お口に詳しい人 ‐6‐
僕が病室に顔を出さなくなって一か月が過ぎ、久しぶりに水上さんと一緒にじいちゃんの元へと足を運んだ。一か月前にみた光景と、何も変わっていなかった。じいちゃんの容態が悪化して、病室が暗い空気に包まれていたらどうしようか、なんて考えたが、そんなことはなかった。
ただ、一つだけ大きく変わったことがあった。
じいちゃんにとって一番嬉しいであろうことが起きていた。普通に食事が摂れるようになっていたのだ。そして、自宅退院して良いとのことだった。すべては水上さんの協力があってのことらしい。
水上さんは僕が来なくなってから、水上さん自身が病室に通う頻度を増やし、じいちゃんの摂食嚥下指導をしてくれていたとのことだった。そこまでしてくれていた水上さんには、頭が上がらないと思った。水上さんの凄さを改めて実感した。
「じいちゃん、ごめん」
「いいんだよ、こうしてまた諒の顔が見れて良かったよ」
いままでと変わらない、じいちゃんの屈託の無い笑顔を見て、僕は安心した。
「本当に、どうなることかと思いましたよ。あんなちょっとのことで、こんなことになるなんて、諒くん子供過ぎます」
「子供とか言わないで下さいよ」
膨れ気味の僕を見る水上さんと目が合うと、どちらからともなく笑った。
じいちゃんの姿を見たら、ここに来ることに勇気が出なかった自分が情けなくなった。何を躊躇していたのか、馬鹿々々しいとさえ思ってしまう。
病室に様子を見に来ていた主治医の先生が、笑顔で口を挟んだ。
「何はともあれ、無事に回復して良かったよ。水上さんがいらしてくれたおかげです」
「いえ、当然のことをしたまでです」
「いや、本当に患者のことを一番に考えて行動するきみは、素晴らしい衛生士だよ。ありがとう」
褒め称えられている水上さんを、尊敬の目で見る他なかった。凛と立ち振る舞う水上さんは、本当にかっこいい姿をしていた。
「本当にありがとう、ちーさん。ちーさんのおかげだよ」
「いえいえ、良かったです、本当に」
じいちゃんが喜ぶ様子を見ていると、本当に自分のしたことを後悔する。水上さんに託されていたことを成し遂げることが出来なかった自分が腹立たしい。僕が、じいちゃんを回復へと導くことが出来れば良かったのに。
結果としては、じいちゃんが幸せそうにしているので、良かったのだが、今後の自分を改めようと、胸に誓った。
「諒ちゃん、良かったねえ」
翌日学校に登校し、梅宮にじいちゃんが退院することになったことを伝えると、梅宮も喜んでくれた。それから「放課後おじさんの喫茶店へ行こう」と誘われたので、一日を適当に過ごした後、梅宮と昇降口で待ち合わせ、喫茶店へと向かった。
度々一緒にいる僕らは、付き合っているのかと、学校の人間に疑いの目を向けられることもあった。訂正するのも面倒だったが、疑いの目で見られているのも、気が晴れなかったので、聞いてきた連中には、一応訂正しておいた。
喫茶店に着き、店に入ると、見慣れた人物がカウンター席に座っていた。彼女は僕に気が付くと、軽くお辞儀をしてみせた。
「水上さん!」
「あら? ガールフレンドでも連れてきたの?」
水上さんはにやにやしながら、僕の背後にいる梅宮を見た。梅宮は前に出ると、軽く挨拶をした。
「初めまして。マスターの姪の梅宮麻衣子です。えーっと、諒くんとは学校が同じで、クラスメイトです」
「水上です。よろしくね、麻衣子ちゃん」
マスターは僕らをカウンター席へと促すと、水上さんと並んで座った。
「いつものお願いします」
「でた、それ」
梅宮はくすくすと笑った。僕は別に格好つけて言っているわけではないのだ。純粋に、いつものホットミルクを飲みたくて注文しているのに、梅宮は失礼なやつだと思った。
静かにコーヒーを口にする水上さんに、梅宮は話しかけていた。
「水上さん、うちの常連なんですか?」
マスターが鼻で笑いながら口を挟んだ。
「うちのって、自分のもののように言うなあ」
「いいじゃん、親戚なんだし、同じようなものでしょ」
梅宮はさらっと受け流すと、水上さんに質問を続けた。
「水上さんって、すっごく美人ですけど、何やってる人なんですか? すらっとしてて、美人で、モデルさんみたいですね」
誰もが羨むであろう容姿を持つ水上さんは、言われなれているようで、表情一つ変えずに答えた。普通の女の子だったら、こういう時、否定的な返しをするんだろうが、水上さんは違った。
「一応モデルもやってるけど、普段は病院関係です」
「そうなんですね」
あまりにも冷静に答える水上さんに面食らったのか、梅宮はそれ以上なにも聞かなかった。
なんだか少し沈黙の時間が流れてしまったので、今度は僕が水上さんに話題を振ってみた。
「水上さんも、よくここに来てますよね。居心地いいですもんね、ここ」
「まあね」
程よい合間でマスターがホットミルクを差し出してくれた。
「麻衣子は、これで大丈夫かな?」
「ありがとう!」
そういえば梅宮は何も注文していなかったが、マスターは把握していたようで、梅宮の分も用意してくれた。もちろん、ホットコーヒーだった。
「そういえば、二人とも進路決まったのか?」
「うん。私は作家になりたいなって」
「おっ! 読書好きだったもんな、本気で目指すのか?」
「目指すよ、みててねおじさん」
叶えられる可能性がどうとかは別にしても、はっきり答える梅宮は輝いて見えた。僕はまだ、将来の夢が見つかっていなかった。
「諒くんは?」
「僕は……、まだ検討中です」
「そうか、まあ、焦らなくて大丈夫」
「でももう夏ですし、そろそろ決めないとです」
「そうだよなあ……」
マスターが一緒になって考えてくれるが、良い案が見つからない。そんなとき、水上さんが一つ提案をした。
「歯科衛生士なんてどう?」
まさかの提案だった。歯科衛生士という職業がどんなものか、詳しいところまでは分からなかったが、女性の職業というイメージがあった。
「男子が歯科衛生士ってどうなんですか」
「全然ありだと思うよ。まだまだ少数派だけど、男性でもなれるんだよ」
「そうなんですね、知らなかったです」
歯科衛生士❘❘。
僕は選択肢の一つとして考えようと思った。
その晩、ベッドの上でスマホを開くと、調べ物をした。職業について詳しく知りたくなった。
歯科衛生士について調べると、確かに男性でもなれる職業であることが分かった。ただ、割合としては女性の方が圧倒的に多いようだった。ならば、歯科医師はどうだろうかと思い、検索をかけてみた。
歯科医師の国家試験の合格率の低さ、それに、何より学費が高すぎるというデメリットが目立った。金持ちが取得する資格だと思った。
それから、医師、看護師、理学療法士、作業療法士、等の職業について調べた。
気がつくと、僕は、医療系の職業について調べていた。
じいちゃんが肺炎という病に侵されてから、無意識に医療に意識が向くようになったのかもしれない。医療系の道に進むのは、いいなと思った。人の健康を助けることが出来るなんて、素晴らしいなと思えた。
将来の夢について考え、職業について調べているうちに、睡魔に襲われる。僕はいつの間にか、意識を飛ばした。