夢無き少年 ‐2‐
学校に登校すると、朝のホームルームで、進路希望調査の用紙が配られた。高校三年生、要するに、進学を考えるのであれば受験生ということだ。色々と考えることが多すぎる毎日に、嫌気がさす。
「諒ちゃん!」
僕のことを諒ちゃんと呼ぶ人物は一人しか知らない。いや、昔もう一人いたが、苦しい思い出なのでしまっておく。
梅宮麻衣子。高校三年間、同じクラスの女の子。何かと僕に絡んでくる。普段は控えめで、どこか抜けていて、ぽけーっとしている。声は高いわけではなく、どちらかといえば落ち着いたほうだが、芯がなくふわふわと宙に浮いた調子で喋る。
いわゆる、天然だ。
あの子天然だよねとよく言われる、天然を武器にしているようなぶりっ子、自称天然の子とは違う。梅宮麻衣子は本物だ。と、僕は思っている。
「諒ちゃん、進路どうするの?」
何か専門的に学びたいことも、夢も、やりたいことも特にないし、とりあえず大学進学してから考えようと思っていた。だが、じいちゃんのことがあったので、正直なところは、まだ分からなかった。
「まだ分からないな。梅宮は何かやりたいことでもあるのか?」
「私には夢があるから、専門学校に行くよ」
「そうか」
「……それだけ?」
やりたいこともない自分が不甲斐ない。
「どんな夢?」
「それは内緒だよ」
にっこりと笑った。唇の隙間から、白くてきれいな歯を覗かせながら。
「それだけ? って聞いておきながらそれはないだろ」
「ごめんごめん」
梅宮はおかしそうに笑った。そして少し恥ずかしそうにしながら答えた。
「私、作家になろうと思ってるんだ」
「物語を書く人?」
「そう」
梅宮はよく、読書をしていた。休み時間もそうだけど、授業中こっそり机の下で読んでいることもあった。
「物語って、人の心を動かせるんだよ。感動して泣いたり、面白くて笑えたり、前向きな気持ちにしてくれて、生きる力の糧になったり。そういうのって本当に素晴らしいなって思うの」
目を輝かせながら、楽しそうに話した。
「自分の作品で、世の中を圧倒させたい」
すごいな、と思った。世の中を動かすなんて、そんな大層な夢があるとは知らなかった。
人間夢なんていくらでも語ることはできる。実現することが難しいのだ。僕だってできることなら、なんでも治してしまう薬を開発して、じいちゃんを救いたい。なんでも治してしまう医者でもいい。
そんな簡単なものではないぞ、と内心思いながらも、余計なことは言わずに応援することにした。
「君の夢に僕が圧倒されたよ。心から応援してるから頑張って」
梅宮は、よーし、がんばるぞ、という様子で、右腕を伸ばし、左腕でぐいっと挟んで肩をならす仕草をしてみせた。
放課後、じいちゃんが入院する病院に向かった。じいちゃんが入院する病院は、比較的学校から近いところにあった。高校の最寄り駅から、バスで十五分ほど揺られて、病院に着いた。
病院に着くと、エレベーターで六階を目指した。冷たい空気に包まれた廊下を歩いて、病室の前にたどり着く。
しばらく目を瞑り、深呼吸した。まだ、信じたくない自分がいた。ゆっくりと中に入ると、じいちゃんは起きていた。長細いベッドテーブルの上に、色とりどりの四角い紙を広げていた。
部屋に入ってきた僕に気づいたじいちゃんは、僕に目をやると、まるで、母親を見つけた赤ん坊が笑ってこちらを見るように、一気に顔色が明るくなった。
「諒! 待っていたぞ」
その姿を見ると、ほっとした。今までと何も変わらない、明るいじいちゃんだった。
白髪で、しわが多くて、時々厳しいけど、くしゃっとした笑顔が似合うじいちゃんそのものだった。
ベッド脇の丸椅子に腰かけ、ベッドテーブルの上に目をやった。
「折り紙?」
「そうだよ。懐かしいだろ?」
昔よく、折り紙を教えてくれた。僕が畳の上でゴロゴロしていると、いつも折り紙を持ってきて、色々なものを折ってくれた。幼い頃は、あまり外に出て遊びまわるタイプではなかったので、家にいることが多かった。
「できたできた」
白い折り紙で、鳥のようなものを折り上げると、じいちゃんは右の手のひらに乗せて、僕に差し出した。僕はそれを受け取ると、まじまじと眺めた。
「相変わらず、綺麗に折るよね、鶴」
真っ白な紙で綺麗に折られた鶴は、じいちゃんの手先の器用さを表していた。
僕は鶴の尻尾を引っ張ってみた。紙がちぎれそうになるだけで、何も起きなかった。
「そんなに引っ張ったらちぎれちゃうぞ」
じいちゃんは新しい折り紙を手に取ると、折り紙を折り曲げてはくるっと回転して見せたりした。今度は、少し立体感の欠ける折り鶴が出来上がった。
「あ、それだ」
僕は丸椅子から立ち上がると、手に持っていた鶴をベッドテーブルに置き、じいちゃんがたった今新しく折り上げた鶴を手に取って、また同じように、尻尾を引っ張ってみた。鶴の胸のあたりを片方の指でつまんで、もう片方の手で尻尾を引っ張った。
鶴が飛んだ。羽がバサッと動いた。
テンポよく引っ張るとバサバサと綺麗に羽ばたく。
「白、好きなの?」
僕は尋ねた。ベッドテーブルの上には、色とりどりの折り紙が並べられているのに、二羽とも白い鶴だった。じいちゃんは優しい眼差しで僕の手元を見つめた。
「何色にも染まってないところがいいんだよ」
なるほどね、と思った。それと同時に、よくある台詞だな、とも思った。
きっといい意味で言っているのだろうけれど、将来が何も見えない僕には、どちらかといえば悪い意味で当てはまるような気がした。
「僕みたいだね。高校三年生にもなって、やりたいことがなくて、趣味もなければ特技もない。毎日何やって過ごしてるのか? って聞かれたら、ちゃんと答えられないし、本当に凡人で、空っぽ」
僕はうなだれるように窓の外を見た。大きくて真っ白い入道雲が目に入った。包み込まれたいと思った。窓を開けて、瞑想した。そして、雲に向かって両手を伸ばしてみた。目を開けるとそこには、真っ白い入道雲が背景に映っただけの、僕の手だった。届くわけがなかった。
「なにを、してるんだ?」
背後からの声に、僕はそっと振り向き、ゆっくり丸椅子に腰かけた。
「諒。高校三年生で本当にやりたいことが見つかる方が珍しい。まだ人生の5分の1ちょっと生きただけで、分かるわけがない。大学へ行って、勉強して、ゆっくり考えて、現代の若者らしく、人生を満喫すればいい。今はそれでいいと思うぞ」
じいちゃんは、口角を上げて、優しい表情でそう言った。
「ねえ、じいちゃん。いつから大工になりたいって思った?」
「覚えてないな。一〇代だったかな。でも、昔と今じゃ義務教育も変わってきてるし、あまり参考にならないぞ」
正直、大学進学なんて、考えになかった。男手一つで僕をここまで育ててくれて、大学の学費でこれ以上負担をかけたくなかった。
「うーん」
「お前は細っこいから、大工は無理だな」
はっはっはと笑うじいちゃんの笑い方は特徴的だった。それが好きだ。
じいちゃんは、骨細のわりには、肩周りのカッチカチの筋肉がかっこよくて、毎日太陽の光を浴びているから、肌はこんがりと日焼けをし、いかにも、建築業の方という見かけだった。
高齢者ということを忘れるくらい、本当にかっこよくて、自慢のじいちゃんだった。
気づけば、そんな姿はなくなっていた。
いつからこんなにやせ細っていたのだろうか。なんとなく、病弱という言葉が似合いそうな印象を与えたのだった。