第七話「お嬢様の秘密」
料理人の朝は早い。日が昇る前に起き出し、かまどに火をつける。井戸から水を汲み上げ、水瓶を満たすために何度も往復する。次は炊事場を清める。料理長が来るまでに終えておかねばお説教と愛の鉄拳が飛んでくるので、ここまでは迅速に。それが終われば野菜の下ごしらえだ。芋や人参の皮をむき、一口大に切り、水にさらす。そろそろ屋敷の主人達が目覚める時間だ、急いで朝食の準備を……
やってられるか!
実際に叫ぶと、料理長からまた怒られるので心のうちで思いのたけをぶつける。
俺がクラリスに誘われ、ウィンザー家に勤め始めてから一週間が経とうとしていた。最初の数日で屋敷の中を案内してもらったり、お辞儀の仕方や基本的なマナーなどの生活規則を教えてもらった。その後、俺に料理を覚えてもらうと言ったクラリスの宣言通り、炊事場へと配属となったのである。
炊事場は、地獄であった。いや、この世界の労働環境としてはマシなのかもしれない。だが、俺には非常に辛い環境だった。見事なまでの体育会系スタイルであり、上の人間の言うことには絶対服従。仕事が遅れたりミスしたりすると拳骨を落とされる。俺、この年になって殴られるとは思わなかった。思わず某ロボットに乗る天然パーマのパイロットの名台詞が頭をよぎった。おかげで笑いそうになってもう一発もらったのだが。
そんな中で、昼過ぎに呼ばれるクラリスのお茶会は今の生活における唯一の癒しであった。お茶会の参加者は毎回違っていたが、他家の貴族令嬢や有力商人の娘が招かれていた。やってくるお嬢様方は見た目も良く、それだけで眼福であったし、何よりクラリスが俺のことを自慢げに語っているのだ。人に認められるって最高だね! それに、こんなに熱弁するってことは、もしかするとクラリスは俺に本当に惚れているのかもしれない、なんて微かな期待が高まる。
いや、分かってる。クラリスが俺を持ち上げるのは、先日言ってたとおり、レアな魔法が使える人材を確保しているウィンザー家の売り込みをしているだけだってのは。いいじゃない夢見たって! これくらいしか救いがないんだよ!
ようやく今日のお仕事も終わり、疲れた体を引きずって貸し与えられた自室へ向かっている最中。ふとクラリスの部屋近くを通りかかると、パチン、パチンと何かを叩くような乾いた音が漏れてくる。その出所はどうやらクラリスの部屋であるようだ。不審に思って近寄っていくと、何やら男の声が聞こえる。これは、いつもの護衛、アレックスの声のようだな。……あの二人、まさか!
足音を立てないようにそっとドアに近づくと、わずかに隙間が開いていて、明かりが漏れている。この距離になるとアレックスの言葉も聞き取れる。
「お嬢様、それで本気ですか! 以前の調子はどうしました! さぁ、もっと全力で!」
なんだ? 剣の訓練でもやっているのか? とりあえず、十八歳未満には見せられない場面ではなさそうだけど。そう思って、そっと中を覗き込み、絶句した。
そこに見えたのは、四つんばいで尻を突き出すアレックスと、その臀部めがけて鞭を振り下ろすクラリスだった。アレックスの表情は真剣そのもので、それに対するクラリスは嫌そうというか、退屈そうというか、複雑な心境であるようだ。いわゆるSMプレイなのか? それにしてはどっちも楽しそうじゃないところが状況を複雑にしている。意味不明すぎるだろ!
その内にクラリスがため息をついたかと思うと、鞭を片付け始めた。
「お嬢様、どうされたのです? お嬢様?」
アレックスが尋ねるが、クラリスは無言で鞭を棚の中にしまうと、外に出るのかドアに向かって歩き始めた。 ヤベ! 覗いてたのばれるじゃん! 俺は急いでその場を去った。
あぁそれにしても、とんでもないものを見てしまった。明日からどんな顔して会えば良いんだ。そもそもあの二人の関係は何なんだ? 新密そうではあるが、恋人同士のような関係には思えない。いや、恋愛素人の俺の観察眼では見抜けないだけかもしれないが。それにしても……
結局、その日はあまり寝付けず、疲労で睡眠不足でいつもより愛の鉄拳多めでお仕事をこなす。そして今日もまた、お茶会で魔法を披露せよとのご命令だ。気が重い。
ガーデンテラスでは既に数名の女性が何やら会話に花を咲かせている。無論、その中心は我らがお嬢様、クラリスである。昨日見たことがまるで幻であったかのように、可憐な笑顔を見せてゲスト達を楽しませているようだ。
クラリスに手招きされ、お馴染みとなった紹介を聞き流し、求められるがままに味覚操作を使う。今日のターゲットは、美容に良いが滅茶苦茶まずいとうわさの飲み薬らしい。クラリスが苦もなく薬を飲み干してみせ、これのおかげで肌艶が、なんて話を続けている。続いて他のお客様方にも味覚操作を順番にかけてやって、俺の仕事はおしまいだ。普段は嬉しいお茶会であるが、今日はさっさと帰りたい。
一礼をして去ろうとした俺をクラリスが目線で引き止める。まだ何か用があるのだろうか。仕方なくクラリスの傍で控えることにするが、特に話をするでもなく、再度魔法を求められるでもなく時間は過ぎていく。結局、何事もなくお開きとなり、お客人達は帰途に着いた。
「リョータさん、どうかされましたか? 元気がなさそうですが」
ご令嬢達を見送りながらクラリスが尋ねる。
「疲れているだけです。昨日は寝付けなくて」
「あら、そうでしたの」
クラリスが驚いたような声を出す。
その次の瞬間。
クラリスは、ニィッと口を真横に裂くかのように笑った。
「何かいけないものでも見てしまったのでしょうか」
思わず息を呑む。いや、覗いていたのはばれていない筈だ。カマをかけられているだけだ。そうに違いない。そうであって欲しい。気取られるな、動揺を表に出すな。そう念じても、顔は緊張で引きつり、足が小刻みに震えているのが自分でも分かる。
「ふふふ」
その小鳥のさえずるような笑い声でハッと意識が元に戻る。クラリスに目線を向けると、いつものような柔らかい笑顔であった。
「よっぽど怖い夢でも見たのでしょう」
「え、えぇ。そんな感じです」
「それでは、よく眠れるようになるお茶でも入れて差し上げますね。今はお仕事中ですからダメですので、今夜私の部屋までいらしてください」
普段通りの優しい笑みであるが、その誘いには有無を言わさぬ迫力を感じる。本当にお茶だけ出してくれる? それともお茶なんて口実で俺と熱い一夜を過ごしたいってお誘い? それとも……昨日のアレックスの代わりになれ、ということか? 嫌な予感がひしひしとする。これは避けねばならないイベントだ! 俺の色々な貞操的に!
「お嬢様にお茶を入れていただくなんて、恐れ多くてできません」
「私はお茶を入れるのが好きなんです。良くメイド達にも振舞っていますよ」
「夜分に男が女性の部屋を訪ねるなんて、良くありませんよ。人に見られてはお嬢様が無用な誤解を受けます」
「構いませんよ。使用人を労うためにお茶を入れるなんて、咎められることではありませんもの」
お嬢様からは逃げられないのか。その後も色々と理屈をつけてみたが全て退けられた。もはや逃げ場なし。結局、夜のティーパーティは開催の運びとなった。断頭台に登る囚人の気持ちで自室へ戻る。
そして、何の対策も覚悟もできないまま定刻となり、お嬢様に招かれて部屋へと踏み入った。
「お待ちしていましたわ。さぁどうぞ」
「失礼します」
部屋には天蓋付きのベッドが据え付けられ、品の良いテーブルセットが並び、壁際には本棚と書き物用の机。かなり高級であろう大きな姿見の横には大型のクローゼットが置かれている。美術品の類はあまりないようだが、統一感のある家具で彩られておりセンスの良さがうかがえる。何より女の子の部屋ってこんなに良い臭いがするんだ、という謎の感動があった。
「お仕事には慣れまして?」
「いえ、料理長には怒られてばかりです」
「料理長は厳しいですからね。でも意外と恐妻家なんですよ」
「え、そうなんですか?」
クスクスと楽しそうな笑い声を上げるクラリスに俺もつられて笑顔になる。その後も他愛無い会話が続く。なんだ、本当に俺が疲れてるからって招いてくれたのか。徐々に緊張が解けていく。そうなってくると俄然期待が高まる。この感じ、あるのか? 大人の階段のぼっちゃうのか!?
「リョータさんは見ていて気持ちの良い方ですね」
「え?」
「感情が豊かと言いますか。いつも、いつもワクワクしていたり、ドキドキしていたり、ソワソワしていたりして、とても楽しそうです」
「そんなに分かりやすいですかね、お恥ずかしい」
「ふふふ。先日の登用の話をした時も、緊張しているのが見て分かるくらいでしたわ。泣きそうな子犬のような表情もしていましたっけ」
「止めてくださいよ、恥ずかしいじゃないですか」
「でも私、そういう方、とっても好きなんです」
クラリスが俺の胸元に頭を寄せながら囁く。好き、という言葉に思わず胸が弾む。本当に、そんな。ついに俺にも春が!
「ク、クラリス様」
「昨日、見ていたでしょう?」
その言葉で全身が凍りついたように動かなくなる。昨日見たあの異様な出来事が脳裏に浮かぶ。そして、このタイミングで言及することの意味にも直ぐに思い当たる。
「そう、その目です。怯えるようなその目。それを見てしまうと、どうしても昂ぶってしまって」
クラリスは俺を見上げながら自身の体をかき抱いて、悶えるように身震いした。
「滅茶苦茶にしてみたくなってしまいますの」
どこから取り出したのか、いつの間にか彼女の手元には昨日見た鞭が握られていた。
「大丈夫ですわ、痛くしませんから、アレクで練習済ですので」
手ごたえを確かめるかのように数度素振り。空気を裂く音が聞こえる。俺の体は未だ硬直したかのように動かない。
「ふふふ、素敵ですよ、リョータさん! あぁ、可愛いです。 あはは、あははははは!」
クラリスの狂気が俺に向かって振り下ろされた。
その日の記憶はない。ないったらない。
翌日。朝一番にクラリスに廊下で出会った。
「おはようございます、クラリス様」
満面の笑顔を浮かべる。
「おはよう。リョータさん」
挨拶を返すクラリスに、一枚の手紙を渡す。
表面には、退職願、の文字。
引きつった笑顔を浮かべるクラリスに、俺は更に笑みを深めて一言。
「仕事辞めます!」