自殺願望求血譚
吸血鬼のお話です。人は誰も死にません
1
「わたしを殺してほしいの。きみにしか頼めない」
「…………」
また突拍子のないことを、と俺は呆れたりしなかった。
紅原涼音は、幼いころアリの行列を追って迷子になった。小学生のころにおいしい鉛筆を突き止めたり、中学生のころには旅に出たいと言って飛び出した。そのすべてに付き合わされたこの宇井佐紀つづりの目に狂いはない。……いや、彼女の瞳を見て、それが妄言かどうかわからないものなどいないだろう。
殺してほしい。一体どういう心境なのか。
「……」
俺は沈黙で涼音の言葉を促す。
「あの、何か言ってほしいのだけれど」
高校からの帰り道。代わり映えしない路地で、夕陽を背にして、涼音は長く伸ばした髪をいじりだした。
こう、改まってみると、どうも涼音は女の子らしくなった。少し前まで石ころをひっくり返して現れたダンゴムシを笑い、石を戻したら圧死したことでまた笑い。そんなお転婆は見る影もなくなってしまった。
揺れる長い髪、狭い肩幅、細い手足。紅原涼音。べにはら、すずね。
――いかんいかん、見とれている場合ではない。幼馴染だぞ。あの怪物、紅原涼音だぞ。
「あの、つづり……?」
「あ、あぁ……なんだっけ」
「うん。お願いがあってね」
「うん」
「わたしを殺して。ね?」
深窓の令嬢めいて、涼音はほほ笑んだ。
……よくわからないけど。
「それは、笑って言うことなのか?」
「つづりも笑ってくれる?」
「笑えるわけないだろう。ふざけるな」
涼音はふざけていない。それはわかっている。それでも、それでも……。
「ふざけてないよ。ほら、わたし、吸血鬼だから」
かぁ、とカラスが鳴いた。
吸血鬼。そう名乗った彼女にとっては、あのカラスは手下なのだろうか。
「吸血鬼。そうなっちゃうみたいだからさ、そうなる前につづりに殺してほしいの」
そよ風でふわりと揺れた涼音の毛先は、少し金色だった。
「これで、十八歳。おめでとうはいらないからね」
七月八日、十八時五分。涼音の両親から聞いた、涼音の生まれた日時が過ぎる。
思い返せば、なぜ涼音の両親は俺にそれを教えた? 単に仲が良かったからか? いや、親友の棚岡はそんなことないと言っていた。いくら幼馴染でも、生まれた日付はともかく時刻まではさすがに、とかなんとか。
「ねぇ、お願い。お願いなの、つづり。つづり、つづり!」
縋るように、涼音が叫んだ。
吸血鬼……生き血をすする怪物だったか。
十字架やニンニクが苦手で、心臓を杭で貫かれると死ぬ。招かれなければ敷地に入れず、影はなく、流れる水を跨ぐことはできない。あるいはルーマニアの領主だったりするその怪物が、どうも目の前の幼馴染らしい。
しかしながら、涼音は中学生のころ十字架をじゃらじゃら身に着けて先生に叱られていたし、昨日ラーメン屋に寄り道したときには俺もヒくほどにんにくを利かせていた。当然ルーマニアなんぞに縁もゆかりもなく、あまり大きな流れる水は跨げず、招かれていない家には無断で入らないし、そもそも心臓を杭で貫かれれば死ぬ。俺だって死ぬ。……だが、影。
「涼音、お前……それ」
夕日で長く伸びるはずの影が、なかった。
「信じてくれた? 隔世遺伝、ってことらしくてさ」
そんな都合のいいことを、とも言うまい。事実、そうらしいのだから。
「でも、わたし、人間として死にたいの」
その悲痛な願いを前に、俺はかける言葉が見つからなかった。
ただなにもない手をじっと見つめ、……その手で、涼音の手を取った。
「つづり……?」
「少し、歩こうか。時間はどれくらいある?」
「……夕陽が沈むくらい……まで」
「じゃあ西だな。行こう」
歩き出すと、涼音はくすり、と笑った。
「いつもと逆だね」
「……そうだな」
いつもはめちゃくちゃする涼音に手を引かれてばかりだった。思い返せば、彼女と出会ってからこのかた、意識して涼音の前を歩いたことはなかったか。
2
「でもね、つづり。夕陽に向かって歩いても、時間は伸びたりしないよ?」
「それでも、だよ」
涼音の言う通り、夕陽が沈むまで、というのをトンチで考えれば、これを追い続けることで理論上は無限の猶予が与えらえることとなる。当然そんな姑息策は意味をなさないが、俺たちは目を細めながら沈んでいく太陽へと向かう。
握った涼音の手は小さくて、少し冷たくて、顔が熱くなるのを感じた。夕焼けを目指して正解だった。ちらりと後ろを見やると、涼音の顔もまた黄昏色に染まっている。してやったりだ。
しばらくして、公園の展望台に行き着いた。見下ろす生まれ育った街は赤く染まり、いやでも吸血鬼のそれを連想させた。
冷たい風が吹く。
転落防止の柵に体を預けて、涼音が口を開いた。
「ねぇ、そろそろ」
ねだる声音は、人気のない展望台でよく通る。
逢魔が時。魔力めいたものを帯びる涼音の吐息は、確かに魔的だった。
「ところで涼音、殺すってどうやるんだ?」
「簡単だよ」
涼音から、銀のナイフを手渡された。
「道具も方法もなんでもいいんだけど、手ごろなところで、ね」
「そんなものなのか?」
「そういうものだよ。でも、きっと、つづりにしか殺せない」
ナイフを握った俺の右手をつかみ、涼音は自らの胸元に引き込む。
「十字架が効く、っていうのは半分嘘で、半分本当なの」
「半分?」
「そう、半分。わたしという吸血鬼を殺した、っていう心の十字架。それがあれば、わたしはずっと死んだままでいられる」
「……罪の意識が必要、ってことか?」
「違う。わたしを殺して、そのことをずっと忘れないでほしいだけ。それが罪だなんて、つらすぎるから……。そう、わたしのことをずっと愛してくれてたら、その十字架で十分だよ」
ナイフは驚くほど滑らかに、涼音の制服を破り皮膚を裂き、骨をすり抜けて心臓を壊した。
日が落ちる。命が零れていく。手の平に伝わる熱が、ただの温度になり果てていく。
「――涼音」
呆気ない。……第一印象だ。
そこから、いろんな思いや、記憶や、気持ちがあふれてきて。
今更になって、伝えたいことや分かち合いたいことができて。
「涼音――」
どこかで、からすがかぁ、と鳴いた。
3
とっぷりと日が暮れ、虫と獣の時間になった。
月は見下げるように街を睥睨しながら、それでも柔らかい光を注いでいる。
俺は、涼音の手を引いて暗がりへと足を進める。
「サイテー」
女子高生らしい、乱暴な罵倒だ。
「サイテーはどっちだよ。愛してほしいだの、一生覚えていてほしいだの。それなら罪のほうがいくらかマシだ」
あのあと俺は、涼音の傷口に自分の血液を流し込んだ。あふれた分は舐めとり、涼音の口に移した。
眷属、という立場でいいんだろう。付き従うということなら、今までと大して変わらない。
朱に交われば赤くなる。吸血鬼の手を取れば、吸血鬼になる。
「後悔はないの?」
「ないといえば、まぁ嘘だろう。でも、涼音がいないよりはマシだろうから」
「死にたくなっても死ねないんだよ? もう」
「でも、涼音が死ぬよりはマシだろうから」
「……さっきからマシ、マシって、実際のとこどうなの?」
「悪い気分じゃない」
「いい気分、ってこと?」
「……いつも通り、勝手に決めてくれて結構だよ。ほら、俺ってば涼音サマの手下だし」
「茶化さないの。うん、そうだね。じゃあ、今のつづりの気分は――」
月に照らされた涼音の笑顔は、夜に咲いた儚い花のようだった。
あぁ、この笑顔のために、俺は今まで涼音と歩いてきたんだろう。
この一瞬が、この先の永遠のものであるならば――最高だ。
ちょうど3000字に収まったので、二人に燦然とした未来があるように願います。頑張って調整しました。