41 開戦
ほんの二カ月前まで、沢田は心理学を学ぶ普通の大学生だった。
今は不思議な因果で終末の獣の動向を見て照明弾を打ち上げる役割に就いている。
沢田の人生に転機が訪れたのは二カ月前に顔面偏差値がバグった美男美女と出会った時だった。
カラオケボックスで部屋を間違えて入ってきた(後から聞いたらわざとだったらしい)三人は、話の流れで就職活動に躓いて困っていると言うと沢田でも知っている有名大企業を紹介してくれた。人事部に話を通してねじ込んでくれるらしい。
神か仏かという有り難い話ではあったが疑わしい。話がうますぎる。
失礼にならないよう恐る恐る何か裏があるのではと遠まわしに尋ねると、両手に花の美男子九条獅狼は沢田の警戒心を絶賛し、十字教を信仰しているか確かめてから魔法について教えてくれた。
話は荒唐無稽だが筋が通っていたし、実際に変身魔法や炎魔法を見せられては信じるしかない。
沢田は就職先を紹介してもらう代わりに三人が要求する記憶復元魔法を覚える事になった。記憶復元魔法を覚えた事は誰にも秘密だという条件付きで。
確かに沢田は心理学を専攻し記憶喪失について論文を書いた。だが内容は過去の先行研究の焼き直しで、評価点も良いとはいえず、卒業単位も滑り込みで取ったような二流学生。記憶を取り戻したいならもっと適任がいるように思える。
その道の有名な教授や医者、病院を挙げると、三人は有名な人は目をつけられているからダメだと断った。
記憶復元魔法を覚えるだけの人生経験を持ちつつ全く注目されていない無名で影の薄い沢田が良いのだとか。
何か釈然としないモヤモヤを抱いたが、沢田は結局了承した。
コネだろうが秘密の裏取引があろうが、あの大企業に就職したとなれば親戚や友人にも自慢できる。
しかしいざ魔法を習得しようという土壇場で沢田は約束を破ってしまった。
魔法は一人一つしか作れない。決して作り直せない。
そのたった一つの魔法を記憶復元なんて使い勝手が悪くつまらない魔法にしてしまうのは勿体ないではないか?
もっと便利で、強くて、すごい魔法がいい。
そこで沢田は記憶復元魔法ではなく幸運魔法を作ってしまった。今までの人生で一番ツイてた一日の経験から、幸運を呼び込む魔法を精製したのだ。
約束を反故にした沢田はブチ切れた姫宮ソニアに殴り殺されそうになったが、失望しながらも気持ちは分かると同情してくれた九条の取り成しで九死に一生を得た。
どうやら沢田が土壇場で約束を破ってしまったせいで九条は安全に記憶を取り戻せなくなり、極めて危険な賭けに出て記憶を取り戻さなければならなくなったらしい。
自己中心的な誘惑に負け自分勝手に約束を破ったせいでエラい事になったと知った沢田は自責の念に駆られ苦しみ、三人の計画を支える下働きを申し出た。
三人はザ・デイに何かをするらしい。何をするつもりなのかは分からない。分からなくても良い。
ただ、沢田は三人の言う通りに動き、約束を破ったのにグリモアに就職斡旋してくれた恩に報いる。
ザ・デイ当日。霞が関地下で待機し、終末の獣を監視していた沢田は終末の獣の異変を見た。
何十何百という封印拘束魔法で雁字搦めに縛られ、ひっそりとカウントダウンしていた終末の獣が「ゼロ」の言葉と共にゆらりと立ち上がる。
猿轡が溶けるように消え去り、目隠しが崩れ塵になり、鎖と鉄球が弾け飛ぶ。
沢田は素早く換気ダクトを通して赤の照明弾を地上に打ち上げ、三人にいちはやく終末の獣の復活を知らせた。通信機は機能を失う危険がある。アナログな手段の方が確実に情報を伝達できる。
照明弾を打ち上げる僅かな間に終末の獣は全ての拘束を払いのけていた。
獣と呼ばれているからどんな醜悪な姿をしているのかと思っていたが、普通の男だった。
黒髪黒目で眉が濃く、口ひげと顎ひげを生やしている。アラブ系だろう彫の深い顔立ちは誠実で敬虔な印象を受けた。
終末の獣は目を閉じ手を組んで天蓋に塞がれた空を仰ぎ祈りはじめた。
全く聞き覚えのない未知の言語による祝詞は、なぜか日本語しか知らないはずの沢田にもはっきり意味が分かった。
【全知全能の父よ。神託の遂行が遅れました事をお詫びします。私は父の限りない慈愛を知っています、裁きの時を知っています――――】
悠長に祈っている終末の獣にマーリンネットの封印部隊が封印拘束系の魔法を雨あられと浴びせかける。
常人なら一瞬で呼吸も心臓の鼓動も禁じられ思考する権利すら奪われぐちゃぐちゃになって即死する過剰で過激な封印魔法は全て終末の獣に直撃し、白い燐光と波紋にかき消された。
効いていない。効いていないが魔法攻撃に燐光と波紋という形で反応している。封印中の攻撃では見られなかった反応だ。
封印が解ければ挙動が変わるという神々廻臾衣の言葉は正しかった。
沢田は紫の照明弾を打ち上げ、脱出装置のボタンを押しカタパルトに乗って一気に地上に脱出する。
地上に向け射出される沢田を追いかけるように、霞が関地下大空洞に大爆発が巻き起こり爆炎と爆風が吹き荒れた。
グリモアが終末の獣の真下に仕掛けたオクタニトロキュバン爆薬が起動したのだ。
大地に、空に激震が走る。衝撃波が沢田に襲い掛かるが、「幸運」にも目の前に吹き飛んできた鉄板のおかげで威力が大きく軽減され、沢田は爆心地から離れたビルの屋上の干しっぱなしの布団に衝突し軟着陸した。
爆心地はまるで世界の終わりを告げる火山噴火のようだった。
地底でおきた爆発は直径数十メートルはあろうかという巨大な炎の柱を噴き上げ、真夜中の暗さを真昼の様に照らし熱波を吹き散らす。白い雲は爆風に吹き散らされ禍々しい黒煙が取って代わる。
霞が関ビルはなぎ倒され倒壊し、あるいは赤熱溶解し崩れていく。
今頃一般人向けに埋蔵天然ガス爆発というカバーニュースが流され始めている事だろう。
全てを灰燼に帰す炎と煙の中から、黒髪の男が吹き飛ばされてきて高層ビルに叩きつけられる。そのまま落下しぐしゃりと地面に叩きつけられ、平然と立ち上がった。
急いで双眼鏡で確認すると、体どころか身にまとうボロ布すら燃えていない。沢田は目を凝らし終末の獣が燐光と波紋を帯びていないのを確かめ緑の照明弾を打ち上げた。
魔法には反応したが、爆薬による爆炎には反応していない。
という事は、終末の獣の不死性の正体は恐らく推測の一つが当てはまる。パターンD――――魔法相殺+物理完全無効だ。
未だ無傷の終末の獣は目にも止まらぬ速さで走り出し、とんでもない初速のせいで一瞬見失った。
だが衝撃波と街路樹を吹き飛ばしアスファルトを抉り飛ばす一直線の破壊痕が道筋を教えてくれる。
終末の獣は東京湾に向かって移動していた。
終末の獣が到着する前に海が独りでに二つに割れ、彼が通る道を開ける。無数のミサイルが撃ち込まれているが速過ぎて当たらず、いたずらに市街地を破壊するだけだった。
沿岸で待ち構えていたパラケルススの防衛隊は紙のように突破される。上空を飛び去る戦闘機から一筋の光と共に魔法が投下され、霞が関爆破に勝るとも劣らない爆発と閃光が巻き起こり、キノコ雲が上がる。グリモアの核爆発魔法だ。
たった一人を殺すにはあまりに過剰な火力が立て続けに撃ち込まれてもなお、終末の獣は全く止まらない。
正直、沢田は世界滅亡に半信半疑だった。所詮は7000年前の古代人。現代兵器と強力な魔法を一斉に叩き込まれればひとたまりも無いだろうと思っていた。
しかし目まぐるしく変わる戦況を目の当たりにして、キノコ雲から白い燐光と共に無傷で姿を現し、炎の雨の中海底を歩いていく終末の獣を見て絶望する。
あんなのどうしようもないじゃないか?
割れた海を歩いていく終末の獣はある地点で立ち止まり、跪いて空に祈りを捧げはじめた。
沢田もハッとして空を見上げる。
広がる黒煙と赤々と燃え盛る半壊した東京の上空に、複数の光が現れ煌めくのが見えた。
終末の獣は止められない。
封印も攻撃も失敗した。
全てを滅ぼす隕石が降ってくる。




