〃 -Ⅲ
町木戸は降りていなかった。
街道に面した端と端には木戸が設けられ、番小屋の老人が午後十時に閉める。道中で襲った盗賊の類が宿場町に入らないようにするためだ。
当然、小娘を一人連れているとはいえ、この雨中を雨具もなしに両刀差しが素通り出来るわけもなかったが、リンが、
「火の国はヤイヅの町同心、奥村ヤスベエ預かり、手先のリンです」
そう名乗って通行手形を見せると通してくれた。
「さすが自慢の早飛脚。話が通っていて助かりましたね」
道中の厄介を話すと、番小屋の老人が同情して雨傘を貸してくれた。五尺五寸(百六十八センチ程度)の長身が傘を差した姿は、夜目に妖怪のように見えて、
「あんまりゆっくり歩かないでくださいね、不気味なので。ああ、早足も勘弁してください。通りすがった人が卒倒するので」
などとからかった。
少し歩くと、宿はなんとか見つかった。もう四つ時(午後十時前)になる。空いている旅籠は少ない。普請の新しい宿のほとんどはもう閉まっていて、客層を争うのを避けた宿がこの時間でも空いている。
「いらっしゃい」
変に愛想のいい老婆に迎えられ、通された部屋はあばら家のそれのよう。止まらない湿気に半分腐っている畳は一目で察せられるほど黒く、ささくれだって悪臭を放っている。
灯り障子は破れていて、生乾きの敷布団は犬のような匂いがした。
「いやあ、まるで化かされてるみたいですね」
気を悪くした様子もなくリンは笑った。娘にしてはなかなか胆力がある。
「それじゃあ反対だろう。化かされてるのが判る前にこれじゃ、客なんて来るかよ」
「ああ、それもそうですね。翌日見に行ったらあばら家に髑髏が定番ですもんね」
男は屋台でしたように着物を脱いで、腰帯と下げ緒をくくって物干し竿の代わりにして干した。
ちょうど干し終わった時、老婆が夜食を持ってきた。握り飯と漬物で、もう火を落としているから汁物は出ない。直前の味噌汁屋で充分堪能していなければ嫌味の一つも言いたいところだった。
「ん?」
一口頬張って、首を傾げた。美味い。冷や飯の筈なのに噛むと口の中で解れる。塩気は漬物に合わせて抑えめにしてあって、なかなか細やかな配慮だった。
「これは美味しいですね。これ、葉わさびですよ。ぴりっとして美味しいですねえ」
「ま、一丁前の値段を取るだけはあるってことか」
「また、そういう言い方は人の機嫌を損ねるだけですよ? 美味しかったら素直に美味しいって言えばいいんです。ひょっとしたら襖の陰でお婆さんが気にしてるかもしれませんよ?」
「もしそうだったらいますぐ出て行くよ。薄気味悪い」
「どうも人が悪くていけない。文句があるなら漬物もらいますよ」
伸ばした細い指から漬物の乗った小皿を避ける。
「明日は別の宿を探すぞ。飯は美味くてもさすがにこれはない」
「びっくりするほどのんびりさんですね。明日もまだこの宿場に留まるんですか?」
「追われてるわけでも追ってるわけでもねえんだ。急いだってなんにもならねえ」
「武芸者ってもっと気持ちの尖った人だと思ってましたよ。心は腰のものほど鋭くないんですね」
痛烈な皮肉だが、悪気は欠片もないことは短い付き合いでも判る。それだけに刺さる感想というだけのことだ。
「一期一会って言うだろ。どこ行くのかも決まってない旅路で、急いてそういうのを逃したらどうすんだ」
「いやだなあ、別になじってませんよ。そういう考え方が出来るくらい緩いんですねって言っただけですよ」
感情には温度がある。そこについてこない人間との会話は成り立たない。この娘は常に温度が一定だから、そこに落とすなり上げるなりしないと話は進まない。
「ああそうだよ、俺はおっちょこちょいの上に危機感もないあわてんぼうのおぼこ野郎だよ。強盗なんぞに追われて一張羅を台無しにしちまった間抜けだよちくしょうめ」
「まあ乾くまで代わりを買っておいた方がいいでしょうねえ。私が朝一番でお使いに行ってきますよ。古着屋くらいあるでしょうしね。
クロウさんがそれなのは世慣れないからでしょう? 初めて世間で独り立ちしたらそんなもんですよ。武芸者って言ったって、刀を抜かなきゃ丁稚より役に立たないもんでしょうし」
空になった皿を二人分まとめて持っていく。廊下にでも出しておけばいいものを、律儀である。この腰の軽さと親切心とあの口の悪さが同居しているのだから不思議である。
戻ってくるまで待つ理由もない。さっさと布団に潜り込んだ。
粗末な布団は寝心地が悪かったが、やはり疲れていたのだろう。朝まで目覚めることはなかった。




