〃 -Ⅲ
町の外れに桑畑がある。その中にぽつん、と離れ屋敷が建っており、桑畑農家から借りているものらしい。
「先刻は、危ないところを・・・・・・」
相変わらず小さな声で頭を下げた。
いやいや、と手を取ろうとして、また顔を背けるヤクロウ。リンが笑った。
「じっくり見ればいいんですよ。そのくらいの恩は着せてあります。ねえ?」
「え、あ、はい・・・・・・こんな体でもよろしければ・・・・・・」
まるで妖怪変化が驚かす前口上のようなことを言うからつい見ると、やはりただの女だった。それも、意外に肉付きがいいらしく、起伏に富んだ滑らかな曲線だった。
「まあそれより、いろいろお借りしますよ。風邪を引きますから。クロウさんは囲炉裏に火を入れてください。乾くまでお邪魔します」
誰の家だか判らないほどリンはさっさと上がり込んで小さな箪笥を物色している。
「お前、もうちょっと遠慮を」
「文句は後でお聞きしますよ。それよりも火。あと、ちょっと外へ出ててください。女が二人着替えるんですから」
「なにをこのちんちくりんが。この人はともかくお前のなんざ」
「さっさと燧石を持つ。もたもたしてると剥ぎますよ」
天井近くの棚から薪と囲炉裏の炭を取り、燧石を持って土間の隅に引っ込む。
「こちら、お借りしますよ」
「ああ、はい・・・・・・」
女は牛のように鈍いらしい。帯を解くのが目の端で見えた。慌てて逸らしながら石を打つ。
「ふあっくしょん!」
くしゃみが出た。雨そのものは苦にならずとも、水を吸った着物が確実に体温を奪っていく。素早く着替えたリンが土間へ降りて、
「クロウさん、着替えです。代わります」
「おい、着替えったって女物は」
言いかけて渡された服を見ると、男物だった。少し丈が短いものの、柄だけでなく袖や幅などは確かに男が着るための小袖である。
「なあ、これ・・・・・・」
顔を上げて家主に問うと、女は代えた小袖の前を合わせるところで、首元が露わになっており、脚は太ももまで見えた。
「旦那さんの形見だそうです。捨てる手間が惜しいだけだそうなので、なんなら貰ってやってください。そしていちいち女の肌を見た程度で思考停止しないように、鬱陶しいので」
手際よく火を熾し、囲炉裏に移す。リンはこんなことにも手際が良い。なにをするにもリンの三倍程度は時間を食うらしい女に背を向けて、綺麗に畳まれていた小袖に手を通す。
大人の二人がもたもたしている間に、リンは台所からヤカンを見つけてきて、朝に汲んできたのだろう水を移し、ウコギの煎茶まで淹れ始めていた。
「いや、あの、悪かったな。いろいろ」
着物を借りたこと、肌を見たこと、リンが我が物顔で家のものを使いだしたこと、諸々含めて謝ったが、女は相変わらず眠そうな目で、
「いいえ、こちらこそ・・・・・・」
女に不慣れなヤクロウと、まだ名乗りもしていないこの女に任せていては日が暮れても話が進むまい。リンが主人のような顔で茶を粗末な湯呑みに移しながら、
「まずはお互いに名乗りましょうか。リンです。こちらはクロウさん」
「まあ、ヤクロウっていうんだけど、どっちでもお好きに。リンはこれから苦労するだろうからって、そんな呼び方をしてる」
はあ、と相手にもならないほど鈍い反応で、女は手をついた。
「アヤメと申します。先程は、危ないところを・・・・・・」
はらり、とまだ乾いていない髪が頬を滑った。やはり、息を呑むほどに美しい。
「危ないところ、か。俺なんかが出しゃばらなくても、あの腕ならなんとかなったかも」
「そういう意味じゃないですよ。危なく皆殺しにするところを、ということです」
ぎょっとしてリンを見る。
「はあ、リンさんの仰る通り・・・・・・また、みんな殺めてしまうところだったので・・・・・・」
ぱちり、と囲炉裏の火が爆ぜた。
「そりゃなんとも、羨ましいくらい剛毅な悩みだ・・・・・・また?」
「ご本人の前で話すのも、ご自身で話すのも憚りのあることなので、後で話します。人聞きですので、間違いはあるかもしれませんが」
「ああ、いいえ、おおよそは外していないと思います・・・・・・」
非常に気になる前置きではあるが、後でというなら帰路ででも聞けばいい。何から訊こうかと悩んだが、こういうことは要領の良いリンに丸投げがいいと目配せする。
「連中はアヤメさんの刀を狙っているようでしたが、値打ちものですか?」
「はあ、いえ、私は疎いものですから・・・・・・ですが、主人が言うにはこれだけで地主になれると・・・・・・冗談かもしれませんけど」
目の前の小柄な、善良そうな娘もその刀狙いだと思うと、ひどく違和感のある光景だ。
「それは凄いですねえ。ご主人は・・・・・・」
「二か月ほど前に他界しまして・・・・・・元々私たちは余所者だったのですが・・・・・・」
女の話は要点をまとめずくどくどと長かったが、要約するとこうだった。
霜の国で会計役人を務めていた夫はあまり仕事の出来る方ではなかったが、明るかったため朋輩に人気があった。その夫が上役の失態を押し付けられる形で責を問われた。
夫は出奔を決めた。話を聞いている二人には大袈裟な挙動に感じられたが、明るい人間がそう思うほど上司に疎まれていたのか。
(いろいろあるんだな、役人にも)
生まれてこの方、何者にも属したことのないヤクロウなどには到底判るまい。
「そこで、夫を可愛がってくださっていた別の上司の方が、ひどく同情してくださいまして・・・・・・」
物入りだろうということで、金を工面してくれた。それを聞いた朋輩も競うように物を用意してくれたから、道中で困ることがなかった。
ところが、なんとも軽忽な同僚が居て、近く大名に献上される筈の刀を盗み出した者があった。
「はい? 献上品を、勝手に?」
リンが呆れたように口を挟んだ。アヤメは、自分でも信じられないというように頷いた。
「私も、耳を疑ったのですが、主人はそのように申しまして・・・・・・」
とはいえ、大層なものではない。領内で殺人を起こした狂人が差していた刀で、興を起こした大名が検分してみたいと言い出したものだった。
近習には由来が不浄過ぎて止める者もあって、その中には、
「いっそ紛失でもしてくれたら」
と、漏らす者もあったから盗み出すのに苦労はなかったという。
(なるほど、手にした者を必ず殺人者にした赤口の噂を知っていれば、気に掛かるというものかもしれませんね)
とはいえ、あまりにも奇妙な手に入れ方は、刀が魔力を持って使い手を求めているような、不気味な印象であった。
「ご主人は、まさか・・・・・・」
同じような印象をヤクロウも持ったようで、その刀の災難かと思ったが、
「胃を病みまして、急に臥せったと思ったら、途端に・・・・・・」
三日程度の患いで死んだという。
一緒になった男の死を語るのに、この女は表情も抑揚も変わらない。親しい人の死は現実感がなくなるものだとヤクロウは知っているから、この鈍い女はまだ夢の中に居るような心地なのだろうと同情したが、リンはそうではないと感じた。
「失礼ですが、ご主人のことを・・・・・・」
さすがに容易に言葉には出来なかったが、かといって言いたいことを察する機微は備わっていないようなので、随分遠回りに言ってみた。
「ああ、いいえ、その、好きでは、あったのだと思います・・・・・・ただ、少し強引な方で、本当に連れ添うとか、いきなり異国とかは・・・・・・」
ほとんど誘拐のように連れ出されたという。ヤクロウは絶句したが、リンにはその情景までもがありありと浮かぶ気がした。
(まるで牛のように鈍いこの人のこと、返事を考えている間に手を引かれて連れてこられたんでしょうね)
リンのようにちゃきちゃきとした娘はこの類の女は好まない。特に嫌いではないが、苛々しないといえば嘘になろう。
「それで、ここに?」
「ええ・・・・・・どこまで行くつもりだったかは判りませんが、とにかく体を休めるために離れを借りまして・・・・・・ええ、きちんとお家賃も・・・・・・ああ、あのことがあってからはそれも断られていますけど」
夫の体が治るまでのつもりが、夫にとって終の棲家になってしまった、と。そしてそのまま、自分の意思でここまで来たわけでもないアヤメはなんとなく居着いてしまって、今更旅に出るのも難しく、漫然と日を過ごしているという。
「外に出る時はいつも刀を?」
「私は、この通り、なんというか・・・・・・バカなもので、こんな女、一人で歩くと、その、危ないと思って一応・・・・・・」
確かに、とヤクロウは苦笑した。
この鈍さには不幸なほど美しい。無腰では日用品の買い出しすら、帰れるかどうか。
「剣術はどこで?」
「いえ、恥ずかしながらそんなこと、見たことも・・・・・・ただなんとなく、体が勝手に動くのでございます・・・・・・」
ぎょっとして、ヤクロウはリンを見た。そんなことがあるのか、と。
リンは神妙な顔で首を振った。目顔で語っている。いくら魔性の刀でも、素人を達人にするなど到底あり得ることではない。
「そうですか。私たちは旅の途中なのですが、しばらくここに留まるつもりなので、話し相手になってくれませんか?」
「え? ええ、それは、はい・・・・・・私も、嬉しいですけど」
辞去することにした。着物は生乾きだったから、着替えを借りて出る。雨は、少し小降りになっていた。
アヤメは鈍いながらもそれなりに恩に着ているらしく、玄関を出るまでくどく礼を言った。その、帰路のことである。
「あのことってのは?」
「あの人、喪服だけは持ってなかったそうなんですよ」
それはそうだろう。国許を出奔するのにいちいち喪服まで持ち出す者はない。
「それで仕立ててもらったところ、あれだけの美人さんで後家さんでしょう? 店主が随分引き留めて、暗くなってもあれこれ理由をつけたんだそうです。
そこに、運悪く強盗が入ってきた。三人だったそうですが、これも運が良いのか悪いのか、アヤメさんは中座していて、座に戻った時には店主と奥さんと娘さんが縛られて転がったところだったそうです。
そこで、アヤメさんは牛の頭をどう働かせたのか知りませんが、赤口を抜いてしまったそうです。
一瞬で一人、骸になったそうです。驚いた二人が斬りかかってきた。奥さんの証言ですけどね。さすがに二対一ですから、雨戸に追い詰められて、蹴り倒されたそうです。
刀を持ったまま庭に叩き出されたのを、どうも強盗は二人とも欲情してしまったようです。これは危ない、と店主が不幸にも縄を切って、死骸の刀を以て強盗の背後から打ちかかった」
余程、この話は伝わっているのだろう。蕎麦屋の店主に話を聞いただけのリンの説明で、その夜の情景が浮かんでくるようだ。
「不幸にも、ってのは?」
「クロウさんも見たでしょう。抜き身を提げていると、敵も味方もないんですよ」
ああ、とヤクロウは嘆息した。
想像通りの結果だった。店主に強盗は気を取られ、その瞬間、一対一が二組になった。アヤメは一人を斬り倒し、返す刀であっさりと強盗を斬った。
何分にも夜中の庭のことだ。そこからは目撃者はおらず、証言者であった細君は娘と共に座敷で震えていたから正確なことは判らない。が、血のついた刀はアヤメのものだけだったから、やはり三人ともアヤメが斬ったのだろう。
騒ぎを聞いて近所が通報し、役人が駆けつけた時には、アヤメは三人の死骸の真ん中で放心していたという。
「こうなるとあれだけ美人なのが逆に不幸だな。物の怪に見えたろうなあ」
「クロウさんの目からはどうです?」
雨は、まだ降っている。おそらく同じような雨が、凄惨な現場にも降っていただろう。
「ちょっと信じられないな。あの人の腕も手も、武芸をやる人のそれじゃない」
「私もそう思います。でも現実に、あの人は今日を含めて最低でも五人は斬っている。となると・・・・・・」
「刀の魔力、ってやつか?」
水たまりを避けるために、リンがヤクロウの後ろに回った。振り向きながら表情を窺ってみるが、傘で見えない。ただ、リンは笑ったようだ。
「素人を名人にする道具なんてありませんよ」
「それじゃあ、あの人が不幸にも天賦の才を持ってたってことか」
「切り口を見たんでしょう?」
リンが横に並びながら見上げた。ヤクロウの頭に、肩口から胸まで割られた傷口がありありと蘇った。
「ああ。物を斬るのには勿論最低限の腕力は要るが、それも打ち下ろしなら刀自体の重さでどうにかなる。後は、どれだけ適切な角度で振り下ろせるかだ。けどなあ、信じられねえ。
据え物じゃないんだぜ? 生きた人間を、動いている人間をそこまで完璧な角度で」
ヤクロウに乾き切った笑いが込み上げてきた。
「もしそれが本当なら、馬鹿らしいよな。元々よ、剣なんて才能の世界だ。未熟も未熟な俺でもそれくらいは知ってるさ。それでも見どころがあるからって、彼の名人に教えを受けたんだぜ?
それが、吸血刀に出会うまで剣を握ったことすらない女に戦慄してやがる。こんな馬鹿馬鹿しいことはねえ」
舌打ちした。ふと、横を歩いていた筈のリンが立ち止まっていることに気がついた。
「なんだ?」
「クロウさんには相応しくない言葉ですね」
ころころとよく変わる表情が完全に消えて、彫像のように無機質な顔だった。それでいて、目だけがまっすぐにヤクロウを見ている。
「確かに馬鹿馬鹿しい。半生を剣に捧げても、一個の才能にそれらをなかったことにされる現実は理不尽としか言いようがないでしょう」
力量の優劣など、立ち合わなければ判らない。そして立ち合えば、必ずどちらかの命が消える。そのことを言っているらしい。
「でもね、そんな理不尽に毒を吐いちゃいけませんよ。だってクロウさんも、小さな才能を潰して立っている筈なんですから」
少なくとも名人に師事したい人間は星の数ほど居る。それらを押しのけて養子にまでなって、その姓をも与えられた男が口にしていい愚痴ではない、と。
リンの眼差しは、抗議ではない。勿論、追従や慰めでもない。その言動によって人の真価を見極めようとする、ひどく冷たい審美眼が光っていた。
「・・・・・・そうだな。お前がそう言うんなら、きっとそうなんだろう。でもな、それくらいは許してもらわないと困る。こちとら真剣勝負すらやったことのない未熟者なんだ。
自分にどれくらい値打ちがあるのかなんて判らねえ。そいつを見たいから旅に出たようなもんなんだ。世にあんなのが居るなんて思いもよらなかった。ちょっと、嘆いてみたかっただけさ」
弁解するように言って、ヤクロウは目を逸らした。
「だからそんな怖い目するな。お前に見限られると本当に自分には値打ちがねえような気分になる」
「気弱な」
ふ、とそれまでが嘘のように朗らかに笑った。
「小娘一人、どうせ斬り殺せば足りると傲慢になればいいのに。真面目ですね」
そんなだから苦労するのだ、と横に並びながら笑った。
二人とも、帰路を再び並んで歩き出した。
「怖いのさ。人を斬ったことがないから、それがなにを呼ぶのか、どんな事になるのか。いやそれより、自分がどう変わるのかが怖いんだ」
「口だけですよ。本当に怖いのなら、幾らでも手放す機会のあったそれを、大事に帯びている筈がない」
つん、と腰の両刀を指先でつついた。
「そうなのかねえ。なんとなく意地で持ってるだけのような気がするけど」
「まあ大丈夫ですよ。ところで、この辺りで別れてもいいですか? 一人で帰れます?」
一応、分かれ道ではある。左に進めばごぼう畑があるようだ。真っ直ぐ進んでいけば、宿のある通りに出られる。
「なんか用事か?」
「ええ。ちょっとね。クロウさんは宿で大人しくしててください。今日は帰れなくても必ず明日には帰りますから」
すっと、ごぼう畑の方へ足を向けた。
「おいおい、不穏だな。荒事には頼ってもらわないと困る。小娘一人にそう気を遣われると大人としちゃ恥ずかしい」
立ち止まったリンは、振り返りながら弾けるように笑い出した。
「いえいえ、ただ邪魔くさいだけですから、気にしないでください。退屈だったら女でも買って、楽しく過ごしててくださいよ。それじゃ」
足取りが軽い。本当に自分では邪魔な用事なのだろうが、もしもそうでなかったとしたら、あの娘は自分に相談するだろうか。
(あれで、大人に甘えることも知らなそうだしなあ)
自分が、あの娘に頼られるほどの大人だろうかとも思うが、とにかく言う通りに戻ることにした。
その背中を、桑畑から追いかけてきた影が追っていることも知らず。