兄のほうのヘロルトよ」
ジュリベール兄妹は同い年の兄妹だけど、双子じゃない。兄のお母様は本妻で、妹のお母様は愛人らしい。複雑な家庭なのに二人はあっけらかんとしていて、兄妹仲が良い。田舎では理解しにくい家族像。都会ってすごい。
「それは、どうも‥」
「ど〜いたしまして〜。ま〜俺もフェリシアの元婚約者って、どんな奴か興味あったし〜」
ヘロルトは暗そうな外見に反して口を開くと明るい。というかユルい。なのに私みたいに図書館で必死に勉強するわけでもなく、趣味の絵を楽しみながら成績はトップクラスの天才型だったりする。
「場所を提供してくれたのは感謝するけど、シアと二人で話したいから、席外してほしい」
この部室から出ていけというルカスの要望に、ジュリベール兄妹は鼻で笑った。
「アハハ、お断り〜。席外すならお前が外せば?」
「フェリシアが迷惑がってんのに、しつこく付きまとう男と二人っきりにするわけないじゃん。バカなの?」
ジュリベール兄妹は口撃力が高い。
「二人には私が頼んだの。婚約者でもない男子と二人っきりになりたくないから」
「ッ‥」
悲しそうに眉根を寄せるルカス。その表情を見ても胸は痛まない。むしろ被害者面なのが鬱陶しい。
「‥本当にごめん。俺が悪かった。二度と他の女子と遊んだりしないから、婚約破棄は考え直してほしい」
「私はもう関係ないから、女の子と遊ぶも遊ばないも好きにすれば?私達の婚約って政略じゃないし、破棄したところで別に困ることなんてないじゃない。パパ達も了承したのに、なんでそんなに婚約を続けたがるの?」
ルカスはギュッと拳を握りしめた。
睨むような強い瞳と目が合う。
「好きだから」
「え?」
「シアが好きだから、シアと結婚したい。俺はシア以外と結婚するなんて考えられない」
目を見てはっきり「好き」なんて仲良くしていた子供時代ですら言ってくれなかったのに。
「今更〜」
むしゃむしゃとパンを咀嚼しながら、ヘロルトが茶々を入れる。
「そうね。今更だし、信じられない。私が好きなら今まで行動の説明がつかないわ」
「それは、ごめん‥嬉しかったんだ。俺が他の女子と絡んでると、シアが嫉妬してくれんのが」
胃に石が詰まったような重い不快感でいっぱいになる。だめだめ、もう終わったこと。過去のことを怒ったって感情の無駄。
「確かにルカスが他の女の子を抱きしめてるのを初めて見た時は、嫉妬して、寮に帰って一人で泣くくらい悲しかった」
「‥あれは、ただ慰めてただけで、エマは妹みたいなものだから、やましい事は何もない」
妹みたいなもの、という認識に失笑してしまう。
「やましいかどうかじゃなくて当時の私は傷ついたって事。でも今は、ルカスが誰とハグしようが目の前でキスしようがなんとも思わない。わかってるんじゃない?半年前くらいから私が嫉妬しなくなったって」
思えば私が浮気をスルーするようになってから、ルカスはわざわざ私の目の前で、見せつけるように女子とイチャイチャするようになった。結構うっとおしかったんだけど、アレは嫉妬してほしかったんだ。面倒くさい男。
「私が嫉妬しなくなった理由、わかるでしょ」
「‥エマと揉めてたのを仲裁したから?」
半年前、ルカスの“妹みたいな子”が私にいじめられてるってルカスに泣きついた。ルカスは彼女の話を鵜呑みにして「どうしてそんなことしたんだ?」って私に言ってきた。
私よりも彼女を信じるルカスに、インクが使い果たされて何も書けなくなったペンように、私の中からルカスへの愛情が完全になくなった。
「最後の決定打はそれだけど。浮気に怒らなくなった根本的な理由は、単純にルカスのことが好きじゃなくなったから。ルカスが誰と何してようが興味ないの。興味ない人に嫉妬なんかしないでしょ。どうでもいいもの」
「そ‥」
ズズッとジュースを吸う音で、ルカスの言葉はかき消された。
ジュリベール妹はトンッとパックのジュースを机に置いた。
「あのさぁ、あのゴキブリみたいな女を妹みたいだとか仲裁だとか言ってる時点で、フェリシアに復縁申し込む資格ないよ?まずはあのゴキブリ女をどうにかしなよ」
「ゴキブリ女って、エマのことか?」
「何回退治してもゴキブリみたいにしぶといし不快だもんな〜!毎日フェリシアのロッカーや靴箱にゴミ詰めたり、机にカッター仕込んだり〜。食堂でフェリシアに熱いスープぶっかけて火傷させたり〜、フェリシアをトイレの個室に閉じ込めて上からホースで水かけたとかで、フェリシアが熱出して寝込んだこともあったっけ〜?上の階から花瓶落としてフェリシアを殺そうとしたのと〜、中庭の池に突き落とそうとしたのは俺らが防いだけど〜」
花瓶が落ちてきた時は本当に怖かった。あの時、ヘロルトが腕を引っ張ってくれなきゃ最悪死んでたかもしれない。命の恩人。
「エマが‥?嘘だろ?アイツは気が弱くて、そんなことするはずない」
「は?ウチのクラスはあのゴキブリ女がフェリシアに嫌がらせしまくってんの、全員知ってるけど?何回か現行犯押さえて先生と生徒会から指導入ってるし。嘘だと思うなら先生達に確認してきなよ。逆になんで知らないの?“フェリシアが家の力で無理矢理ルカスの婚約者になって、ルカスは迷惑してる。ルカスが本当に愛してるのはエマ”ってゴキブリ女が流した噂はもちろん知ってるわよね?」
現行犯というのは、早朝から彼女が私の机に何か仕込んでるのをクラスメイトが目撃して、速やかに先生達を呼んでくれた事件。花瓶を落としてきたことやトイレの件は証拠不十分、スープや池の件はわざとじゃないと言い逃れされた。
エマさんの家は学院に多大な寄付をしている伯爵家で、それこそ現行犯や確実な証拠がない限り、学院がエマさんに罰を下すのは難しいみたい。
「なんだよそれ、そんなフザけた噂、知らねぇよ」
私は首を傾げた。
「あの子がそう吹聴してるの、学年の大半が知ってるわよ。虚言癖があるのも有名だから鵜呑みにしてる人は少ないだろうけど。本当に知らないの?知ってて仲良くしてるんじゃないの?実際ルカスの親しい女子ってコロコロ変わるけど、エマさんだけはずっと仲良いじゃない。家の力で無理矢理婚約は事実無根だとして、本当に愛してるのはエマさんっていうのは信ぴょう性あるから、私と婚約破棄したらエマさんと婚約するのかと思ってた」
「するわけないだろ!エマはそういうんじゃなくて‥クソ、なんで俺に言わなかったんだよ?!」
「言ったって無駄でしょ。私がエマさんをいじめてるって、エマさんの嘘を信じてたじゃない。私よりエマさんを信じてるんでしょ」
「あれは!シアが全部話してくれてたらシアを信じた!」
ジュリベール兄妹が吹き出した。
「ハハッ、あの女の虚言なんか、フェリシアに確認するまでもなく信じね〜わ」
「フフッ、確かに」
絶望したような表情のルカスを見てると、確かに一度も相談しなかったのは私も悪かったかもしれないと少し思った。少しだけ。
「‥ごめんね」
「‥なんでシアが謝るんだよ。悪いのは俺だろ」
「ルカスが婚約者として最低だったのは揺るがないわ。でも婚約してた時に、私が好きだって素直に伝えられる性格だったら、ルカスは浮気を繰り返さなかったかもしれない。愛されてるって実感があれば、嫉妬させてギスギスするより二人で仲良く過ごすほうがいいに決まってるもの。浮気に嫉妬して一人で泣くんじゃなくて、悲しいからやめてってルカスの前で泣いてたら、多分ルカスは私を抱きしめてくれてたと思う。エマさんからしつこく嫌がらせを受けてるって相談してたら、エマさんの嘘より私を信じてくれてたかもしれない」
「シア‥」
「今はもうルカスのことが好きじゃないから客観的にそう思えるけど、私は好きな人に好きって素直に伝えられないし、嫉妬で泣いてる姿なんて誰にも見られたくないし、いじめられてるって好きな人には知られたくない性格なの。冷静に考えると、素直に好きって言えない性格同士の私達って相性が悪いのよ。ルカスはエマさんみたいな“妹みたい”に甘えてくれるあざとい子が合ってると思う」
またもやジュリベール兄妹が吹き出した。
え?今けっこう真剣に話してたのに。笑えるポイントあった?
「アハハッ、フェリシア最高〜!いや〜俺の妹は性格ブスの虚言女じゃなくて良かったわ〜。あんなんが妹ってイイ趣味してるよな〜。アンタらが婚約したら近親相姦プレイでもすんの?マニアック〜」
「‥くっ、お兄ちゃん、フフッ、下品すぎ!でも虚言女と浮気男で信用ない者同士、お似合いのカップルだわ」
今さらだけど同級生に対して“妹みたい”ってどうしてそうなったんだろう。ルカスは弟しかいないから妹がほしかったのかな。
「妹みたいな子と結婚すれば疑似妹と妻の両方が手に入っていいじゃない。それにルカスとエマさんが婚約すれば、私が助かるのよね。私とルカスの婚約破棄が周知されるし、エマさんも幸せになったら私への嫌がらせも減るだろうし。ロッカー使えなくて教材を全部持ち運びするの大変なの」
ルカスが泣きそうな顔になっている。なんで?
ヘロルトが笑いながら前髪を掻き上げて、私の肩を抱いた。
「今までのフェリシアの苦痛を考えると友人として許せねぇけど〜、しょうもない理由で浮気繰り返して、婚約破棄してくれたのはマジ感謝だわ〜。おたくと違ってフェリシアは誠実だから、婚約者がいるかぎり他の男に靡かないし。これでよ〜やく口説ける」
こめかみの辺りからチュッ、とリップ音が鳴った。
ルカスはガタッと立ち上がってヘロルトの襟首を掴んだ。さすがに焦る。
「ルカス!」
「殴んの〜?そんな資格ないのに?」
掴まれた当の本人はニヤニヤしてる。
もちろんヘロルトが殴られるのは嫌だし、ルカスに対して恋愛感情はまったくないけど、幼馴染みとして心配が勝る。ヘロルトは帝都でも力のあるジュリベール伯爵家の嫡男だ。ヘロルトに怪我をさせたらジュリベール家が黙ってないかもしれない。
「ルカス、やめて」
「‥っ、‥エマを、何とかしたら、改めて婚約申し込むから。待っててくれ」
苦しそうにそう言って、ルカスは部室を出ていった。
正直ルカスがエマさんを何とかできるとは思わない。待つわけないし、もう来ないでほしい。
「あ〜楽しかった〜」
「お兄ちゃん、性格悪」
「お前も昨日楽しんでたくせに〜。でもアイツ、お前に全然気がついてなかったっぽくね〜?」
ヘロルトの腹違いの妹、アンナは分厚い瓶底眼鏡を外した。
「ケーキをあーんまでした仲なのにヒドいわよね?」
猫のような眦が妖艶に細まる。
「婚約破棄できたのはアンナのおかげよ。いつも助けてくれて、二人とも本当にありがとう」
アンナの協力なしではできなかった婚約破棄計画。
アンナとは一年生の時、気の合う友達もできなくて放課後毎日図書館で勉強している時に仲良くなった。苦手な教科を教えあって成績が上がり、二年で二人揃って特進クラスに入れた時は手を取り合って喜んだ。
アンナは娼婦だったお母様譲りらしい妖艶な容姿だけど、すごく真面目で恋愛に潔癖だ。アンナのママは娼婦が天職で、ジュリベール伯爵に水揚げされた後も別の娼館で働いて、アンナは十三歳まで娼館で育った。そこで男女の色恋沙汰を見つくしたせいで、恋愛に嫌悪感をつのらせて今では非婚主義を公言している。
男に頼らず生きていくために、勉強をがんばっているアンナに私も少なからず影響を受けた。ルカスと結婚する以外の道もあるんだって、光が差したように婚約破棄を目指す決心がついた。
ルカスの浮気やエマさんからの嫌がらせに、アンナは私以上に怒ってくれて、ヘロルトは面白がりながら私を助けてくれていた。
親に婚約破棄したいと訴えても真剣に取り合ってくれないと二人に相談して、今回の婚約破棄計画を練ってくれたのはヘロルトだ。
アンナがルカスの浮気相手になって、両親の前で暴露する。単純だけど難しい役どころをアンナは完璧にこなしてくれた。
「男に媚びるなんて一番したくないはずなのに、アンナの演技、本当にすごかったわ」
「娼婦の娘だからね。才能あるのかも?」
「女優の才能ね」
アンナと目を合わせて笑う。
「それよりお兄ちゃん、フェリシアを口説くって本気?」
「ルカスをからかうための冗談でしょ」
思わず本人より先に答えてしまう。
アンナと仲良くなったのがきっかけで、ヘロルトとも親しくなって一年以上。ヘロルトから恋愛的な好意を感じたことはない。
「え〜?俺と結婚したら伯爵夫人だぜ?アンナはフェリシアが義姉になんの、嬉しいよな〜?」
「うっ、それは嬉しいけど、恋愛関係はお兄ちゃんクズじゃん‥」
「友人としては大好きだし大切だけど、人妻や未亡人と爛れた恋愛繰り返してるヘロルトと結婚はちょっと無理」
ヘロルトは身分を隠して、駆け出しの画家として未亡人や人妻のパトロンの多数と関係がある。友達だからヘロルトの爛れた性生活を苦笑で流せるけど、恋愛的に好きになったらルカスより泣かされそう。
「いや〜、未経験の子は責任取れないからお姉様方と遊んでるだけで、責任取りたい本命は大事にするよ〜?」
「田舎者の私なんかジュリベール家が認めないでしょ。私のどこを評価してくれてるの?」
「顔〜」
意外な答え。嘘でも他にないの?
「地味顔が好きだったの?」
アンナが私の腕に腕を絡める。
「地味じゃないからね?前から言ってるけど、顔に目立つパーツがないのは整ってるってことなの!フェリシアみたいにどんな化粧でも似合う整った顔なんて中々いないから」
アンナは男避けのために学院では瓶底眼鏡をかけてるけど、本来お洒落するのは好きみたいで、休日は化粧やファッションを楽しんでいる。一緒に休日を過ごす時は私にも化粧をしてくれて、別人みたいにしてくれる。昨日「アイツが後悔するように最高に可愛くするわよ」と意気込んで化粧してくれたのも、もちろんアンナだ。
ちなみにヘロルトも学院では長い前髪で目立たないようにしてるけど、学院の外では前髪をあげて、口元のホクロと眠そうな目元が印象的な色気のある顔を出して、ピアスをつけて夜の街が似合うセクシーな雰囲気になる。
ジュリベール兄妹の休日のギャップは凄い。
「ありがとう。ヘロルトの冗談はともかく、私、卒業したら働きたいと思ってるから、今はもう誰かと婚約する気はないの」
「やだ!フェリシアも非婚主義になるの?」
アンナが嬉しそう。
「絶対結婚しないって決めてるわけじゃないけど、結婚して旦那様に頼って生きるより、自分の力で生きていきたいって感じかな」
「わかる〜!」
「俺の周りのいい女、自立思考強〜」
それからしばらくして、ルカスがバカ正直にエマさんを問い詰めたらしく、逆上したエマさんは私に刃物を向けた。その時私をかばったルカスが刺されたけれど、幸い後遺症が残るような怪我にはならず、エマさんは学院を除籍された。
ルカスも婚約破棄直後に恋愛関係で刃傷沙汰を引き起こした事で、「ここまで女癖が悪いと、この先も帝都で何をしでかすかわからない」というボルホール子爵の判断により強制自主退学。
刃物から庇われた身としては、ルカスの退学は少し申し訳ない気持ちもあったけど、「そもそもヤバい女を“妹みたい”と可愛がって期待させるような行動をしていたルカスの自業自得」だとジュリベール兄妹に諭されて、それもそうかと気にしないことにした。
ただ幼馴染として、ボルホール領のためにもルカスに良い女性とのご縁があるように願っている。