夢無き少年 ‐1‐
病室の小窓のカーテンがふわりと揺れた。
小窓の外から吹き込んだ風が少しひんやりと肌寒い。
ベッドサイドのテーブルに置かれた小さめの置き時計に目をやると、一九時を過ぎていた。
もうこんな時間かと、ふぅ、と小さく溜息をつき、小窓を閉めた。
目の前のベッドの上で、静かに眠るじいちゃんの様子は、本当に息をしているのか疑ってしまうほど。
まるで、時が止まっているように感じた。
もっと早くに気がついていれば、何か変わっていたのかもしれない。
高校三年生に進級したばかりの五月半ば、たった一人の家族を失うかもしれない。
自分一人でこれから生きていかなければならないかもしれないと思うと、不安と悲しみと絶望で、心臓が抉られるような思いだった。
心電計のモニターが目に映り、これは現実なのだと思い知らされた。目も耳も塞ぎたい。
「じいちゃん、頑張ってくれよ」
じいちゃんの手をぎゅっと握り、何度も叫びたくなるのを抑えながら、病室を後にした。
最寄り駅を降りると、まっすぐ家に帰る気にはなれず、行き付けの喫茶店に立ち寄った。
鼻の奥がキュッとして、頭が少しだけクラッとした。
コーヒーの独特な香りと、すべてを包み込み、癒してくれるような甘い香りが、空腹と疲れきった脳みその僕を誘う。
駅前に古くから構えているこの喫茶店は、高校生の僕が一人で、何度も足を運んでしまうほど、居心地が良い。
店内に入ると、至る所にコロンとした丸い間接照明が置かれており、オレンジ色でおしゃれに照らされ、あたたかい雰囲気で心を癒してくれる。
「いらっしゃい」
マスターが笑顔で迎えてくれた。とりわけカッコイイわけでもないが、筋肉質でガタイのいい体つきが、男らしさを感じさせてくれる。
コーヒーが似合うダンディなおじさまという感じだ。
「こんばんは。いつものお願いします」
はい。と、一つ返事を聞いて、近くの席に座った。
腰を下ろした瞬間、疲労がどっと押し寄せ、こんなに疲れていたのかと思い知らされる。
イスとお尻が一体化したかのようだ。このまま一生座っていたい。
体力的にというよりも、精神的に疲れていた。
背もたれに寄りかかり、上を向いて天井と顔合わせになる。
だらしなく口をぽかんと開けて、目を瞑る。
「おまたせ」
テーブルの上に置かれたホットミルクに目をやると、しばらくぼんやりする。
頭の中を色々なことが駆け巡り、悲しくなった。
今日あった出来事もそうだけど、喫茶店に来たのに、マスター自慢のコーヒーも飲めないし。
「どうした? 今日はホットミルクを味わう気分じゃなさそうだな」
疲れている僕を心配して、声をかけてくれているのは分かっているが、いつもホットミルクを注文すること、小馬鹿にされているような気がして、ムッとした。
「なんだ? コーヒーにするか?」
ははっと笑って見せるマスター。
僕はさらにムッとしたが、気にせず、今日あったことを話すことにした。
「……じいちゃんが」
たった一言、それだけで、マスターの顔から一瞬にして笑顔が消える。
幼い頃に両親に捨てられた僕は、じいちゃんが親代わりだった。そして、じいちゃんもこのお店の常連だった。
じいちゃんと、僕の素性を知っているマスターは、真剣な顔つきで、言葉の続きを聞いてくれた。
「じいちゃんが、肺炎で入院しました」
「なんだって?」
マスターが眉を歪ませた。
僕は、たった一人の家族であるじいちゃんを失うのが怖くて、震えそうになる声を必死に抑えて、話を続けた。
「じいちゃん、最近様子が変だったんです。元気がないというか、いつもぼけーっとしてて、生きる気力を失っちゃったのかと思うくらいでした。大工やってて、生き生きしてて、本当にかっこよかったじいちゃんとは、別人みたいで。理由を聞いても気にしないでくれって言うから、仕事で何か悩むことでもあるんだろうと思って、そっとしておいたんです」
そう一息に言うと、マスターが口を開いた。
「……言いづらいけど、肺炎って、日本の三大死因の一つだろ? なんだってそんな」
マスターは信じられない様子で、拳を額に当て、一呼吸考えた後、僕の目の前の椅子に座った。
「いや、正確には、昔は死因第三位だったそうですが、今は第五位らしいです」
「それにしても、やっかいなやつだな」
すっかり暗い話になってしまった。せっかくの癒しの空間が台無しだ。そもそもこんな状態の僕が、ここに来た時点で台無しだ。
ガタッ。
店の奥の方で、誰かが椅子から立ち上がる音がした。
自分のことで頭がいっぱいで、他のお客さんがいたことなど、完全に忘れていた。
「お会計、いいですか?」
「ありがとうございます」
マスターは、レジへと向かった。満面の笑みで。
先ほどまで深刻な話をしていたことが、まるで嘘の様。
マスターにとって、大きなことではない話だったというのか、とさえ思ってしまうほど。
大人はすごい。どんなに辛く悲しいことがあっても仕事に私情を挟まない。世の中のすべての大人達がそうとは限らないだろうけれど、尊敬する。色々な意味で。
なんとなく、レジの方に目をやると、高身長の華奢な女性が立っていた。
おそらく八頭身はあるのではないか。
ふわりと揺れる柔らかなワンピースに身を包み、足、痛くないですか? と思わず声をかけてしまいたくなるほどのハイヒールを履き、すらりとした美脚をより一層美しく魅せていた。
「今日もお勤めご苦労さまで?」
「今日は本業の方で取材がありまして、明日は朝から撮影です」
「お疲れ様でございます」
細くきれいな指先でお会計を済ませると、彼女は目線をこちらに向けた。
――綺麗な人。
それはもう、これ以上目を合わせていたら引き込まれてしまいそうなほど。
遠目でちらりと見ただけなのに、そう感じてしまうほどの美貌の持ち主だった。
「……え?」
彼女は、僕の顔を一目見ると、何かはっとした様子で目をそらし、マスターに「ありがとう」と一言残し、行ってしまった。
「悪いな、話の途中で抜けちまって」
「へ?」
「なに、まぬけな声出してるんだ」
マスターは鼻で笑った。
だが、マスターの表情は、今にも涙が溢れそうで、それを阻止するように無理やり笑顔を作り、歪んだ顔をしていた。
こんなマスターの顔は見たことがなかった。
先ほどの営業スマイルは完全に消えていた。
「あの人、モデルさんですか」
「そうだよ。兼業モデルやってるらしい」
あれほど綺麗な人がその辺で仕事をしているなんて想像がつかない。
「本業はなにやってるんですか?」
「病院で働いてるよ。えーと……、歯科、衛生士? とか言ってたかな」
――歯科衛生士。
「なんだ? さっきの姉ちゃんがあんまりにも綺麗だから、興味でも沸いたのか?」
茶化す様子もなく、落ち着いたトーンでマスターは言った。
「いや、なんとなく聞いただけです」
僕は、先ほどの女性が気になった。
僕の顔を見て顔色を変えた彼女が、どうしてなのか、気になったのだ。
どこかで会ったことがあるのか?
僕のことを知っているのか?
それとも、僕の顔が変だったのか?
はたまた、僕の勘違いか。
僕は、もやもやとしたままで気持ちが悪かったが、じいちゃんのことで頭がいっぱいで、これ以上頭を使いたくなかった。