後篇
息継ぐ間もなく、私の背後の草薮から、ばさっと音を立てて何かが飛び出してきた。反応する間もなく、そいつはぎらりと光る短刀の刃を私の首筋にあてた。
冷や汗がどっとわいた。私は目を見開いた。私に刃をつきつけていたのは、紛れもなく、袈裟に身を包んだ寺子だった。その寺子は、大君蜻蛉の翅音にも負けぬ大声でがなりたて始めた。
「来たら、こいつを殺す」
私は、喉元につきつけられたひんやりとした感触に怯えながら、必死に父の姿を目で追った。父は寺子の傍らで、おろおろと私を離すよう懇願していた。
「黙れ、黙れ」
その叫びが合図になったかのように、湖の向こう側に陣取っていた寺子たちが一斉に、蜘蛛の子を散らすように走り出した。大君蜻蛉を必死に押しとどめていた数人の寺子たちも、櫓を飛び降りて一目散に暗い森の中へと駆け出して行った。
ふいをつかれて一瞬ぽかんと口をあけていた僧人たちは、すぐさま怒りの形相をあらわにし、寺子を追いに森へ一歩足を踏み出しかけた。それを待っていたかのように、私に短刀をつきつけている寺子が声を枯らさんばかりに叫んだ。
「こいつを殺すぞ、俺は」
僧人は踏み止まった。一瞬、静寂が流れた。父も、私も、汗を流して震える寺子も、言葉を発しなかった。湖からは無数の水脚たちが今も浮上し続けていて、大君蜻蛉が人間のことなど露知らずといった様子でそれをぱくついている。
「やめんか、カグミ」
ちょうど朝に道案内をしてくれた僧人が、私たちの傍まで寄って来て、その寺子の名らしきものを呼んだ。寺子―カグミは、そちらに目もやらず、私の耳元でがなり続けている。
「黙れ、俺に近付くな」
それからも問答は続いて、段々私にも事情がつかみかけてきた。カグミは仲間を逃がすために時間を稼ぐつもりなのだ。私という人質がいる限り、僧人たちは追手を放つことができない。だからこうして、僧人たちを威嚇し続けているのだ。
カグミの手は震えていた。
じりじりと僧人たちが包囲の幅を狭めていく。それにつれて、カグミの呼吸も荒くなっていく。ああ、私は思った。カグミは僧たちに怯えているのだ。しびれをきらした僧人が不意をつけば、ぷつりと糸がきれてしまうかもしれない。もし、そうなったら―
私がそんなことに思いを巡らしていた時、ばりばりと何かが倒れるような物凄い音がした。見れば、幕を突き破り勢い余った大君蜻蛉が地面につんのめっているところだった。カグミがそれに一瞬気をとられた。
僧人はそれを見逃さなかった。ひとりがすかさず駆け寄ってきて、カグミの手から短刀を叩き落とした。
「畜生」
それが、私が聞いた最後のカグミの言葉だった。父が、ふらりとくずおれた私を支えてくれた。
「ああ、よかった。よかった」
父は私を抱きしめて、見ていて気味が悪いほどに涙を流している。私は安堵のため息をつくと共に、カグミに目をやった。彼は僧人たちから袋叩きにされていた。体中を殴打されて、呻いている。私にはそれが、大君蜻蛉に捕食される水脚たちの姿と重なって見えた。
翌日。
よく晴れた朝だった。私は、昨日と同じ畳部屋の床に座り込んで、ぼうっとしながら外を眺めていた。緑と青の色彩が目に眩しい。
後ろでは、父と、恐らくは寺で一番偉い嗣由杷という僧正が話し込んでいた。父はしきりに私が危険な目に遭ったことを主張し、寺に訴訟を申し込むほどの勢いで僧正を詰り、責めたてていた。私はそれを聞き流しながら、カグミに思いを馳せた。
あの子は絶対、悪い子なんかじゃない。私に短刀をつきつけた時だって、手が震えていた。怖かったんだ。本当に私を殺す気なんてなかったに違いない。そうに、違いないのだ。
「僧正さん」私は言った。「あの子たちはどうなったの」
僧正はちらと私を流し見て、答えた。
「逃げた奴らなら、ひとりを残して全員捕まりましたわい。今後はこのようなことが起こらぬよう、一層監視体制を強化していく所存であります故……」
一人。
彼は今どうしているのだろうか。把中じゅうの寺を敵に回して、ひとりで逃げ続ける心境は、裕福な環境に慣れた私には想像すべくもなかった。
寺を出発する時になっても、父はまだ怒っていた。
それから人力車を雇って、山道を辿っている間、これからの予定のことを父と話した。
「把南に行こうと思ってる。温泉ですっきりして、こんな嫌なことはもう忘れてしまおう」
「いいね」
張り出した木々の枝が、人力車の幌を擦って飛び去っていく。
梢を透かして、沢がちらと視界をかすめた。流れる川面に、数匹の水脚の幼体がたゆたっているのが見えた。




