お口に詳しい人 ‐7‐
じいちゃんが退院して、また以前の生活に戻っていた。僕の一人暮らしの様な生活は終わったのだ。じいちゃんが家にいるのが当たり前の生活に戻っていた。
一時はどうなるかと思ったが、またこうして普通の生活が出来ていることには、周りの方々の支えがあってのことだった。特に、水上さんには感謝してもしきれない。
「諒! ちょっと行きたいところがあるんだ、付き合ってくれ」
日曜日の昼下がり、じいちゃんに誘われて、どこかへ連れて行かれた。古びた軽トラックに乗り込んで、四十分ほど走らせただろうか。退院したばかりのじいちゃんの運転は、かなり不安だったが、なんとか事故を起こさず、無事に辿り着けた。目的地に到着する頃、辺りを見渡すと、なんとなく懐かしさを感じた。
ここは観光名所だろうか? 僕が連れて行かれたのは、山の公園だった。そこは、整備され、観光名所とされているようで、人で賑わっていた。
道行く人を、無理矢理車で通ろうとすると、皆避けてくれた。しばらく車で坂道を登っていくと、駐車場が見えた。
「ここって……」
車を六台程止めることが可能な、小さな駐車場だった。運良く一台空いているスペースがあったので、そこへ止めると、二人とも車から降りた。
辺りは緑で生い茂り、沢山の木が立っている。自然に包まれた空間だった。少し歩いたところに、短い階段を発見し、それを登ると、一面の芝が広がっていて、目の前には大きい建造物が構えていた。
「城?」
「懐かしいだろ? 諒が幼い頃、ここに良く連れてきたんだよ」
なんとなくだが、覚えている。幼いながらに、家で握ったおにぎりを持参し、芝生の広場にレジャーシートを敷いて、じいちゃんと食べた。かなり古い記憶だ。
そして、数年前、僕が中学生に上がった頃、夜桜を見に来た場所だった。
「ちょっと前に夜桜を見に来た気がするな。あの時は、時間帯も遅くて暗かったから、あんまり記憶にないか」
「覚えてるよ」
僕はポケットからスマホを取り出すと、ロック画面をじいちゃんに見せた。
「お? 待ち受け画面にしてるのか」
じいちゃんは嬉しそうにニヤニヤと顔を歪ませた。
「普通、年頃の男が、じいちゃんとのツーショットを待ち受けになんて、しないと思うぞ」
あっはっはと笑い声を上げるじいちゃんに、僕はその通りだと思った。
「まあそうだよな。でも、面白いだろ? 家族愛だよ、家族愛!」
僕も一緒になって笑った。本当に、何故じいちゃんとのツーショットをロック画面にしたのだと、改めて思った。普通こういうのは、彼女とのツーショットを使うのだろうが、彼女いない歴年齢を更新中の僕にとっては、無縁だった。
「この城、なんなの?」
「戦国時代の、武将の居城跡らしい」
「ふうん」
戦国時代のことなんて、正直よく分からなかった。咄嗟に「この城はなんなの?」と尋ねてしまったが、歴史には疎いので、それ以上は聞かなかった。
白と黒のモノトーンで仕上がっている城は、少し冷たい雰囲気を放っていた。入口は閉まっていて、人が入れる様子はない。
「城の中、入れないの?」
「一昔前は入れたけど、今は閉鎖しているらしいな。そこに書いてあるぞ」
じいちゃんが入口の辺りを指差したので、僕は近くまで歩み寄った。
レストランの入り口に置いてあるような、簡易的なボードが立てかけてあった。そこには〝閉鎖中〟の文字が書かれていた。それは簡易的すぎて、歴史ある城にはそぐわない光景だった。
これでは雨風が酷いとき、すぐに飛ばされてしまうだろうと予測できた。おそらく、ここを管理している人がいるのだろう。
「随分簡易的だね。というか、じいちゃん、離れたところからよく読めたね」
「いや、前から知ってるんだ」
じいちゃんは少し悲しそうな表情を見せると、溜息をついた。
「じいちゃん?」
「まあ、ここには色々と思い入れがあるんだよ、娘のことでね」
「娘って……、僕の母さん?」
「そういうことになるね」
「母さんは、僕を捨ててどこか遠くへ行ってしまったんでしょ。悪いけど、同情とかできないよ、そんな最低な母親のことなんて」
「捨てたわけじゃない」
じいちゃんは真剣な目で、僕の目を真っ直ぐ見た。じいちゃんはどんな感情でいたのだろうか。僕を見つめるその瞳からは、怒りのようなものを感じられた。母さんのことを悪く言うな、という念が込められているようだった。
僕は幼い頃からじいちゃんの元で育った。幼い頃の薄い記憶を辿れば、父親は暴力的な人間だった。言葉の暴力だけでなく、僕や母親に、簡単に手を上げる人間だった。
しばらくして、耐えきれなくなった母親は、僕を連れて家を出た。そして、僕が現在、住んでいる家、母親にとっての実家へと戻ってきたのだ。
それから母親は、突然姿を消した。理由は分からなかった。じいちゃんに聞いても、答えてくれることはなかった。
「捨てたんじゃなかったら、なんで理由も言わずに出て行ったんだよ」
僕がどんな思いで今まで生きてきたのか、じいちゃんには分からないと思った。小学生の頃は、母親がいないことを、学校の児童らに馬鹿にされたこともあった。授業参観では、毎度寂しい思いをした。じいちゃんは仕事で忙しく、夕飯も一人で摂ることが多かった。
「母さんは、お前のことを大事に思っていたよ」
「信じられないな、大事に思っていたら、今頃一緒に暮らしてるよ」
「そんなことはない」
「僕は信じない」
「信じてくれ」
「無理言わないでよ」
「……そうか」
僕は頑なに、母親を認めなかった。認めたくなかった。僕を捨てたことに対してだけではなく、じいちゃんに僕の全てを押し付けたことも不服だった。
僕は、ここまで育ててくれたじいちゃんに、心から感謝している。じいちゃんが入院した時の、じいちゃんへの僕自身の態度には、深く反省した。色々とまだ未熟な部分があった。
こう考えると、僕はなかなかのグランドファザーコンプレックスなのかもしれない。
「じいちゃんが元気でいてくれたらそれでいいよ」
「……じいちゃんも、諒が元気でいてくれたらそれでいい」
じいちゃんはまだ何か言いたそうではあったが、息を吸い込むと、僕の言葉を真似るように返した。
僕は城の脇から見える崖へ移動すると、柵に手を付き、遠くを眺めた。真っ青な海と、白い雲がいくつか浮かんで見える空との間に伸びる水平線は、とても美しかった。おまけに富士山もうっすらと見えた。ガラクタのように小さな家や車、豆粒のような人が歩いているのも見える。
そんな景色を目にしたら、僕たち人間の争い事や悩みなんて、ちっぽけなものだと感じさせられる。
物事をもっと客観的に、考えられるようになった気がした。少なくとも、この一瞬はそう思った。山を下りて、目の前に広がる小さな世界へ戻ったら、結局いつもと同じことの繰り返しになるような気もした。考え方を変えるなんて、そう簡単ではないのだ。
ただ、一瞬でも心の靄を洗い流すことが出来るのならば、ここに来ることに意味はあるのだと思う。
「鶏群の一鶴になれそうか?」
背後からじいちゃんが僕に問いかけると、僕の隣に並んだ。
「ここに立って小さくなった世界を眺めていると、自分はこの世界の中で、中心に生きているって思えてこないか?」
「物語の主人公って感じ?」
「そんなとこかな」
「まあ、自分の人生だもん、自分が主人公でしょ」
僕はどこか投げやりに、そう答えた。だが、心の中では受け止め、少し考えていた。
自分が主人公の物語に、いつか終わりが来るのだとすれば、平凡のまま生きていく僕の物語は、つまらないと思った。
「僕さ、母さんのことずっと恨んでた。幼い僕を見放して、じいちゃんに全て押し付けて、姿を消した母さんを恨んでた。生きてるのか、死んでるのかさえ分からない。じいちゃんには本当に苦労を掛けたと思う」
僕は遠く広がる海を見つめながら、言葉を続けた。
「じいちゃんの言う、鶏群の一鶴になれるかは分からない。だけど、じいちゃんを楽させてやりたいんだ。今までの分、いっぱい恩返ししたいと思ってる」
じいちゃんは黙って聞いていた。
「母さんが僕のことを、大事に思ってたかどうかは知らないけど、受け取る側が大事にされてないと感じてるんだから、結果としては、だめなんだよ」
ちらりと横目にじいちゃんを見ると、真っ直ぐ遠くを見つめていた。表情はあまり見えなかったが、どこか切なそうにしていたのは感じ取れた。
「じいちゃん」
僕は身体ごと、じいちゃんの方へと向いた。反射的に、じいちゃんはこちらに首を向ける。
「ずっと笑っててくれよ。じいちゃんの笑顔、好きなんだ」
なるべく明るくしようと、笑顔を作って言った。それが自然な笑顔だったかどうかは分からない。じいちゃんは満面の笑顔で返してくれた。
「じいちゃんは、諒の笑顔が一番好きだ」
その笑顔に、嘘はなかった