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01…酔っ払い姫、酒に逃げる。


 嫌なことは酒を飲んで忘れるに限る。

 シスターコンプレックスの気がある兄が聞いたら卒倒仕掛けるだろう。しかし、その兄でさえ今は萌香の敵である。「大人しくしてろよ」なんて良くも言えたものだ。

 光沢のあるグレーのスーツを卒なく着こなす男前な兄を遠慮なく睨み上げると、眼鏡の下の涼し気な瞳を細めて、シスコン全快! とばかりに情けない笑みを浮かべ頭を撫でようとする兄に、テーブルの下のブラウンの革靴を萌香はミュールのヒールで力の限り踏んだ。

 「痛っ!」と飛び上がる兄を当然の報いだと言わんばかりに鼻で笑って、注がれたワイングラスを煽った。飲まなければやってられない、とは正しく今の状況を言うのだ。

 誰が好き好んで、愛した男の結婚式に参加などする。「私くらいだろう」と萌香は呟いて自虐的に笑った。


 祝福で満たされた会場は萌香にとって毒にしかならない。

 洗礼されたウェイターが運ぶ美味しそうな料理も、グラスに注がれる品の良いお酒だって。天上からぶら下がる豪華なシャンデリア、幸福を当然のように一身に受けて仲慎ましく微笑み合う新郎新婦、お祝いを述べる観客の声さえも全部、全部。

 この場所、全てのものが萌香の心を中から蝕みじくじくと腐敗させる。


 彼を初めに見付けたのは誰だ。先に恋をしたのも。先に誓ったのも。他の誰でもない萌香だった筈だ。

 大事に抱えて来た宝物が、簡単に奪われて誰かの手に渡る絶望を目の前で見せられる惨めで哀れな女の気持ちを考えなかったのだろうか。

 この身に滾る憤怒を撒き散らして、なにもかも毒する全て、ぶち壊したい。


 再び注がれたワインを煽り飲み込んだ。

 遠くで司会者がマイク越しに何か喋った気がしたが、もう萌香の耳には響かなかった。

「……萌香、飲み過ぎだぞ」

 続いて咎める様な兄の声も届いたが、言葉の意味まで汲み取ることは出来なかった。そういえばお酒弱かった、と思い出す頃にはアルコールが容赦なく頭の回転を遅くさせ、理性の箍を外させた。


 萌香は席を徐に立つ――しかしアルコールが回る身体は思い通りに動いてくれず、ふらふらとした頼りない足取りで進んだ。

 そして。

 ピンク、赤、青。通算四着目になるのだろうか、新婦の薄いベージュのドレスがワインレッドに染まる様をぼんやりとした頭で眺めた。



***


 

 結局染めず終いだった真っ黒な髪から、水滴が滴り落ち水面に波紋が広がった。

 ぴちゃんぴちゃん――心地よい水音だけが耳に残り、荒んだ萌香の心を癒してくれるかのようだ。仕出かした罪も許されるようだ。

 熱した身体を静かに水面に沈める。


 彼と出会ったのは小学校に上がり、二年経った汗が滲む夏の頃。家のインターホンを鳴らした来訪者は最近隣に越した親子だった。

 「粗品ですが」「あらまぁ」とか「大変可愛らしいお嬢様ですね」「お転婆で困ってるんです」と井戸端会議に興じる母を尻目に、扉の外の人影に萌香は気が付いた。

 引越しの挨拶にと無理矢理連れて来られたのだろう、兄よりも小柄な少年が無表情で立ち尽くしている。「……お兄ちゃん何年生?お名前は?」と、控え気味に母の背中から訪ねてみると少年は目を瞬いた後、花が綻ぶように頬を緩ませた。


 静かな水面が飛沫を上げた。

 力の限り振るった腕は噴水の底に打ち付けた。ずきずきと痛みが走る痛みは酔とは別の熱さを帯ている。

 明日は腫れるか痣になっているかもしれない、綺麗だねと褒めてくれた手だった。ハンドクリームを塗るのは習慣になってしまった。しかし、今となっては無意味となってしまった。

 堪らず片方の手で握ったワイン瓶を口付けた。仄かな苦味と熟成させた深い葡萄酒の味わいが喉を通る。


 あれは両親が交通事故で亡くなった中学校に入学して二年の冬の頃だった。両親の分も萌香を育てようと兄は仕事に明け暮れ、一人で過ごす時間も増え毎朝毎晩と泣き続けていた。

 布団の中で丸く縮こまり声を殺して泣く萌香を気に掛けたのか、彼が扉の戸を叩いた。返事をするまで控えめなノックは続き、ついに扉を開けた時には午後九時を過ぎていた。

 目を真っ赤にさせ涙の跡が残る萌香を見て、彼はまた優しく甘く笑いかける。冷えきった心ごと強く抱き締められ、鼓動を忘れていた心臓がやっと動き出したような気がした。暖かい腕の中は、生きている心地がした。

 「僕がずっと一緒にいるから、何時か結婚をしよう」と耳元で囁く彼の言葉に強く頷いて、広い背中に回した腕に力が篭った。


 詰まった言葉は発狂となって静寂だけが呼応した。

 子供だった。簡単に心が傾くくらいには彼はまだ子供、成し遂げることも出来ない無責任な子供だったのだ。

 持て余した遣る瀬無い感情は、いつの間にか涙へと代わり、空気を揺らした。


 誰がこんな結末を予測出来ただろうか。何故一人きりで酒を煽っているのだろう。何故、何故、何故。誰か。

 酔いが冷めぬ頭で何度考えても答えは浮かぶはずもなかった。


 髪から滴るワインレッドの雫。赤く染まるレースがあしらわれたベージュのドレス。悲しげに歪む親友の顔、苦しげな視線を向ける幼馴染みの瞳。

 瞬く暇すら与えられず、萌香の身柄は警備員に捉えられ会場の外に投げ出された。視界の端に移った兄は、上司にあたる親友の両親に膝を折って謝罪を入れていた。

 どんな理由があろうと、自身が仕出かした罪は許されることではないのだと瞬時に理解をし、酔いは波のように引いた。

 だが、それでも、萌香は。

「ごめん、なさ、……でも、ど、ても……ゆるせ、い」

 吃逆混じりに放った声は言葉として聞き取るには困難なもので、何よりも萌香の声を捉えられる人物は誰一人としていなかった。


 ――今すぐ何処か遠く逃げ出したい。


 存在すら危うい人を統べる神へ、仏へ、この際大統領でも何でもいい。叶いもしないだろう願いを掛けて、静かに暗闇に身を任せた。

 啜り泣く声は静寂に吸い込まれ、身体が怪しく光様は萌香の瞑られた瞳には映らなかった。

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