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御門、御倉、近衛――魔術師の御三家と呼ばれる一族の中でも一番の勢力を誇るのが御門なのだという。
意地悪そうな微笑みを携えながらそう説明した沙織姉さんの言葉を回想しながら、私は御門家の門扉の前に立っていた。
木製の大きな門である。私の背丈の二倍はあるだろうか。
譲原の家もそれなりに大きいが、その比じゃない。
広大な屋敷を囲うこれまた広大な竹林が一斉に風に揺れて静かな、けれども大きな音を立てた。
さわさわ、と私の焦燥を掻き立てるように。
この空間だけ時間の流れに取り残されたような錯覚を抱かせる。
もしも私が小学生だったのならば昔話の類を連想し、そして身を震わせたに違いない。
でも私はもう十四歳である。
巨大な門扉に設置されたインターフォンを見て、何だか種明かしをした気分になった。
そのインターフォンを押してしばらくすると、玉砂利を踏みしめて歩く足音が耳に届き、巨大な怪物が口を開けるように、木製の門が開いた。
「あら、あら、あらま」
中から現れたのは、不健康なほどに青白い肌をした長髪の女だった。
桃色を基調にした小紋の着物がよく似合う線が細く撫で肩の女性である。
「どうしたの? 薫ちゃん」
彼女は折れそうなほどに細い首を傾げた。
「あー……えー、この度は」
「ちょっとぉ。なぁに? どうしたの? 急に」
口許に手を当てて、くすくすと笑い始めた彼女に私は戸惑った。
聞いていた話と違うのだ。沙織姉さんの話では譲原は近衛の分家らしく、御門とは折り合いが悪いとのことだった。
だから私はもっと邪険な扱いを受けると思っていたのである。
「あ、そういえば。薫ちゃん記憶喪失なんだっけ? もう記憶は戻ったの?」
「いえ、まったく」
不思議な人だった。やはり私が小学生だったら怖がっただろうなぁと思った。
いや、小学生のときの私がどういう子だったのかなんてわからないのだけども、それでも雪女を思い起こさせる白い肌と美しい顔立ちを見ていると、そう思わざるを得ない。
「そっかぁ。まあ、とりあえず中で話そうか。退院のお祝いにピザを頼んであげる!」
「え……あ、いや大丈夫ですけど……」
「ううん、頼んじゃう! だってわたしが食べたいんだもの! 耳にチーズが入っているやつ」
と、腕の前で拳を作り、琥珀色の瞳を煌めかせた彼女に促されて、私は御門の家の中に足を踏み入れた。
門を潜って最初に目についたのは、玉砂利の敷き詰められた広い庭だった。他には何もない。
広さを表すのに東京ドーム辺りが用いられそうなほどなのに、木々も池も置物もないのである。
「なんか堅苦しい話をしようとしていたけれど、もしかして薫ちゃんが譲原の家を継ぐことが決まったのかな?」
「あ、いえ。違います。私ではなく沙織姉さんが」
「えー!?」
ようやく玄関に辿り着き、戸をスライドさせた彼女は大袈裟に驚いてみせた。
「そっか。そっか。譲原さん家も終わりかね。寂しくなるなぁ」
頭を下げながら玄関に入り、三和土で靴を脱いで廊下に上がる。
私の前を行く着物の彼女は軽い調子で話を再開した。
「あ、別に嫌味とかじゃないんだよ」
長く暗い廊下を進む。左右に襖があり、そのどれもが閉まっていた。
「単純に寂しくて。ほら、魔術師ってもはや絶滅危惧種じゃない」
「そうなんですか?」
意外だった。そこら中に潜んでいるようなイメージさえ抱いていたからだ。
今もどこかで譲原の魔術師が私を監視しているのではないかと思っていたくらいである。
「だって科学には勝てないもの。いつか本当に。魔術師はお伽噺の中だけに登場する空想上の生き物になってしまうんでしょうね」
「もっとこう……世界を牛耳ってるイメージがあったんですけど」
病院の一件は表沙汰になっていなかった。
つまりは隠蔽したということであり、あれだけの大事件を隠すには国家規模のナンタラカンタラというような陰謀論めいた考えが頭の中をぐるぐると回っていたのだ。
「一部はね。牛耳ってるし、貪ってるけど。でも下のほう――譲原さん家にもいると思うけど末端の魔術師は、生計を立てることさえ難しいわけ。だからわたしたちのような地位も名誉も持った大きな一族が養っているんだけど」
通された部屋は八畳ほどの和室だった。私はそこで座布団に腰を下ろし青白い彼女と向かい合う。
その肩の向こうには縁側と先ほどの庭がある。そしてその更に向こう側には涼しげで、荘厳な竹林が広がっている。俗世とは隔絶している空間である。雑音は何もない。ここでは蝉時雨さえ降ってはいない。
「お世辞にも沙織ちゃんは、一族を率いる器じゃないでしょう?」
そうなのだろうか。叔父さんも言っていたが私にはよくわからなかった。
私は曖昧な笑みをみせる。彼女はそれに可憐な微笑みを返してきた。
「人材難で魔術師はどんどん消えているの。……まーわたしは魔術師なんて消えちゃえばいいと思うけどね」
「え……」
「あ、これは失言だ。旦那さんに怒られちゃう」
ぺろっと赤い舌を出した彼女を私は思わず見つめていた。
そういう思考の人間と――魔術師と出会うのは初めてだったからだ。
私の知っている魔術師たちは、魔術を扱えない人間をどこか見下していた。
「私もそう思います」
「知ってるよぉ。薫ちゃんは昔からそう言っていたもの。わたしにはそんなことをいう資格はないのかもしれけれど、わたしもね、最近はそう思うようになってきたんだよ。お腹の中の子には、普通に生きて、普通の幸せを掴んで、そして普通に最期を迎えて欲しいってね」
お腹を撫でながら彼女は言った。私の知らない優しい眼差しだった。
「妊娠してるんですか?」
「うん。不思議だよねぇ。お腹の中に人間が入ってるなんてさ」
「名前はなんて言うんですか?」
「まだだよぉ。ようやく安定期に入った段階だし、性別もわからないし」
「あ、えっと、あなたのです」
この人は違うと思った。この人は信用できると思ったのだ。
名前を知りたかった。私の薄っぺらい記憶に刻みたかった。
「そっか、忘れてるんだもんね。ごめんね。朽葉だよ。朽ちた葉っぱって書いてくちば。昔使われていた色の名前なの。赤みがかった黄色。秋によく使われてたんだって。ってことで、御門朽葉です、どうぞよろしく」
差し出されたその手を私は握り返したのだった。
◇◆◇
きっと配達員は不思議に、あるいは不気味に感じただろうな。耳までチーズの入ったシーフードピザを頬張る朽葉さんを見て私はそう思った。
「よく食べるんですか?」
「ううん、まったく」
ぶんぶん、と手を顔の前で振った朽葉さんが、どうぞどうぞ、とピザの入った紙のケースを私のほうに押してきた。
「胃袋が小さいというか、なんというか。色んな物を食べたいんだけど、すぐにお腹いっぱいになっちゃうの」
「それは、羨ましいです」
朽葉さんとは対照的に、近頃の私の食欲は育ち盛りの男子かってくらいに旺盛だった。
お陰でお腹のお肉に危機感を覚え始めている。叔父の修行がなかったら悲惨なことになっていただろう。
「いいんだよ、若いうちはたくさん食べなくちゃ」
「朽葉さんも若いですよね?」
妊婦だと知って驚いたくらいである。
「二十四歳だよ」
「やっぱり若く見えますね」
高校生くらいかな? と思わせるほどに朽葉さんは若々しかった。
化粧をしている様子はなく、それでいて肌には朝露のような艶がある。とても二十四歳には見えなかった。
「えー。それってさぁ、この歳の女子にはちょっと複雑なセリフだよー。わたしってそんなに子供っぽいかな? 大人な女を目指してるんだけど!」
「子供っぽいです、仕草とか喋り方とか」
「ガーン」
肩を落とした朽葉さんは、コタツに人差し指で「の」の字を書き始めてしまう。
仕草だけなら小学生みたいだという感想は喉の奥に封印した。
「これでも一児の母なんだけどな」
「朽葉さん、女の子を生んでください! 私女の子の赤ちゃんがいいです」
可愛い服とかを着せて一緒に買い物に出かけてみたかった。
もちろん、魔術師なんてものが存在しない世界で、だ。
「女の子はもういるから、次は男の子がいいかなぁ」
「え?」
「ん?」
私は眉根を寄せる。鼻腔にトマトソースの香りが侵入してきた。
「朽葉さんってもうひとりお子さんがいるんですか?」
「いるよ?」
「ええ!?」
「二十四歳なんだし、別に変じゃないでしょ」
「そうですけど……ええ!?」
「二回も驚いたね!?」
私には母親の記憶がない。だからドラマや漫画のイメージしかないのだけども、朽葉さんは私が描く母親像とはかけ離れた女性だった。
正反対の位置にいるといっても過言ではない。
「お子さんは何歳なんですか?」
「んっと、今年で十歳になるのかな?」
「十歳ですか」
私はカニとパン生地を咀嚼しながら、頭の中で引き算を開始する。にじゅうよんひくじゅうは――、
「ええ!?」
「また驚いた!?」
「いやいやいや! 驚きますよ! 驚くでしょ!?」
「タメ口になった!」
「あ、すみません! でも驚きますよ!」
「いいよ、いいよ。薫ちゃんずっとタメ口だったし。わたしに敬意を払ったことなんて一度もなかったし」
またも始まった「の」の字書きに、私は苦笑を浴びせた。
十歳の子供がいるということは、十四歳――要するに今の私と同い年で出産を経験しているということである。ビックリして当然だ。
「壮絶ですね」
「壮絶なのかな。壮絶なんて言われたこと初めてだよ。でもまあ、魔術師の家に生まれれば別に珍しいことじゃないのかな。時代錯誤も甚だしいというか――良くも悪くも伝統を重んじるからね。女は早く結婚して、子供を生みなさい、みたいな」
「思考がいちいち古臭いですよね」
「ねー! うちの旦那なんかもう頑固で頑固で酷いんだから!」
と、女子トークに花を咲かせ始めたところで、私のジーンズのポケットが震えた。
ケータイ電話のバイブレーションだった。朽葉さんに断ってから画面を開くと沙織姉さんからのメールが届いていた。
そこには「お祖父ちゃんを殺した。正式に跡継ぎになった。早く帰宅するように」と簡潔な文章が書かれていた。
「そろそろ帰らなくちゃダメみたいです」
逆らうとあとで面倒だ。小言を延々と聞かされるに決まっている。
それにしても――祖父を殺した、か。私は祖父と面識はないが、何だか胸が苦しくなった。
仮にも肉親なのに、沙織姉さんや叔父さんは何も思わないのだろうか。
伝統だから、そうやって血を繋げてきたから、平気なのだろうか。
「そっか、残念。薫ちゃんをお泊りさせて朝まで女子トークする気満々だったのに」
「ええ……」
「こら。あからさまに嫌な反応しないの」
めっ! と私の頭を軽く叩いた朽葉さんの手は、そこでしばらく停止した。
「昔のテレビみたいに強く叩いたら記憶が戻ったりしないかな?」
「ちょっ、やめてくださいよ?」
ふふふっという笑い声と吐息が頭頂部を撫でた。不意に私の耳に朽葉さんの豊満な胸が当たる。
抱きしめられているのだと気づけたのは、その柔らかな感触を感じてから二秒後のことだった。
テーブル越しの抱擁は、腰の辺りが痛かった。けれどとても温かかった。
「わたしは、そのままでいいと思う。薫ちゃんは、今のままでいいと思う。お伽噺のお姫様じゃあるまいし、魔術なんて使えなくても人は幸せになれるんだもの。きっとこの先、大変なことがいっぱいいっぱいあると思うけれど、でもわたしは何があっても薫ちゃんの味方だからね。何かあったらうちに逃げてきていいんだからね。ファイト!」
私は単純なのだろうか。
たったこれだけで朽葉さんを好きになってしまった自分に当惑する。
母親像とかけ離れている? そんなことはない。御門朽葉という人間は立派な母性の持ち主だ。
少年が御門の家に行くように、と言った意味が何となくわかった気がした。
「そうだ、薫ちゃん。記憶をなくす前の薫ちゃんが預けていったものがあるんだけど――」