宇宙にて
SS
「夢とは、時として残酷なものよ」
まるでごく自然と息を吐くように、彼女はそう言った。
普段のようすからはまったく想像も出来ないほど落ち着いた顔をしている。
氷のように視線で星を貫く彼女の口からは一つ、息が吐き出された。
今度こそそれを息だと確認してから振り向いた。
よかった、と安心する。
後ろには以前地球から送られた物資と、宇宙船がぽつんと存在している。
「・・ところで」
何も返事を返さない僕に呆れたのか目を伏せながら、言葉を止めずに語りかける。
いや、もはや僕など眼中にはないのかもしれないが。
そうと思わせるほどに彼女の視点はこの地を捉えることなく、一つの星に集中している。
「随分と、近く感じるわね」
それは隣の星だから。口を挟もうとして戸惑われる。
彼女はそれを望んでいるのだろうか。おそらく、今の現状を認識したくはないはずで。
つまり僕は話しかけないほうが得策であろうか。
そんな葛藤をよそに一方的な会話は続く。
「冷えるね」
-62度の地は、住み慣れたあの星よりも随分と差がある。
しかし宇宙服に包まれているため、気温とは関係なく一定の体温維持ができるはずだ。
それを考えるに彼女は気温といった意味で言っているのではないのだろう。
もう何が起きても不思議ではない。怖くもない、と言ったら嘘になるが諦めはつく。
「これいくらぐらいになるんだろう、月の石は高いと聞いたけど」
火星の石、月よりも遠いんだから価値のあるものなんじゃなかろうか。
持ち帰ることが出来たら、それを売って大きな家を建てよう。
「私、馬鹿だからわかんない」
「・・帰れるよ」
ぼそりと呟くと彼女は少し驚いた顔をした。
少し唇を震わせてまつげを揺らす。今にも泣きそうで、抱きしめたくなる。
「無責任」
「安心するならいくらでも言うさ」
「宇宙船も壊れてるし、部品もない。それに・・・」
「大丈夫、違う宇宙船が迎えに来てくれる。そしたら、大事なものだけを持っていくんだ」
彼女は自嘲的に笑った。
そうね、とだけ言って黙り込んでしまう。
それに倣うように僕も口を閉じた。
するりと僕があげた指輪に口付けて涙を流す彼女を見て、見惚れてしまう。
なんて綺麗なんだろう。今までで一番美しいかも。
こんなことを言うと怒られそうだけど。
「・・・ねえ、どこに居るの?」
「ここだよ」
「ごめんなさい、見えないわ」
くすりと笑った彼女に笑い返した。
それが分かるように、声を出して笑った。
こんな状況で、静かに笑う彼女と相反して大声で笑う僕はなんと滑稽だろうか。
「地球って思ったより大きいのね」
絶えず膨張を続ける宇宙から見ればちっぽけな星。
それでも私達から見れば、母なる星だものね。と続ける。
「理解するには宇宙は広すぎるもの」
悲しそうに笑う彼女は呟いた。
広大な宇宙に取り残され、それでも尚僕らは宇宙のことを知らない。
宇宙は常に沈黙だ。悲しいくらいに、残酷で、だからこそ人はそれを尊ぶのだろう。
「帰りたい」
見れば耐え切れず嗚咽を漏らす彼女の姿があった。
手を出したい衝動を抑える。そんなことをしても、彼女を余計に悲しませてしまう。
「帰ったら、暑くて身が焼けてしまうかも」
「いいわ。凍えるより、ずっとまし」
彼女は涙をぬぐった。
ぐす、と鼻を啜ってから手のひらを目にこすりつける。
白くて細い腕では捕らえきれず、雫は静かに落ちていく。
「・・行きましょう、もう行かないとだめよ。私もあなたも」
そう言って彼女は宇宙船のほうへ歩みだした。
僕はしばらくそれを見つめ、やがて後を追う。
大きな岩に腰を下ろし、ため息をつく彼女を見た。
もう決めたかのように笑っていて、苦しくなる。
「いやだ、ネル」
「だめよ」
駄々っ子を諌めるように優しく、けれど力強く答えた。
「あなたが行かなくても、私は行くわ」
目が熱くなる。頬も、頭が考えることを拒んでいる。
「ねえ、バン」
そのまま彼女はしゃがみこみ、上目遣いで僕を見た。
しばらく目をあわしたまま、時間を過ごす。
片方は笑顔で片方は泣き顔なんて、本当に別れの場面のようである。
一分も経っていないだろう、彼女は口を開いた。
「大事なもの、ありがとう」
指輪を見つめて彼女は笑った。
僕は依然泣き顔のままで、格好はついていなかった。
そして光が訪れた。
彼女はこの地から消え、少しすれば僕も消えるのだろう。
岩に挟まった白濁色の髪飾りを拾って握り締めた。
彼女の髪の揺れを、もう見ることはないのだ。