旅立ちに、雨
存外、体力のある女なのだろう。
あの決闘から二日経った。カンエモンは当然、ヤクロウとリンもまだ宿場に留まっていた。なんとなくアヤメの命がどうなるのかを見届けなくては寝覚めが悪い。
幸い傷口が膿むこともなく、切断面があまりに綺麗だったためなのか深刻ではなかった。リンが素早く止血したのもあって、軽い貧血にこそなったものの、大事はなかった。
当然、こんな宿場町に名医が居る筈もなく、たとえ居たところで不可能ではあったろうが、手首の接合は叶わず、アヤメは不具となった。が、二日後に置き上がった時には意外に明るく、二人の見送りにまで出てきた。
「悪かったな、もっと上手くやれてれば」
ヤクロウが頭を下げた。アヤメは、カンエモンに体を支えてもらいながら首を振った。
「いいえ、その、とんでもない・・・・・・こうして、生きているのですから・・・・・・ありがとうございます・・・・・・」
心のつかえが取れたのか、初めて会った時からの陰りが消えている。表情も少し和らいでいるようだ。喜ばしいことだが、あの陰りが似合ってもいたから少し惜しい気もした。
「俺が頼むことでもないが、この人のことは頼みます」
軽くカンエモンに向かって頭を下げる。
利き手がない寡婦を、しかも形見を取り上げられた女をそのまま放逐するのはあまりにも惨いということで、カンエモンが引き取ることにした。
見方を変えれば恩人である。そのくらいは、と寧ろカンエモンはアヤメの戸惑いや遠慮も弾くように乗り気になった。
「ではあの刀、赤口は危険な刀なのでくれぐれも気をつけてくださいね」
リンが念押しをする。
白木の鞘に収まった妖刀は、一人の女の運命を弄んだのが嘘のように大人しく、一見するとただの鉄の塊である。が、それとそれに類する刀の魔力のようなものを見たカンエモンは力強く頷いた。
「みんなが暢気だった。それがためにこの人がこんな目に遭い、何人も死んだ。儂にとって他人事のように過ぎていったが、忘れないよう、忘れさせぬよう、提言するつもりだ。
なあに、数奇心で死蔵してしまうおつもりだろう。雲の上のお方がこのようなものでなにをするということもあるまい」
「下され品ということもあります。赤口の行く末には気を配っていてください」
「ああ。なにせ栄達の恩人たちの言葉だ。その約はきっと命を懸けよう」
少し不安ではあったが、リンは頷いた。これからなにがあっても、もう他人事だ。そこまで肩入れすることもあるまい。
「さて、じゃあ行くか?」
軽い荷物を肩に掛けて、リンを顧みる。リンも頷いて、足元の蓑と笠を押し付けた。
「きっと道中で降りますよ。今度は濡れないでくださいね」
苦笑して受け取る。あの時の晴れ間は既に消えて、重たい雲が空を占めていた。旅立ちにはなんとも見合わない空模様だが、これが雨の国なのだろう。顎できつく笠の紐を結んだ。
「ああ、その前に」
カンエモンが言った。
「そなたたちは何者なのだ、ただの旅人にしては・・・・・・」
去り際に名乗るのも間が抜けている。ヤクロウは逃げるように出発した。
その後ろ姿に嘆息したリンが、
「あの人は名人斯波ノブテルの弟子にして、その佩刀『映心』を託された未来の名人。私は」
と、ヤクロウがリンを呼んだ。片肌脱ぎの右手を掲げてそれに応え、自分の荷を肩に掛け、
「名工深川ガンテツの孫、今は同心の手先をしてます、リンです。それでは」
小走りにヤクロウを追いかけた。後に残った二人は言葉もなく、おずおずとアヤメが口を開いた。
「高名なお方ですか?」
「・・・・・・ああ、あの鳶屋城落城の時の若武者と、伝説の名工の血だ。これは、故郷で伝えても法螺だと笑われてしまうな」
なんとなく凄いものに触れた気がして、二人の背中が見えなくなるまで見送った。
ヤクロウは、隣に並んだリンに、
「よかったのか?」
「なにがです?」
「あの刀、ついででも狙いの一口だったんだろう? 俺のと同じくらい欲しかったんじゃないのか?」
「ああ・・・・・・」
リンが懐から巻物を取り出した。
「拓は採りました。刀なんて何十本も持ってたら邪魔だし、これでいいことにします」
「魚じゃあるまいに、そんなんで・・・・・・まあ、お前がいいならいいけどさ」
ため息を吐く。リンは対照的に笑った。
「どうせ目当ての六口以外は興味ですから。クロウさんの刀も含めて」
「だったらこいつも、拓を取らせてやるからそれで勘弁してくれよ」
驚いたようにリンが立ち止まった。
「私と一緒に旅をする理由、なくなっちゃいますけど大丈夫ですか?」
皮肉でも衒いでもなく、真顔でそんなことを言う。ヤクロウはまた嘆息して、
「いいや、なんにも大丈夫じゃないね。お前が居てくれると助かる」
「じゃあこれで帳消しですね。まあ頼ってくださいよ。いい歳の男性が慌てるのを見るのは結構楽しいので」
感情的になっていたとはいえ、あの雨中でのことを根に持っているらしい。いつになく言い方がしつこい。
仕方がない、と折れて付き合ってやる。
「クロウさんの剣は、他人のためにあるんですね」
「うん?」
ぴん、とヤクロウの刀を指で弾いた。
「あの時、アヤメさんのこと、斬れた筈なのにわざわざ腕を斬った。頭上で動いている腕より逆胴を斬り上げてしまえばすぐに終わったことなのに、そうしなかった」
ああ、とヤクロウは頷いた。
何分にも無意識のことだ。自分でも何故あんなことをしたのかは判らない。リンには、なんとなく判っているらしい。
「自分でもバカだと思うよ。あんな、危ないこと・・・・・・一歩間違えてたら俺が死んでた」
「それはね、余裕というものですよ」
もうすぐ、入ってきた時とは正反対の方向の町木戸に出る。
ヤクロウは思わず立ち止まった。
「余裕? どこに? 俺はあの時・・・・・・」
「殺さなくても勝てる。そう判断したんですよ。クロウさんの目は本人よりお互いの実力が判っていたんでしょう」
「だとしたらそいつは油断や傲慢の類だ。俺は、驕ってたのか」
「それをやってのけてから言うと痛烈に皮肉ですよ。殺さず制した。誰も死ななかった。それがクロウさんの望みだった。どこに文句をつけることがあります?」
不思議だ。この小娘がそう言うなら、と納得している自分が居る。
ふと振り返って、
「国を出ていきなりこれだ。前途多難だな」
「雨の国は、雨の止みやすいところに街を作っていると聞きます。次はもう少し過ごしやすいところに出ると思いますよ」
「なんにしてもしばらく雨続きか。嫌になるな」
歩き出す。もうすぐ、この宿場から出る。
「これからどこへ行きます?」
「まあ道なりだな。よさそうなところを見つけたら、そこで腰を下ろす」
「多分ですけどね、お互い根無し草が性に合ってると思うので、そんなところは見つからないと思いますよ」
雨が降ってきた。文句を言いそびれて、蓑を被る。止め紐を胸の前で結びながら、
「傘。気が利かないですね」
リンには、町木戸の番太郎小屋で済ませておく手続きがある。懐から手形なんかを取り出すから、蓑はまだつけない。
苦笑して雨傘をリンの頭上にかざしてやった。
道中、一人旅にならなかったことに、改めて安堵した。




