14 綺麗な薔薇には闇がある
臾衣と俺の関係はまだ一ヵ月ほどの短いものだが、かなり親密だと自負している。
共に危機に陥り、命を預け助け合って窮地を脱した。それに今では俺の正体を知るのは臾衣だけだ。魔法や俺達を取り巻く不可思議な謎も共有してきた。
俺達は必ず助け合うと誓った。そうでなくとも彼女は稀に見る可愛い女の子で、なんの因縁も無くても助けてあげたくなる。
俺が臾衣を気遣うように、臾衣も俺に何くれと無く世話を焼いてくれる。
それはちょっと過保護なぐらいで、料理を作って持ってきてくれたり、掃除をしてくれたり、ゲームをしている間に溜めていた洗濯物をいつの間にか片づけてくれていたり。母親みたいだ。
翼が突然死した原因が分からなかったほんの一時間前まで、何がトリガーになって死ぬのか分からなかったから、マメな安否確認も欠かさなかった。
出かける時は必ず連絡して、帰る時も連絡した。人気のない場所に行かない、できるだけ一緒に行動する。得体の知れない魔法の脅威に何ができるかも分からないが、事情を理解している人が傍にいてくれるだけで心強い。
そんな訳だから、俺が九条獅狼の婚約者・姫宮ソニアと接触するのを心配して様子を見に来るのも十分あり得る話だ。
九条の中身が入れ替わっているとバレるのを恐れ、俺は九条の知り合いにできるだけ会わないようにしている。ソニアとの婚約破棄もさっさと終わらせ、顛末を臾衣に知らせる手はずだった。
しかしソニアは魔法使いで、この会談は想定外に長引いている。何が起きたのかと心配した臾衣が駆けつけるのも道理だった。
……が、インターホン越しに見える臾衣の表情には心配だけではない何かがあるように感じられ、どうしてなのか胃が痛い。
遠隔で玄関のロックを外して中に入れると、臾衣は部屋に入ってすぐソニアを見て俺を庇うような位置に立った。
「はじめまして、姫宮ソニアさん。私は神々廻臾衣。獅狼さんの友人です」
「ええはじめまして、神々廻さん。もう知ってるみたいだけど私は姫宮ソニア、獅狼さんの婚約者――――いえ、今は妻よ」
どこか棘のある臾衣の自己紹介にソニアがさらりと返すと、臾衣の呼吸が止まった。
動きも止まった。
心臓まで止まったのではないかという完璧な硬直のあと、臾衣の静かな激情が陽炎となって立ち昇るのを幻視した。
俺を後ろに庇った臾衣の顔は見えない。しかし小さな背中が妙に恐ろしく見えた。
こわい。でも頼もしい。
「妻? 結婚したの? どうして? どうやって? 本当に?」
「嘘じゃないわ。ほら」
立て続けに質問攻めにする臾衣にソニアはポーチから婚姻届を出し掲げて見せる。
臾衣は躊躇なくそれをひったくり、素早くズタズタに破り捨てた。
ソニアはショックで叫び声を上げたが、俺は小さくガッツポーズをした。そうだ、それだ。考えてみればまだ役所に届けていないから結婚は成立していない。
こんなん無効だ無効! 結婚なんてしてませーん! いつ何時何分何秒地球が何周回った時サインなんてしたんですかー!
「ちょっと! いきなり何を」
「許さない」
「何? 何が!?」
「許さない」
平坦に繰り返す臾衣にソニアは怯んだようだったが、すぐ何かに思い至り同情的に言った。
「ねえ、神々廻さん。顔に騙されないで。この男の性格が顔と同じぐらい良いと思ったら大間違いよ。女を食い物としか思ってない奴よ。心当たりあるでしょう?」
「無いです」
「…………」
ソニアは臾衣の目をじいっと見つめた後、俺に手招きした。
肩をこわばらせた臾衣が俺に目配せして手で押しとどめようとするが、俺は大丈夫だと頷いて前に出る。
臾衣にしてみればソニアはかなり強引な手段に打って出た怪しい真・押しかけ女房だが、俺視点では金(魔力)にがめつい取引相手だ。急に刺してきたりはしないと分かっている。
「いでででで!」
「あっ!?」
刺されはしなかったが、背伸びしたソニアに髪と頬を思いっきり掴んで引っ張られた。
割り込んできた臾衣に強烈なビンタを食らってよろめきながら、ソニアは不可解そのものといった風に綺麗に整った眉に皺を寄せる。
「変装じゃない? ならどうして……」
おっとー?
やばいぞ疑われてる。
婚約して一年、九条の家に婚約者の影はそれこそエロフォルダの画像ぐらいしかなく、二人の関係は薄く浅いものだとばかり思っていた。
だからバレないと考えていたのだが、想定外に話が長引きこんがらがってこのザマ。
どう誤魔化せばいい? かなり怪しまれてるぞ。
「あなた本当に失礼ですよ。嫌がってる獅狼さんに無理やり結婚を迫って、いきなり暴力振るって。警察呼びますよ!」
臾衣が怒ったフリをしているのか本当に怒っているのかははっきりしない。
しかし言ってる事はもっともだ。
ソニアは肩をすくめ、破り捨てられた婚姻届を名残惜しげに一瞥してからポーチを手に取った。
「まあそうね。今日はこれぐらいでお暇するわ。獅狼さん、また連絡するから色々改めて話しましょう」
演劇めいた優雅さで清楚な一礼をし、ソニアは悠々と帰っていった。
後に取り残された俺は臾衣に全てを説明した。
話を聞いた臾衣は謝ってきます、と言って急いでソニアを追ったが、追いつけるだろうか?
とにかく、どうやら一息つけそうだ。
彼女との出会いで事態がいい方向に向かうといいのだが。
九条家を出た姫宮ソニアは、足取りも軽くパラケルスス直営のブランドショップに向かっていた。
ソニアは強力な魔法を持っているが、魔力が少ない。GAMPが提供する様々なサービスに支払う魔力だけで毎月カツカツで、16歳の天涯孤独の身では金を魔力に換金するのもおぼつかない。むしろ魔力を現金に両替し、生活費に充てる必要があるほどだ。
九条獅狼との結婚は現金と魔力両方の問題を解決するはずだった。
婚約者は地頭こそ悪くないのだが考えが浅く騙しやすい。何より金持ちだ。
結婚により財産を手に入れ、魔法を覚えさせ魔力を出せるようにしてやって徴収する。
そうすれば貧乏暮らしから一転、なんでも手に入る優雅な生活がやってくる。
この単純な計画を成功させるため、ソニアは随分と骨を折ってきた。
突然の火事で家も家族も全てを失ったソニアは幸福には時に代償が必要で、黙って口を開けて待っていても幸せは飛び込んで来ないと考えている。
女にとって若さは武器だ。今は亡き両親が褒めてくれた自慢の美貌も十年二十年すれば衰える。だから全てを失った自分に残された最後の武器が最も価値を持っているうちに高く売りつけ、今後の生活の安泰を確保する。それが堅い。
乾坤一擲、一発逆転のシンデレラストーリー。そのためには純潔ぐらいくれてやろうと思っていた。かなり悩んだが幸福の代償だ。
計画には誤算があった。
九条獅狼は前回会った時と比べ随分人が変わっていて、別人が変装してなりすましているのではと疑ったが違った。昔亡くなったという双子の弟が実は生きていて、何かの理由で成り代わっているというのが有力説だ。
しかしそれならそれで悪くない。
九条弟は兄よりも遥かに善人で、注意深く厄介だったが女性慣れしていない。挑発して様子を見てもほとんど怒らなかった。浅慮な兄とは別の理由でやりやすく、いくらかは安心できそうな相手だ。
ソニアは彼の正体を指摘しない事にした。正体が誰だろうと関係ない。
もとより結婚するのは金持ちなら誰でも良かった。九条に目を付けたのは偶然出会うキッカケがあったのと、取り入りやすかったのと、顔が良かったからだ。どうせ結婚して体を弄ばれるなら脂ぎったおじさんより顔の良い男の方がいい。
結局、婚姻届は破り捨てられてしまったが魔力の半分をもらう約束をした。悪くない。
九条に好意を寄せているらしい神々廻臾衣の邪魔を退かせば結婚を押し付けより深く取り入れそうだ。
ひとまずソニアは祝勝にずっと欲しかった服を買う事にした。
魔力の定期収入が見込めるなら今までよりずっと色々できる。頑張った自分へのご褒美だ。
パラケルススの直営ブランドショップは都心の大通りに面した一等地にある。一般の客も多くやってくるこの店は有名ブランドを表の顔にしていて、表の店の方を利用する魔法使いも少なくない。
カランコロンカランコロン、と軽やかなベルの音と共に入店したソニアに店内の客と店員の目が向き、何人かがその美貌に驚いて呆けたように見てきた。
飽きるほど見てきた反応を意に介さず、ソニアは店の奥に向かった。
そこに中年の女性店員が近づいてきて声をかけてくる。
「当店は初めてですか? お客様」
「?」
顔見知りのはずが何を、と訝しむがなんだか目線がズレている。見れば足元で毛並みのよい黒猫が金色の瞳を瞬かせていた。
驚いたが、納得もした。そういえば魔法使いの来店を告げるベルが一度ではなく二度鳴っていた。この黒猫が音もなくついてきていたのだ。
「私の連れよ。この店の流儀は私から説明しておくわ」
「そうでしたか。何かありましたらお申しつけ下さい」
「ええ、ありがとう。こっちよ」
ソニアが顎で奥をさして歩き出すと、黒猫は人間くさいまごつきを見せてから大人しくついてきた。
試着室の隠し扉から入る魔法使い用裏スペースに入ってから、ソニアは言った。
「あなた猫になれるのね。神々廻さんは曲解が上手いタイプ?」
「……どうして」
観念したのか、神々廻臾衣はずるりと変形し大和撫子然とした人間の姿になった。
驚いている彼女の呟きにソニアは微笑んで答えない。
猫になった人生経験なんてあるはずがない。何かしらの人生経験を上手く曲解し、極めて珍しい変身魔法を習得したのだとアタリをつけた。
「何の用? 尾行なんて失礼じゃない。警察呼ぶわよ?」
チクリと刺し返すと神々廻臾衣は苦々しさを隠そうともせず舌打ちした。
苦笑する。好きな男の前で猫を被る、よくある事だ。
「獅狼さんから手を引いて」
「手を引く理由がないわ」
「……私からあの人の隣を取らないで」
牙を剝きだして噛みついてくるかと思いきや、敵意に溢れた言葉が思いのほか弱弱しく、可愛らしくて笑ってしまった。
「取らないわ。あの男の心も体もあなたの好きにしたらいい。私は金と魔力だけもらうから。仲良くしましょ?」
「嘘だったら――――」
「嘘だったらどうするの?」
凄む神々廻をソニアは指先に炎を灯し威圧した。
猫変身は戦闘向きではない。魔法アリの戦いで負けるつもりはなかった。
虫も殺した事もなさそうな女は、存外好戦的だ。
それから神々廻はソニアのぼったくりを非難してきたが、ソニアが柳に風といったふうに受け流すと忌々しそうに釘を刺して去っていった。
それを見送り、ソニアは気持ちを切り替えてずっと気になっていた服のショーケースにいそいそ向かう。
簡単な仮面夫婦計画のはずが、何やら複雑な背景が見え隠れしはじめた。
事態がいい方向に向かうといいのだが――――




