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絵空事  作者: 久遠寺くおん
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 入院生活も一ヶ月に差し掛かり、体内時計は完全に病院仕様のものに入れ替わった。

 朝の診察前に自然と起床して、洗面所に顔と歯を磨きに足を運び、診察と朝食を終えると院内学級に顔をだす。




 私に院内学級を勧めたのは白髪の医者だった。私があまり口を開かないから心配していたらしい。

 子供たちに勉強を教える若い女の先生がそう言っていた。


 不思議と勉強は忘れていなかったので、私はそこで子供たちの理解を促す役割をいつの間にか任されていた。




「だって薫ちゃんの学力は既に高校生レベルで、教えることがないんだもの。先生、高校の授業はサッパリで」


 どうして私にそんな仕事を任せるのかと尋ねると、彼女は私の頬を指でつまみながらそう言った。

 もしも姉がいたらこんな感じなのかな、と私は思った。




「きっと勉強を頑張っていたのね。偉いぞー」


 今度は私の髪の毛を撫でる。叔母とは違って柔らかく暖かな手のひらだった。




 昼食を食べたあとは白いベンチに座って少年を待った。

 相も変わらず意味のない会話を繰り広げる私たちではあるが、この時間を私は好ましく思っていた。




 本日のお題は世界について、である。

 もちろん、例によって話はあちらこちらに飛んでいくのだが。




「譲原さんは海外に行ったことありますか?」


「私はこの病院からでたこともないよ」


 精神的なリハビリのお陰だろう。多くの人と言葉を交わすうちに会話にも慣れてきていた。

 どのタイミングだったかは忘れたけれど私は少年に対して敬語を使うのをやめていた。


 友達とはそういうものだということを覚えていたからだ。




「じゃあ記憶喪失の譲原さんにとっては、この場所が世界の全てなんですね」


「そうなるかな」


 空を見上げる。大きな入道雲が青空の一部を白く塗りたくっていた。

 この空が世界に繋がっているなんて、嘘みたいな話だと思う。世界には七十億人もの人間がいるだなんて、あり得ないと思った。




「世界は既に滅んでいて、外の世界はまやかしなんじゃないかって僕は時々考えます」


「じゃあテレビとかは? 私は時々アメリカの野球を観るよ。みんな凄いんだ」


 院内学級のテレビによく流れているのだ。

 先生の趣味らしかった。子供たちが教えてくれた。




「映像なんてどうにでも作れるじゃないですか」


「今日のあなたは何だか変だね。なんていうかいつも以上に漠然としたことを言っている」


 普段の少年なら「どうにでも」の部分をもっと具体的に言うと思ったのだ。




「お別れの時間が迫っています」


「まだ空は明るいよ」


 夏が近づいて、夜は短くなった。でもまだ太陽は上のほうにある。

 私は太陽を指差して微笑んでみせた。




「そろそろ本題に入りましょうか」


 少年も微笑んだ。少し泣きそうな顔だなと私は思った。

 小首を傾けて少年を見据える。普段と変わらない表情だった。




「今日――僕は殺されるんです」






 ◇◆◇




 部屋に戻る足取りは重たかった。スライド式のドアを開けると私の荷物を革のカバンに詰めている叔母の後ろ姿あった。

 私はその背中に声をかける。




「叔母、さん」


 未だ頭は混乱したままで、少年の話を受け入れられないでいる。嘘だと思う反面、少年の眼差しには確かな説得力があったのだ。

 私の震えた声音に、叔母さんが振り返った。




「ああ、薫。家に帰るわよ」


「帰るって……まだ退院の許可が」


「もう完ぺきに動けるのだから問題はないでしょう」


 荷物を詰め終えた叔母は、私にカバンを押し付けた。

 僅かな着替えしか入っていないそれは軽かった。まるで私の記憶のようだと思った。




「お別れを言ってきます」


 荷物を床に置く。もしかしたら少年はこのことを言っていたのかもしれない。

 殺されるとか、その他にも色々と変な話を聞かされたけれど、私が今日病院を去ることを知っていて、それが悲しくて、あんなことを言ったのかもしれない。




 叔母の許可を取るつもりはなかった。私は返事を待たずに廊下に飛び出した。

 小走りに近い早歩きで、少年の病室を目指す。きゅっきゅっきゅっ、という私の足音がいやに反響した。

 窓の向こうに広がる夜とは対照的に、蛍光灯に照らされた廊下は明るい。




 アルコールの匂いを嗅ぎながら私は廊下を突き進む。

 きゅっ、きゅっ、きゅっ、と急げば急ぐほど、胸に焦燥が広がれば広がるほど、私の足音は大きくなる。


 嫌な予感は、一歩進むごとに膨らんでいった。




 どうして。



 どうして、今日はこんなにも自分の足音が聞こえるのだろう。


 私は立ち止まった。静かだからだ。病院全体が静寂に包まれている。




 なぜだろう、と考えるのが怖かった。

 冷静になってしまえば、きっと私はその答えに辿り着いてしまう。




 ――今日の夜、魔術師がこの病院を襲います。





 少年の言葉が耳の奥で蘇った。私は耳を塞いで頭を横に振る。




 ――全員、殺されます。




「嘘だ――ッ!」


 私の叫び声が木霊する。

 そんなこと、あり得ない。現実的じゃない。警備員がいる。


 何かあればすぐに警察が駆けつける。全員を殺すなんて不可能だ。




 ――でも、どうか悲しまないで。




 気がつけば私は走りだしていた。少年の病室にではない。院内学級にだ。

 あの部屋はレクリエーションルームにもなっている。子供たちの多くが夕ご飯までの時間をあの場所で過ごしている。


 私も何度かその集まりに参加して、携帯ゲーム機で対戦をさせられて、そしてボロボロに負けて、馬鹿にされた。



 あの部屋に行けば、この煩いくらいの静寂が消えると思ったのだ。




 お腹が痛んだ。頭が痛かった。走ること自体、私には初めての経験で、途中何度か転んだ。

 額を打った。膝が摩擦で真っ赤になった。それでも走ることをやめなかった。




 院内学級の前に辿り着き、私は深呼吸をした。

 画用紙に描かれた家族の絵が、廊下の壁に貼られている。


 私はそれを見ながら扉を開き――そして膝から崩れた。




 一体、どれだけの人間が殺されたのだろう。

 扉を開けた私の元へ、逃げるように血だまりが流れてきた。その光景は、私の懐に笑顔で飛び込んでくる子供たちを想起させた。





 四肢が、臓腑が、毛髪が、眼球が、肉片が、頭が、血の池を漂っている。

 その光景にリアリティなんてなかった。作り物のようで、つまりは安っぽいお化け屋敷みたいで、だからこの信じ難い悪臭もニセモノで――だって、そうだ。人の命をこんなに簡単に、残酷に、奪っていいはずはないのだから。


 嘘に決まっている。




「ああ、なに? あんたも手伝いにきてくれたの?」


 血の池に佇みながらグミをつまんでいる茶髪の女が、私を見てそう言った。




「――誰」


「誰って……ああ、そうか。あんた記憶喪失なんだっけ」


 言いながら口端を歪めた彼女は「んー」と顎に指を当てる。




「あんたの義理の姉、みたいな」


 肩まで伸びた茶髪を掻き上げながら、彼女は私にグミを差し出した。




「いる?」


 いくら否定しても、目を背けようとしても、妙に落ち着いた私が嘘じゃないよ、と笑っている。



「もうここは終わったから帰っていいよ。あんた今、魔術をろくに扱えないんでしょ?」


 ニタリ、と彼女は笑った。醜悪な笑みだった。




「どうして……」


「ん?」


「どうして……どうしてっ! こんなことをするの!?」


「うわぁ……マジで綺麗さっぱり記憶なくしちゃってんだ。ウケる。どうしてって、あんたの痕跡を消すためでしょ」


「……私、の」


 私が原因だというのだろうか。私の所為で彼らは死んだのだろうか。彼女が殺したのに、私の所為にしようというのだろうか。

 それなのにどうして私の目からは涙が溢れないのだろうか。




「そう、あんたの。あんたニンゲンに関わり過ぎ。魔術はニンゲンに知られてはならない。もしも見られたら殺すしかない。まったく、勘弁してよね。人殺しは服が汚れるから好きじゃないんだ」




 ――どうか絶望しないで。




 少年の横顔が脳裏をよぎる。




「あ、ちょっと!?」


 私は廊下を引き返していた。少年を助けるために、だ。

 私に何ができるかはわからない。でも連中が私を殺そうとしていないことはわかった。私が頼めば聞き入れてくれるかもしれない――でも、そんなこと無理だって知っていた。


 頭の片隅で私が嘲笑う。




 乾いた足音が次第に湿り始めた。

 病室から廊下に血が流れてきていたからだ。




 大勢の人間が殺されている。私の痕跡を消すために、消されている。

 胸が苦しかった。でも涙はでなかった。途中、先生と医者の頭部を発見した。でも泣けなかった。




 私は少年の病室に飛び込んだ。窓から入り込んだ夜風が、クリーム色のカーテンを踊らせている。

 部屋の奥、入って左側のベッドの上に少年はいた。初めて会った日のように、私に手招きをしていた。




「……なんで」


 私はよろよろと歩み寄る。頭は働くのに、まともな言葉がでてこなかった。




「なんで」


 と、私は呟くだけの壊れた人間になった。



 風が吹き込むと少年の華奢な身体が揺れる。

 足許の鮮血、視界の先の黒い夜。私はその日、初めて少年を見上げた。




 首にくくられた糸が、月明かりを跳ね返す。少年の顔にいつもの微笑はなかった。

 糸に吊られて伸びた腕と、重力に屈した手が、手招きをしているように見えただけだった。




 ――譲原薫は、いつかきっとこの壊れた世界を救う。僕はそう信じている。





 ――だからどうか悲しまないで。どうか絶望しないで。譲原薫の物語はまだ始まってすらいないのだから。




 ――今日までありがとう。そしてさようなら。




 月だけが、私と少年の最後を見ていた。


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