シン・ゴジラに『愛』が含まれてない理由
ある人が、シン・ゴジラについて言ってた。
「面白いが、主人公が役人ばかりというのは如何なものか」
また、別の人がこうも言っている。
「もっと、ゴジラから逃げ惑う庶民が主人公となるべきだったのではないか?」
シン・ゴジラについて多いのが「恋愛とか家族への愛情とかがばっさり斬り捨てられてるのが痛快で面白い」という声だ。
そこで思ったのが「何故、世界の破滅を描く映画に、恋愛や家族への愛情が必要なのか? いや、不要という声すらあるのに盛り込まれているのか?」ということだ。
女性客への配慮、という答えはとりあえず横に置いておくとして。
それは、主人公達が世界の破滅に立ち向かう理由、というか観客にも分かるような資格・資質が、それしかないからなのではないだろうか?
そしてこれは、何故シン・ゴジラが、そういった「愛」要素なしに成立しているのかという答えでもある。
役人と、彼を支える優秀な研究者たち――彼らには、ゴジラに立ち向かう資格のある立場と能力があるからだ。
だから「愛」なんかなくても、彼らは物語のいちばん良い場所にいることを許されるのである。
彼らは「愛」という資格しか持たない、無力な一般市民ではないのだから。
――と、主人公の資格ということについて考えてたら、思いつくことがあった。
ハーレムアニメの主人公についてだ。特に目立ったところのない凡庸な少年が、何故か美少女たちにモテモテで世界を救っちゃったりもする。
これがおかしいという、批判がある。
でも、逆なんじゃないだろうか?
問題は、つまらない少年が何故か美少女にモテモテなことではなく、そんなモテモテな少年が何故かつまらない人間として扱われていることなのだ。
要するに、凄い人間が不遇な扱いを受けている、貴種流離譚なのではないか――とか考えてたら、後は子供の「自分は貰われ子ではないか妄想」とか、ありがちでつまらない話にしか繋がらないことがわかったので、ここまでにしとこうと思う。