〃 -Ⅱ
カンエモンの尾行など知る由もないヤクロウは、暇を持て余した。
相変わらず窓の外は雨が降っているし、薄暗く湿気た室内は陰気だ。気が滅入りそうになるので外へ出ることにした。
「おや、またですか?」
傘の水滴が落ちきらぬというのに、再び出かけようというヤクロウに宿の老婆が呆れた。
「俺の服はまだ乾かんだろうか」
川と雨で水を含んだ服は、この雨ではなかなか乾き切らない。老婆の親切で火を使う台所に掛けてあるものの、土間に水滴が落ちなくなったというだけでまだ着れるほどではないという。
ヤクロウは外へ出た。特に目的はない。リンには女を買うことを勧められたが、嚢中を考えるとこんなところで使うのが惜しい。なにせ、旅に出て三度目の宿場なのだ。
(まあ、金がなくなったらそこで腰を落ち着けてもいい)
旅人にしては楽観的にそう考えて、取り敢えず酒を買うことにした。
だが、酒の目利きが出来る方ではない。リンも居ないとなると、店の者に勧められるままに買ってしまいそうだから、店で飲むことにした。
もう夕方である。仕事終わりの職人なんかが帰る前に一杯やっていて、混んでいる。店は奥座敷を構える装いだが、大抵は土間に蓆を敷いて席にしている。
知らぬ顔と相席をする社交性はないから、店を変えようかと踵を返したところで、
「ここにお座んなさい」
すぐ足元で声がした。
「あ」
あの、刀傷の強盗であった。両刀を膝の前に置き、手酌で飲んでいる。
「なんでここに」
「そいつはこっちの台詞だ。酒を飲む以外の用事がこの店にあるか。出会い茶屋をお探しならここの裏だ」
腰の刀を鞘ぐるみ抜きながら座った。
「にごりでいいかね?」
「ああ。なんでも」
刀傷の男が店の小女を呼んで同じものを頼んだ。
「奢らんぜ? あんたが哀れで誘っただけだ」
「強盗なんぞに奢ってもらうほど落ちぶれちゃいねえ。それより一人なのか? 仲間はどうした」
言いながら、悪いことを訊いたと思った。返り討ちだったとはいえ、仲間を一人失っているのだ。が、男は表情一つ変えずに、
「逃げたよ。もうあの女には関わりたくないそうだ」
ヤクロウはアヤメを助けに入った時のことを思い出した。
確かにこの男以外の二人は、顔面蒼白で明らかに戦意を喪失していた。
「たかが、町人の女に? 俺に投げ飛ばされた奴も居たようだが」
「ああ、あの時か。そうだ、あんたに柔で投げ飛ばされた奴も、あんたに恐れなくてもあの女に恐れた。それくらいの業だったよ」
ヤクロウの濁り酒が運ばれてきた。つまみに、干し魚の半身がついている。酒を注ぐよりも先に骨をむしると、香ばしい湯気が立ち上った。
「あの人をまだ狙うのか?」
「ああ。必ずあの刀は貰う」
語気に力が入っていた。
「仲間が居ないのにか?」
「子分が親分をどう思うのかは関係ない。親分はな、子分がやられたのなら返さなきゃならねえ。俺はあいつらを薄情だとは思わねえ。人があんなにも鮮やかに斬られたのを見たら、怖気づくのが当たり前だ」
別にこの男の信条や精神論を聞きたいわけではない。武芸に生涯を捧げる身として、アヤメの剣を間近で見た者の意見を聞きたいだけである。
「そうじゃなくて、三人がかりで一人やられたのに、あんただけでやれるのかってことさ」
「別にいっぺんに斬りかかったわけじゃねえ。あいつがあの女に逆上しちまって先走って、そいつを返り討ちにされたんだ。俺が負けたわけじゃねえ」
「そりゃそうだ。負けてたらあんたは生きてないよ」
干し魚を口に運びながら、濁り酒も一口。吐息の一つも漏れるほど旨かったが、そっちに意識が向いていたのか、あまりにも端的な言い様に刀傷の男が呆れた。
「あんた、人付き合いは苦手だな」
「強盗なんぞに言われちゃおしまいだ。外してもないのがまた腹が立つ」
あはは、と男は表情を崩した。
「連れのお嬢さん、あれはやり手だな。夜の雨でも正確に俺に小銭を当てた業といい、あの女の一撃を受け止めてたことといい、あんたには勿体ない」
「あ、そうだった。あの時の銭を返せ。あれを理由に俺は味噌汁を奢らされたんだ」
「強盗でもないのにケチなことを言っちゃいけねえ。命か大事な刀か、そのどっちもを守れたんだから安いもんだと笑ってやんな」
張本人のくせに他人事のように話すのは腹が立ったが、言う通りではあるので黙ってやった。
「なんでそんなに刀に拘る。金になるものなら他にもあるだろ。刀を差してる奴がその刀を狙われちゃ、反撃を受けることだってある。子供でも判る理屈だろう」
単純な疑問だったが、男は神妙な顔で杯を置いた。
「俺の奉公先の親爺は、鬼みたいな奴だった。風呂焚きをやらされたが、毎日が地獄だった」
ヤクロウも、風呂焚きに使われる小僧のつらさは話に聞いている。
夜も明けぬうちに起きて薪拾いをさせられ、火の加減を見るために休めない。不眠不休の肉体労働は、刑罰にも等しいと聞いたことがある。そのうえ、給金は安い。
「その親爺の頭を薪割りの鉈でかち割ってやって、野良犬みたいに生きて盗賊に拾われた。そこの親分が俺の親だ。親が教えてくれた理を守って生きてるだけさ」
「人様の財産で飯を食ってる奴が、一丁前に言うもんだな」
率直な意見ではあったが、喧嘩を売っている言い様でもある。注意深く傍らに置いた両刀に意識を向けたが、刀傷の男は笑った。
「あんたには判るまいね。いや、俺や親にも、あの時の仲間や俺の子分にも判らねえことかもしれん。盗んだものでどうこうより、盗むのが面白いのさ。だから、きっと真っ当には生きられねえ」
少し、判る気がした。
天地に自分ありきと思えるのは、自分の中に誇れるものがあるからだ。それがなんであるかは人が違えば皆違うだろう。ヤクロウは剣だった。この男は盗みなのだろう。
そしてそれが楽しいと、それだけのことなのだ。それだけに、盗まれる側は堪ったものではないだろうが。
「で、自分よりも弱い奴から奪うなとか、そういう教えでも受けたのか?」
「盗みが終わってから、盗まれたことに気づかれるくらい鮮やかにやれと教わったのさ。そして、俺にはそこまでの技がなかった。だから、ちゃんと宣言してから盗むことにしたんだ」
男道というものがある。要するに美学だ。この男はそれに反しないよう生きているのだろう。なんとなく、ヤクロウにはそれが判った。
「それで胸張って生きてるつもりかね。ちゃんと朝起きて鋤鍬持って夕方まで畑に出かける作男の方がよっぽど立派だ」
「理屈はそうさ。いや心情でもそうだろう。でもな、それが出来なきゃクズなのさ。クズだから、クズなりに美しく生きていたい。それだけさ」
人のことは笑えない。ヤクロウはそう思った。自分とて、その作男の生き方ではなく武芸で生きることを選んだのだ。
労働の本質は他者への奉仕だ。そして他人のための労働を自分のために変換するのが、健全な社会であり、それを構成するのが市民である。
徹頭徹尾自分のためを突き詰めるという意味で、ヤクロウとこの男は似ている。そして我を突き詰めた先に、達人や名人というものが生まれるということも。
(結局、その被害に遭う連中が居なきゃ、こいつも俺も生きていけないわけだ。まったく得な稼業もあったもんだ)
見たくないものを見た気持ちで、杯を干した。
「あんた、あの人の剣を見てどう思った?」
「ほう、やっぱり武芸者らしい。戦いもしない相手の力量がそんなに気になるかね」
杯に注ごうとして、銚子が空だということに気がついた。一人酒よりも、話し相手があった方がやはり進むものらしい。手を挙げて注文しようとしたところへ、ヤクロウが自分の銚子を持ち上げて注いでやる。
「気前がいい」
「安いもんだ。兵法話が聞けるならな」
正確には、仕入れた情報を自分の頭で兵法に変換するのだ。
「そうだな。まあ噂は聞いていた。もし本当に一晩に四人を斬ったんだとしたら、剣豪と言っていい腕とこの世のものとは思えない名刀だ。だから、手下を噛ませに言った」
「たいした親分だな。やってることと言ってることがズレてやがる」
「おいおい、仲良しこよしをやるために徒党を組んでるわけじゃねえぞ。こういう時に命を張る子分だから、親分は守ってやらなきゃならん」
尤もである。茶々を入れたことを詫びて先を促した。
「一瞬だった。サケジが踏み込んだ瞬間、俺にはあの女がゆっくり動いたように見えた」
サケジとは死んだ手下の名前だろう。
いきなり真剣な眼差しで身を乗り出したヤクロウに苦笑しながら、男は昼間の忌々しい記憶を辿った。
「じっくりと見たさ。当たり前だ。見なきゃ命があって逃げられるかどうかも判らねえ。傘で受けるか、とも思った。なにせ片手が塞がってるんだ。鯉口を切ることは出来ても抜くのはもう片方の手が要る。サケジはもう突っ込んだんだ。
普通は受けるか下がる。達人ならどうかな。ひょっとしたら俺なんぞには及びもつかない対処をするかもしれん。あんたはどうする?」
「俺は達人じゃない。それで?」
にべもない。熱心さに苦笑して、
「あの女、進みやがった。それも踏み込んだなんて勢いのあるもんじゃねえ。一歩だけ、縁日にでも行くくらい、軽くだ」
ヤクロウは頭の中でその光景を思い浮かべる。剣を振る以上に、他人の証言だけで映像を描く訓練を積んできた。容易に情景が浮かんでくる。
「そこからは俺にもよく判らねえ。確かに見た筈なんだがな。傘が宙に飛んだのと、刀を抜いたのは多分同時なんだろう。ただ確かなのは、刀は二本とも二人の頭上で光ってた」
あの牛のように鈍いアヤメを知っていると想像もつかないが、相手が踏み込んだのに一瞬遅れて一歩進み、同時に傘を捨てながら抜刀した、と。そして振りかぶった。
「距離は?」
「ああ、まあ五間はあったかな。サケジは突進するくらいの勢いさ。で、打ち込んだ。ところが」
死体になって転がったのはそのサケジだったと、男は語った。
(先に動いたから有利になったつもりだったのか、それとも逆上してたのか。そいつは・・・・・・)
離れた距離を詰める時、踏み込みが大きいほど体が崩れる。正確な間合いは測りづらいから、落ち着いてさえいれば後手の方が有利なことが多い状況だ。ヤクロウは正確に分析した。
「どっちが早かった?」
「あん?」
「どっちも打ち下ろしだろう。どっちの刀が動くのが早かった?」
ああ、と男は考え込んだ。
一瞬だったと本人も言っているから、正確には判らないのだろう。ただ、
「そんなに早くはなかった。ただな、吸い込まれるように・・・・・・」
その光景をあまりにも鮮明に思い出してしまったのか、男はぶるりと身を震わせた。
「初めて見た。俺も人は斬ったことがある。同業だったり用心棒だったりするが、どいつも鳴るような肉と硬い骨を断ち割って殺した。その音も手応えも、どの男のものもはっきり覚えてる。
ところが、あれは・・・・・・」
まるで肉も骨もないようだった、と。幽霊の刀が生身の体をすり抜けるようにあっさりと胸まで食い込み、気づけば血を噴いたサケジが死体になって転がっていた。
ヤクロウも黙り込んだ。それが、世に数えるほどしかない名刀の切れ味なのか。
座が重くなった。二人とも酒を口に運ぶことすら忘れて、下を向いている。どれほど黙っていたのか、やがて、
「そいつを斬るのか?」
ヤクロウが訊いた。記憶を辿るだけで恐れを呼び起こす相手に、一人で挑むのかと。
「斬るんじゃねえ。奪うんだ。あの女には興味がねえ。刀を奪うのが目的だ」
ヤクロウにはよく判らないが、この男の理屈ならあの女の抵抗は当たり前だという。抵抗された結果こっちが斬られたのなら、奪おうとしたこちらに非があるから文句を言うのは門が違うと。
意地でも遂げたい目標は当初の通り刀を奪うこと。初志を貫徹して死んだ手下に報いるのが自分の男道だというが、ヤクロウには判らない。
「でもまた、あの人は同じように手向かいするだろう。だったら勝つってことは斬るってことだ。それがあんたの初志ってことだ」
「まあ、あんたに判ってもらおうとは思わねえよ。とにかくやる。今日はその景気づけだった」
杯を置いて立ち上がる。
「厠か?」
「飲み直しさ。あんたのおかげで嫌なものを思い出した。気持ちが萎える。次は楽しく飲む」
「あの人は哀れな人だ。こんな知らない国に連れてきた旦那もさっさと死んだ。独り遺されて日をぼんやり過ごすだけの女から奪うのは、哀れじゃねえか」
「だったら俺とやって止めてみるか? その哀れな女のために俺とやる覚悟があっての言葉か?」
そんな気はない。そしてその理由もない。ヤクロウが黙ると、
「それでいい。死ぬには理由が要る。今日会ったばかりの女をそいつにするのは、あまりにも浮かれてやがる。まあ、寝覚めの悪い思いをすることだ。魔に遭ったと思ってな」
男は行ってしまった。ヤクロウはぼんやり、酒に移った灯を眺めていた。