プロローグ 誰も知らないお伽噺
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瞼を開けてしばらくは、その白い線が何なのかわからなかった。
私はベッドに寝かされいる。傍らには見知らぬ泣き顔、視界の先には見知らぬ天井。掲げた手のひらで蛍光灯を覆い隠して、私はようやくその線の正体を理解した。
糸、だった。
包帯に包まれた指先から無数の細い糸が伸びている。
「ご気分はいかがですか? 譲原さん」
白髪の医者が口にしたユズハラという言葉が、人の名前だと理解するのは容易かったが、その名前に心当たりがないことを伝ると、医者は眉をひそめて唇を開いた。
「譲原さん。あなたは三日前、腹部に大怪我を負ってこの病院に運ばれてきました。覚えていますか?」
私は枕に後頭部をつけたまま首を横に振る。ただそれだけの振動でお腹の辺りが引き裂けそうなほどに痛かった。
「彼女が誰だかわかりますか?」
涙で顔を濡らした女性を私は見た。わからない、と答えた。
「あなたの叔母ですよ」
もう一度、彼女に視線を向ける。今の私にとっては目の前の医者も彼女も同じだった。等しく他人に思えた。
医者は険しい顔で説明を続けた。
私は三日前の深夜、ナニモノかに襲われて臓器の一部を損傷する大怪我を負っていたのだという。
今の今まで生死の境を彷徨っていたのだという。
まるで実感はなっかたが、酷く腹が痛むので事実なのだろう。
この痛みだけが唯一にして絶対の証人だった。
「おそらくは心理的なショックによる記憶障害でしょう」
医者は叔母にそう告げて私を一瞥した。
「何にせよ意識が戻ってよかった。しばらくは検査が続くと思うので苦しいかもしれませんが、次第に記憶も戻ると思いますし、怪我のほうも日常生活に支障は出ないと思います。リハビリ、頑張りましょう。何か聞きたいことはありますか?」
「糸が」
私は手をかざして確認する。窓から射し込む陽光に指から伸びた糸が煌めていた。
その糸を視線で辿る。随分と長かった。
「いと?」
部屋を視線が一周したところで、ぴたりと止まる。
叔母と医者の四肢に絡まっていたからだ。その光景は操り人形を連想させた。
「……何でも、ないです」
どうやら医者には見えていないらしい。私は私が誰だかわからないけれど、糸のことを話してはいけないということはわかった。
叔母が鋭く私を睨んでいたからだ。あの涙なんて嘘だったかのように、彼女は冷たく私を見下ろしていた。
医者が退室する。時間が時間なので検査は明日になるそうだ。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。叔母が嘆息を吐いた。
「あの……」
「本当によかった」
私の声に叔母の無機質な声が被さる。封殺されたのだと察した。
「で。あなたをそんな風にしたのは誰?」
「覚えていません」
記憶が抜け落ちているのではない。今の私には過去というものが存在しなかった。
私に関するデータがまるごと消えている。叔母の顔も、家族の顔も、それどころか私自身の顔もわからない。
「もう演技はいらないの。早く教えなさい」
「演技とかじゃなくって……」
私の返答に叔母は舌を鳴らした。泣き顔はとっくに消え失せて、強い苛立ちが叔母の顔を歪ませていた。
でもそれが犯人への怒りではなく、私に向けられたものだということは、記憶のない私にも理解できた。
叔母が窓際のテレビの電源を入れる。
映し出された番組はニュースだった。リポーターの男性が暗い住宅街を背景に、声を荒げながら必死に何かを喋っている。
私はテレビ番組に意識を傾けた。
「三日前、とある町の住民が忽然と姿を消した」
叔母の話とリポーターの説明が重なる。
叔母がチャンネルを変えた。そこでもその事件の特集が組まれているようだった。
「行方不明者はわかっているだけでも数万人。それもそうでしょうね、何せ町中の人間が綺麗さっぱりいなくなったのだから」
どういうことだろうか。そんなことがあり得るのだろうか。記憶はなくとも知識は残っている。
私の中の常識は、その嘘みたいな話を受け入れられないでいた。
けれども、テレビの中の人物が、文字が、叔母が、私の常識を嘲笑う。
「あの、話が呑み込めないんですけど……」
なぜ私は詰問されているのだろうか。
なぜ叔母は私に咎めるような視線を投げているのだろうか。酷く不安になった。
「痕跡は殆ど残っていなかったけど、ある民家の居間に複数人の血痕が見つかった。あなたはね、そこに倒れていたのよ」
え、という音の空気が口から漏れた。私がその町に? テレビを見る。明かりのないその町に見覚えはなかった。
「あなただけが、生き残った」
その眼差しに温度はなかった。双眸がカメラのように私を捉えているだけだ。
「私たちはあなたがこの事件に関わっていると考えている。ナニモノかと共謀して、十数万人の人間を使って、何らかの儀式を行ったのだ、と。ねえ、薫。正直に話して頂戴」
かき氷をかきこんだように、頭の奥がツン、と痛くなった。
ようやく呑み込めた現況は、考え得る限り最悪なものだった。私は疑われている。
私は、容疑者だった。
「……ち、違う。私じゃない。だって私なんかが! 無理。普通に考えて。何万人もの人間を消せるはずが――」
「あなたなら一晩でできたでしょ。その糸を使えば」
晩御飯の献立を話すように叔母は言った。
「――は」
口端がつり上がる。私は自分の指先を見た。蜘蛛の糸のようなそれが夕日を反射している。
この糸を使えば、大勢の人間を消せる? そんな知識は私の中になかった。
「大丈夫。きっと許してもらえるわ。薫は利用されただけだってことを私が説明するから」
「私は……何も、」
悲鳴を上げる下腹部を無視しながら、私は頭を左右に振る。
しかし必死に否定する中で私は気づいてしまった。
私には私を守る為の確証がないということを。
何せ記憶がないのだ。どうして私ではないと言えようか。
私は私がどういう人間だったのかさえもわからないのだ。
私ではないという否定は、憶測どころか単なる願いでしかない。
叔母に尋ねてみた。叔母の顔に微笑みが浮かぶ。
「私たちの誇りだった」
聞いていて面はゆくなるようなことを叔母は平然と言った。
「だって優秀な殺し屋だったんだもの。あなたの未来は約束されていたのに、どうしてこんな……」
顔の皮膚が凍り付く。私は私を信じられなくなった。
叔母も私を信じてなどいなかった。つまりは、以前の私はそういうことを起こし得るかもしれない人物だった、ということである。
全身が粟立って背中がむず痒くなった。
私が、
「……犯人?」
手が震えた。肺が酸素を拒んだ。身体の末端が急速に熱を失う。
ただただ、怖かった。自分が恐ろしかった。
「私は、なに……」
「何って。譲原の血を引く魔術師で、冷酷無比な殺し屋じゃない」
こうして私の悪夢のような日々が始まるのだった。
それともこれは悪夢そのもなのだろうか。そんな冗談に、苦笑さえ浮かばなかった。