〃 -Ⅲ
少しも酔えなかった。相変わらず外は陰気に雨が降っていて、陽が落ちているから行燈がなければ足元も危うい。
刀傷の男に会った帰り、酒を買って雨中を歩いた。
まっすぐ宿には帰らない。というより、足の向かうままに歩き出した方向はまるで別の方向だった。
(俺は、どこへ行こうというのか)
もう、リンは戻っているかもしれない。もしそうなら、あの口数でなにをしていたかを教えてくれるだろう。教えてくれなければ、それとは関係のないことを喋るに違いない。
リンのおかげで旅の道中で寂しさを覚えることはなかった。変に気持ちが沈むこともなかったのだが、今は会いたくない。きっと、その明るさが疎ましいと感じるだろうから。
「ご免」
アヤメの家へ着いた。奥から灯が漏れているからまだ起きているのだろう。声を掛けると桟を外す音がして、引き戸が開いた。
「あ・・・・・・」
と、アヤメは相変わらず牛のように鈍い。さっさと脇をすり抜けた。
「夜分に申し訳ない。そろそろ服も乾いたろうと思って」
「はい、乾いております・・・・・・」
この女に合わせると夜が更ける。さっさと上がって、奥座敷で綺麗に畳まれていた自分の着物を手に取った。
「ああ、こいつを返さないと」
「ああ、いいえ・・・・・・差し上げますので、そのまま・・・・・・」
あったところで使いようもない。箪笥の中を圧迫するだけだから貰ってくれという。
こんな粗末な服を貰っても旅には邪魔にしかならない。さすがにそれは言い出しかねて、なら、と貰うことにした。
「飲めるかも訊かずに買っちまったが、こいつはお土産」
持ってきた酒を置くと、アヤメは、
「はあ・・・・・・」
と、たいしてありがたがらなかった。あまり飲めないのかもしれない。
「・・・・・・」
なんとなく気まずい。ヤクロウは近いうちにこの女が斬られるか、また人を斬るかすることが判っている。なにを言えばいいのか判らない。
「あ、リンの分も持って帰ろうか」
「ああ、いえ、先程・・・・・・いらっしゃいまして・・・・・・」
着替えていったという。借りた小袖も返したと。
「あいつ、洗ってから返すのが礼儀だろうに」
人のことは言えないが、アヤメは少し笑った。
「そんな、良いものではないので・・・・・・」
座が持たない。さっさと帰ればいいのだが、なにもせず帰るのは寝覚めの悪い気になりそうだった。
「いつかは判らないが、昼間の強盗がまたあんたを襲うらしい。多分相手は一人だろうから、役人にでも言って・・・・・・」
囲炉裏の火を見ながら言ってみたが、奇妙なほどに反応がない。顔を見てみると、困ったように眉根を寄せていた。
(これが、斬られる女の顔だろうか)
不思議だった。悲壮感や恐れといったものはまるでなく、どういう表情をしてよいのか困っているという様子だった。
「怖くないのか?」
「はあ・・・・・・いえ、怖い、のでしょうね、多分・・・・・・」
他人事のように言う。
自分の置かれた環境の劣悪さに、生きる気力もないのだろうか。確かに寡婦で人から恐れながら疎まれているようだから、嫌にもなるだろう。
だが、少し違うようにも思う。生きるのに飽いているというよりも、
「人を、斬りたくない・・・・・・?」
そんな気がした。どうしても嫌なことに向かわねばならない時の表情に思えた。アヤメは少し驚いた様子でヤクロウを見たが、やがて視線を落とし、
「・・・・・・はい・・・・・・」
蚊の鳴くような声で呟いた。
なんという女だろうか。自分の命よりも、自分が人を斬ることを恐れている。ヤクロウにはその気持ちが判らない。思わず膝を寄せて、
「あんたは、今ちょっとおかしくなってる。俺が聞いた限りじゃ、どの場合でもあんたは斬らなきゃ斬られる場面だった。俺は人を斬ったことがないから判らないが、そのどれもがあんたの命と引き換えには出来ない筈だ。だから・・・・・・」
表情が鈍い。ヤクロウの言葉は、まったく響いていないことはすぐに判った。
「そんなに、厭な・・・・・・」
ものなのか、と問うとアヤメは頷いた。
「私、なのですよね・・・・・・今まで、人を斬ったのは・・・・・・」
伏し目で、床の間に置かれた刀を見ている。
「覚えていないのか?」
「いいえ・・・・・・目を瞑るだけで、はっきりと感触や音までもが・・・・・・」
どういう視線なのか、どういう表情なのかもヤクロウには窺い知れない。ただ、囲炉裏の火に照らされたその容貌は、悲しいほどに美しかった。
「どうして私は、あの刀を差したのでしょう・・・・・・」
そればかりか、何故一時も傍らから離したくないのか、自分でも判らない、と。
ヤクロウは自分の刀を見た。変哲もない。黒く漆を塗った木の鞘に、木瓜のような形の鍔が鈍く光っている。なんの感慨も湧かなかった。
「俺の刀も、師匠の形見だ。俺は、あの刀で自分の師匠の首を落とそうとしたんだ」
驚いたように、アヤメがヤクロウを見た。
「あの刀は師匠の親友が打ったものだった。親友は殿様のお抱えだったから、戦争の時にも付き合わされて籠城してたんだ。師匠はそれを聞きつけて助けに行った。でも、糧食は尽きて士気も萎えてて、殿様はもう死ぬ気だった。
落城の日、師匠の友達は殿様の道連れを選んだ。師匠はそこで、自刃した。介錯は俺だった。師匠の刀だったあれで、首を落とそうとしたんだ」
何故、自分はこんなことを口にしているのか。
言葉だけが、すらすらと出てきた。アヤメは黙って聞いている。
「でも、落ちなかった。二回も打ち込んだのに、皮一枚も斬れず、俺の下には腹を切って苦しんでる師匠が居る。なんとか自分の脇差で・・・・・・」
脇差といっても、師の教えで長い。小太刀ほどもある長脇差だが、それで首を落とすのは稀有なほどの腕と言っていい。とても誇る気にはなれなかったが。
「その直前にさ、師匠は笑ったんだ。お前に悪いことをした、って。その顔と声が、今でも離れない」
炭を足していなかったのだろう。囲炉裏の火がどんどん弱くなっていった。ゆっくりと暗くなっていく部屋で、ヤクロウはため息を吐いた。
「あんたの刀と同じ、俺の刀も大切な人の形見なんだ。だから、いつも身につけてたい。本当は、一番大事な人を安らかに送ってもやれなかった鈍ら刀なんて、すぐにも売っ払って・・・・・・いや、石にでも叩きつけて割ってやりたいのに、それが出来ない」
大切な人が遺したものだから、と。
火が消えた。暗い部屋で、息遣いが聞こえてきた。
「あんたの旦那さんがどんな人だったかは知らない。だけど、さ、きっと生きててほしい筈だ。それがどんなに・・・・・・」
空々しい、と自分でも思った。死んだ人間はこの世になにも及ぼさない。化けて出ているのなら話も変わるだろうが、その気配すらないのなら無意味でしかない。
この女は斬るくらいなら斬られる方が、とまで気持ちが傾斜している。今更こんな、当人が判り切っていることを諭してなんになろう。
「生きなきゃダメなんだ、ダメなんだよ、生きてるんだから・・・・・・」
いつの間にか俯いていた。そしてその言葉は、誰に宛てているのかももう判らない。いつの間に近寄っていたのか、アヤメがヤクロウの膝の上で震えていた手を握った。
「斯波さま・・・・・・」
顔を上げた。吐息が掛かるほど、近くに顔があった。
「私、まだ・・・・・・泣いていませんでした・・・・・・」
「え・・・・・・?」
「あの人が亡くなってから、まだ・・・・・・でも、もう涙も出なくて・・・・・・私、冷たいのでしょうか・・・・・・」
手を握り返した。
「いいや、あたたかいよ・・・・・・こんなにも」
アヤメは、少し笑ったようだ。
「斯波さまの、お手も・・・・・・」
ふ、とアヤメの影が揺れた。気がついた時、ヤクロウの胸の中に頭があった。姿勢を崩して身を預けていた。
「このぬくもりを・・・・・・」
絶ってしまうということが、人を斬るということなのだ。アヤメはそう言って、顔を胸に押し当てた。
「アヤメさん・・・・・・」
なにもしてやれない。この震える肩を抱いて、おそらく初めて悲しみと痛みを共有したのだろう哀れな女の傍に居てやることしか出来ない。
「俺はね、きっと腑抜けなんだ。こうなっても、あんたを守ってやるなんてことも言えない」
「・・・・・・」
意表を突かれたように肩の震えが一瞬止まり、今度は違う揺れ方をした。忍び笑いらしい。
「それは・・・・・・うまく言えないのですが、きっと・・・・・・」
違うのだ、とアヤメは言った。上体を起こした時、顔に微笑が浮かんでいた。
「良いお方ですね、斯波さま・・・・・・夫ならきっともう、押し倒していました・・・・・・」
ヤクロウは一気に顔が赤くなった。
「いやそれは、旦那さんなら・・・・・・」
「いいえ・・・・・・娘の時分にそうやって手籠めにされましたから・・・・・・」
夫婦の赤裸々な馴れ初めなど、聞かされてもどうしようもない。ヤクロウは苦笑するしかなかったが、アヤメは、
「あの人と同じように、男の人はみんなそうなんだと思っていました・・・・・・」
なんだか、話の向きがおかしい。よく判らないが、今更ながら夜分に寡婦を訪ねる非常識に焦りだして、
「いや、失礼した・・・・・・俺は、とんだことを・・・・・・」
慌てて立ち上がり、両刀を腰に差していそいそと出て行く。
「あ・・・・・・」
なにか、アヤメは言おうとしたようだが止まることなく外へ出た。
胸の辺りに、女の体温が残っていた。