あ、の叫び
いったーいよ
あ、の叫び
「ふっふっふ」
“彼”は笑っているのではない。息を整えようとしているのだ。無くなっちゃったね。でも仕方ないよね。カミソリを持っていたのは右手。きっと利き手だったんだ。オ〇ニーももう難しいね。ああ、痛みからか、まさに血の気が引いているせいか、顔が青く、白くなっていく。
「あ、ああああああああああああああ!」
お、止血し始めた。イタイイタイ、ぐしゅりっ、て音をかき消す様に叫ぶ。ゲべラが来なければいいのだけれど。おそらくあの生き物は鼻に咥えた彼の右手の臭いで満足したのかもしれない。ラッキーだ。
それにしても、ぴょろりと飛び出している血管だけを抑えるでもいいのでは、多分私は彼よりも頭がいい。自分を褒めていたら、彼は痛みで我慢できなくなったのか、ようやく手を放し、血管を人差し指と親指で抑えた。いや、私の方が早かったから。
「はっ、はっ、よ、よし。何か、何か、紐、紐」
きょろきょろする彼。止血したところで、とも思うが、彼はまだ生きようとしている。必死になってる。諦めちゃえばいい。誰も助けてくれないんだし。あ、口調が砕けてる? 楽しいから仕方ないじゃない。
「はっ、はっ、仕方ない……よし、よし、よし!」
そうそう、それでいい、こんな格好の悪い彼の英雄伝なんて誰が読みたいのか。
ああ! 彼は思いもよらない事をし始めた。なんと飛び出した血管をその血管で結ぼうとしている。
「あアあああアアアアあああ!」
ああああああああああああ! 痛い痛い! 痛い! 何度も血管はちゅるんと指から離れてびゅっびゅし始める。ぬらぬらとした指ではそうなる。やめればいいのに、頑張る君は裸なのに。目を逸らしたくなるが、彼も頑張っている。さあ、時間はないぞ。もう彼の辺りには血だまりが広がっている。さあさあさあ、あ、出来た。でも、ねえ。
「うう、うう、なんでこんなことにぃいいいいいあああ、ああああ」
そうそう、血管を引っ張らなきゃ。まだ腕に、身体に繋がってる血管をさ。痛いぞお、痛いんだろうなあ。ニヤニヤしちゃう。さあ、彼、は今、生まれる。そう、洗礼がこれで終わるのだ。この世界で生きるには、これから地獄の様なこの世界で生きるには、君は何度も何度も泣き叫び、喜び、怒り、悲しみ、あきらめ、立ち上がり、現出するその一時を刻刻と生きねばならないのだ。それはもう、きっとそうなのだ。
「うわぁああああああああああああああ! あああああああああああ!」
きゅっ、と閉めた。ちろり、と血液が垂れて止まった。腕からはもっと血管が伸びてしまった。ずるるっと。その痛みの余韻からか、彼はひぃぎい、っと小さく叫び、ころんと右腕をかばう様に転がって体を震わせている。かわいそうに、あまりの痛みで赤い泥だまりにさらさらと液体が広がっていた。
さあ、彼は洗礼を乗り切った。名前を付けよう。名前を与える事は、世界に現出する事が許される。彼はやりきったのだから。
彼の名前は、ア太郎、でどうだろうか。あああ、と叫んでいたし。え? ふふ、今はそれでいいのだ。名前なんてどうでもいいのだ。ああ、いやいや、名前なんてあればいいのさ。それに彼、いや、ア太郎は私しか今認識していないのだ。それはつまり、名前があればこの世界にいられるって事に他ならないのだし、彼に名前があるのであればそれでいいだろう。けれど、今はこれでいい。
おめでとう。地獄へようこそ。