07 人生再演
じっとりとした蒸し暑い熱帯夜だった。満点の星空に明るい月。虫の音だけが聞こえる静かな真夜中の病院は、ほんの数秒で大災害の爆心地になった。
病棟が次々と爆発していき、赤い炎が火の粉を巻き上げ暗闇を舐める。泡を食って右往左往する警備員達は怒号を上げ、何事かと悠長に窓から顔を出した職員は建物の崩落に押しつぶされ見えなくなる。
「火事だ! 消火、消防車! ああダメだスマホがない!」
慌てて病院着のポケットを探る翼は極めて正常で良識的だ。人助けが趣味と豪語した彼の人徳が滲み出て眩しい。
だが今回ばかりは間違っている。
矢倍は言っていた。病院はガンプと敵対していると。
矢倍は叫んだ。ガンプの襲撃だと。
俺は見た。
ごうごうと燃え盛る炎を切り裂いて空を飛ぶ人影を。
ならばこれはただの火事ではなく突発的な組織間抗争で、混乱に乗じて逃げ出す絶好のチャンスだ。
「体を低くしろ! 逃げるぞ!」
炎を纏った瓦礫が隕石群のように降り注ぎ、辺りは火炎地獄の様相を呈している。俺は翼と神々廻さんの頭をひっつかんで無理やり姿勢を下げさせ、正面入り口を指さした。頑丈な門扉は大破した車が突っ込んでひしゃげ、上手くよじ登れば通れそうになっている。
夜の番をしている警備員はバケツに汲んだ水で必死に消火しようとしていて周りを見る余裕なんてなさそうだ。
たぶん正面から突破できる。いや他にもっと良い脱出経路があるか? それこそブルーシートを捲って、いや狭い壁の穴に一人ずつ体をねじ込んで無理やり通るよりは……
考えすぎるのは俺の悪い癖で、姿勢を低くし考え込んで数秒固まる。災害時の数秒は事態を変化させるに十分すぎ、また情勢が動いた。
「う、うわぁーッ!」
「クックックーッ!?」
悲鳴が聞こえて振り返ると、吹っ飛んできた車に怯えた九条が隣にいた矢倍を盾にしていた。目玉が飛び出るほど驚いた矢倍は咄嗟に電撃を放つも、車は雷を帯びてそのまま突っ込んできて直撃。骨が砕ける生々しい音と共に、恐怖の象徴として君臨していた矢倍はあっさり車の下敷きになった。
「は……!」
「そんな……!」
二人が絶句する中、俺はしめた、と冷徹に打算を働かせる。おびただしい血が流れているし、悲鳴も聞こえない。アレは即死だ。矢倍を犠牲にしてまで生き延びようとした九条も車を避けられず、折れ曲がった鋭利な車体のフレームに腹を貫かれ地面に縫い留められてもがいている。
よしよしよしよし! 障害が減った、流れが向いてきた。今更悪党どもが死んで動揺するかよ。翼も神々廻さんもピュアすぎる。慣れろ、そろそろ! この三日でどれだけ人が死ぬのを見てきたと思ってるんだ。
「ま、待て! 助けてくれ! 頼む、仲間だろ!?」
「うるせー死んでろ!」
希望に向けて走り出した俺達に九条が哀れっぽく助けを求めてくる。当然一顧だにせず一蹴した。翼の足が鈍るが背を押して走らせる。
九条は敵に寝返り、治験者を笑いながら殺し、人を盾にして自分だけ助かろうとした真正ゲス野郎だ。そこでそのまま息絶えてくれると助かる
「……後悔しろ!」
背中で聞いた九条の捨て台詞は、遺言にしては妙に勝ち誇っていた。
嫌な予感に肌があわだつ。だがこの病院に囚われてから嫌な予感の連続で、今は一刻も早く爆発倒壊していく病院から逃げ出さないといけない。心によぎった引っかかりをいちいち確かめていられる状況ではなかった。
足の火傷の痛みを堪えて走る、その視界が暗転する。
瞬きと共に俺の視点は低く地面に倒れたものになり、腹に激痛と熱、異物感を感じる。何事かと見れば、炎で熱せられた杭のようなものが腹を貫き俺を地面に縫い留めていた。血がとめどなく流れ、熱いのに全身が冷たい。
どうして? 何が起きた? 記憶が飛んでいる。
「……っあ゛、痛、熱……なん、だこれ!?」
まとわりつく死の影にもがきながら喉を押さえる。声まで何かがおかしい。
「は、ははははは! やった、やってやったぞ! お前はそこで死んでろ!」
聞きなれたようで聞き覚えのない声に目を上げると、目の前に翼と神々廻さんに挟まれた俺がいた。
立っているのは紛れもなく俺だった。
写真で、鏡の中に、ずっとみてきた俺自身だ。
その俺の口から俺じゃない言葉が出ている。
自分の顔が歪んで邪悪な喜びを作っているのを見て、俺は朧げに理解した。
俺と九条は入れ変わったのだ。恐らく九条の魔法で。
「司?」
「司さん?」
異変を感じた翼と神々廻さんが九条から距離を取る。
恐怖が体を支配する。
こんなのめちゃくちゃだ。どうすれば?
「返せよ……俺の体を……返せ……!」
「ハッ! 返すかよ! ざまあねぇなあ! これが魔法なんだぜぇ?」
立場が逆転し、恨み言しか言えなくなった俺に九条は勝利宣言した。わざわざ俺のところに歩み寄ってきて、頭を蹴り飛ばす。
「ぐ……ぁ!」
「は! 俺の代わりに死んでくれ。ははは、生きるぞ、生きてやる! この俺が、」
この俺が何なのか、俺の体を乗っ取った九条が語る事はなかった。高速で飛来した瓦礫に綺麗に頭を吹き飛ばされたからだ。
自分の死を見てわけがわからなくなる。
ああ、また死んだ。
今夜は死に憑かれている。
俺が死んで、俺は生きている。
また死ぬ。まだ死ぬ。
悲鳴と崩落の音、破壊を振りまく炎と爆発の猛りは止まない。
死んでいく。誰もが皆ばたばた死んでいく。
九条は死んだ。だが俺ももう死ぬ。
死にかけの体を渡されて生きる術なんてない。
翼は頭を吹き飛ばされた俺の体を抱き留めて愕然としていて、神々廻さんはハッと何かに気付き泣きそうになって俺に駆け寄ってくる。
「あああダメ、ダメ、ダメ! 死なせない、絶対死なせない……!」
炎で高熱を帯びた重い車体をなんとか押して退かそうとする。
しかしビクともしない。
建物の崩落と爆発はまだ続いていて、危険な瓦礫の雨が地を荒らす。一刻も早く遠くへ逃げるべき時に、神々廻さんは俺を助けようと留まってくれている。
それが涙が出るほど嬉しくて、叫びたくなるほどもどかしい。
いいから逃げてくれ。俺はもうダメだ。三人で助け合うと決めた。だが俺は死ぬ。助からない奴を助けようとしてここに留まって、矢倍や九条のように神々廻さんまで死んだらバカみたいだろ?
助かりたいが助からない。どうせ死ぬなら少しでもカッコつけて死にたい。神々廻さんの人生の一欠片に、死ぬ間際に他人の心配をした良いヤツとして俺を残してくれ。
俺は最後の力を振り絞り、神々廻さんの足を押しのけるように押す。肺がつぶれているのか声を出すのも億劫だ。
しかし神々廻さんは動かない。テコでも動かない。むしろ鬼気迫る顔で一層必死に車を退かそうとする。
「助けるから。絶対助けるから……! 見捨てろなんて言わないで。自分が助かる事だけ考えて!」
手を焼けた鉄で焦がし、煙を吸ってせき込み、酷い脂汗を流しながら神々廻さんは離れない。
どうして彼女は俺にここまでしてくれるのか分からない。
だが心の叫びは痛いほどに伝わった。
彼女が諦めていないのに、助けられようとしている俺が諦めるなんて。
もう少しだけ生きたい。ダメだから逃げろではなく、大丈夫だから安心しろと言ってあげたい。
でもそんなのは不可能で、死を免れる方法なんて思いつかなくて。
それなら――――そう。
こうしよう。
『もう一度』だ。
か細い決意の言葉と共に俺は起死回生の魔法を作り、死んだ。
思えば平凡な人生だった。
俺には一つも特別な人生経験がない。普通に生まれて普通に生きてきた。
授業はサボらない。でも宿題はサボる。テストは平均を越えたり越えなかったり。歌はまあまあ上手くて、友達とやるゲームは勝ったり負けたり。人に自慢できる事なんて何もない。だらだらだらだらだらと、ゲームやアニメ、漫画を貪って生きるだけのつまらない人生。
この病院に監禁されてからずっと翻弄されっぱなしだった。
人が死ぬのを見ているだけ。助けられて、逃げ出して。脱出計画も人任せ。可愛い女の子に好意を寄せられてもどっちつかずでモジモジして、何もできない何も進展しない。
そんな俺の人生経験から作れる魔法なんてたかが知れている。
でもばあちゃんは言った。
生まれただけで偉い。生きているだけで奇跡だと。
どんな惨めな人生を歩んできた小物でも、生まれて生きた経験はある。
だから俺は「生まれて生きる魔法」を作った。
死なない魔法は作れない。蘇生魔法も作れない。だがもう一度生まれる魔法なら。
人生再演。
つまり再誕魔法だ。
一度心臓の鼓動を止めた俺の体に魔法がかかる。
死体が消え、赤ん坊が現れ、急速に育ち、生まれ生きた人生を繰り返す。
ほんの2,3秒の間に俺は人生の追走を終え、立ち上がった。
さあ、人生の続きをしよう。