(5)
「あれ?」
クリスがそれに気付いたのは、運河を離れ、街中の広場にさしかかったときだった。
「どうしマシた、くりすサン」
「あそこに人が集まってる」
大勢の人間が広場の中ほどを埋めつくしていた。こちらからは人々の背中しか見えないが、口々に何かを叫んでいるようだ。
近づいてみると、彼らは広場の中心を取り囲むように、人垣を作っていた。彼らの背中越しにその中にあるものを見て、クリスはあっと声を上げた。
石畳に敷き詰められた薪と、その中心に立つ巨大な杭。縄でくくりつけられているのは、三角帽子をかぶったみすぼらしい少女。クリスと年はそう変わらない。
魔女狩りだ。
「火をかけろ! 焼き殺しちまえ!」
「魔女め! 汚らわしきものめ!」
「焼け! 焼け! 焼き殺せ!」
広場は罵声と怒号で満ち溢れていた。人々は老若男女関係なく拳を振り上げ、顔を興奮で真っ赤にしている。
これから火刑が行われるのだ。
「スクーズィ」
プルチーニが『すみません』と近くの男に声をかける。興奮していたところに水をさされ、男はいかにも不機嫌そうな顔を振り向けた。
「あの人、何をしたんデスか?」
「あァ? 知らんよ、とにかく魔女っぽいことをやったんだろ! 教会がそう言ってるんだから! おおい、何やってるんだ、早く火にかけちまえ!」
うつむく少女を中心に群衆の怒声は果てしなく高まってゆき、石を投げつける者まであらわれた。杭の周りには白い法衣をまとった教会兵がいるが、もちろん彼女を守ってやるようなことはしない。
人々の少女に対する行動、それは決して憎しみによるものではない。そもそも彼らと少女との面識はない。日々の中で溜まっていった不満、不安、怒り、いらだち……そういった鬱屈した感情を神にまつろわぬ者への処刑にかこつけ、発散させているのだ。
「珍しいデスね。ヴェネツィアでは裁判は多くても処刑までいくことはめったにないんデスが。トルコとの戦争でいろいろ景気が悪いデスからねぇ。ここらで一発盛大なうさ晴らしを、というわけデショうか」
プルチーニの言葉に、クリスの心臓は跳び上がった。
とんでもない暴言だ。もし聞きとがめられて教会につげ口されたら、即座に火刑台行きである。
隣の男がちらりとこちらを見て、眉をひそめる。それだけでクリスは気が気でないのに、当のプルチーニは平然としているのだからたまらない。
「ちょ、だ、ダメだよ、プルチーニ。そんなこと言ったら、こっちが魔女扱いされるよ」
「ワタシを魔女扱いしたのはくりすサンじゃないデスか」
「そうじゃなくて、おいらまで魔女の仲間に見られるのがイヤなんだよ」
そうデスか、とプルチーニはちっともこたえない声で返す。
やがて神父が杭の前に進み出て、罪状を読み上げはじめた。
「魔術で運河の水を引き上げて教会の床を汚した罪、デスか。高潮なんて毎年起こってることなのに、よく魔術なんかにこじつけられるもんデスねぇ。どう思いマスか、くりすサン」
「知らないよ、そんなの。あの子が本物かどうかなんて、今さらおいらたちが決めることじゃない。もう裁判で決まったことなんだろ? 教会がそうだって言ったらそうなんだよ」
そのとき、群衆から拳一つもある大きな石が投げ込まれた。石は少女の頭に直撃し、栗毛色の髪がたちまち血に染まった。
クリスのすぐ近くから、荒くれた声が上がった。
「神父さま! そんなヤツはとっとと火にかけちまってくだせえ! あっしぁもうそいつの顔を見るのさえ耐えられねえんでさぁ!」
ワッと喚声が沸いて、広場が拍手に包まれる。教会兵たちは直立不動の姿勢を崩さないが、その口元は笑いに歪んでいた。
そのとき、少女が血まみれの顔をもたげた。投石の前からすでにひどい暴行を受けていたようで、小さな顔は無残に腫れ上がっていた。
「あ……!」
涙に濡れたその瞳を見て、クリスは不思議な既視感にとらわれた。まぶたが腫れて半分閉じかかっていても分かる、その丸い目。その、どんぐりのような瞳――。
ぶるぶると頭を振って、妙な考えを打ち消す。そうだ、あれはただの魔女だ。悪魔憑きだ。あの子とは違う。
たいまつを持った兵が杭に近づいてゆく。いよいよ火刑がはじまるのだ。
群衆の興奮はもはや頂点に達し、振り上げた拳が津波のように広場をおおいつくしている。前に前にと詰め寄る人波に押されながら、それでもクリスは少女から目をそらさなかった。いや、そらせなかった。
少女がくしゃりと顔をゆがめて、こちらを見た。いや、見ているのは、さっき石を投げつけ罵声を浴びせた中年の男だ。
渦巻く声にかき消されて、何を言ったかまでは聞こえない。しかしクリスは、彼女の口が確かにこう動くのを見た。
「……おとうさん」
――何が起こっているんだろう。
今、この広場で神の名を借りて行われていることは、一体何なんだろう。
自分は両親をなくした。だけど、神様に救われて今生きている。
あの子には父親がいる。でも、神様に見捨てられて殺されようとしている。
それでいいのか。それが神様のおぼし召しなのか。そんなものが――。
突然、広場に大声が響いた。
「待って!」
ざわめきが絶え、人々が一斉にこちらに向いた。
それが自分の声だと気付くのに、長い時間がかかった。
「あ……」
我に返ったときには、周りの人々は五歩以上もの間を置いて、クリスから遠ざかっていた。
サーベルを腰に佩いた教会兵が近づいてくる。
「どうしたんだい、君? もしかしてあの魔女の身内かな?」
「い、いえ」
「じゃあ、お友達?」
「そういうわけじゃないですけど……」
「それじゃ、『待って』っていうのはどういう意味かな? 火をかけるのは待って、っていう意味だよね? あの魔女をかばおうっていうつもりなんだよね?」
兵は案外若く、ちょうどドメニコと同じくらいの年頃に見えた。
にこやかに笑ってはいるが、その内側にはどす黒いものがひそんでいる。同じ教会の人間でもドメニコ兄ぃは決してこんな笑い方はしないと思ったとき、クリスの心の内でくすぶっていた火がぶわりと拡がった。
「あの……あの子が犯した罪って、一体何なんですか?」
「だからさっき神父様が言ってたろう? 洪水を起こして……」
「でも、それが魔術じゃないって証言する人がいたら助けられるんでしょ。あの子のお父さんは何してるんですか」
「その親父さんが告発してきたんだよ、娘を。こいつは悪魔に憑かれてますって。信心深い、立派な人じゃないの」
「そんなのおかしくないですか。家族って何があったってお互いを守るものでしょ。おいらには家族がいないけど、だからこそ分かるよ。親が子供を火刑台に送るなんて……そんなのおかしいよ!」
にやけ半分で見ていた観衆たちは声を失った。
「……君、ちょっと来てもらおうか」
兵は笑顔を吹き消し、クリスに手を伸ばしてきた。
「スクーズィ。ちょっと待ってくだサイ」
その前に立ちはだかったのは、プルチーニだ。
「何だ、君は? はは、妙な格好をして……道化師か、それとも物狂いか?」
「ノ。正義の味方デス」
その一言で、男の眉は鉤のように吊り上がった。
「おい……。何だお前、口の利き方には気をつけろよ。俺の後ろには教会がついてるんだぜ」
「ミ・ディスピアーチェ。ごめんなサイ、とても神サマに仕える人間には見えなかったもので」
「てめぇ」
男は腰のサーベルを抜いた。
クリスは震えをおぼえた。男の追及を自分からそらすため、プルチーニがわざと挑発したのは分かる。だけど、ここからどうやって切り抜けるっていうんだ。
「いいサーベルデスね。ひょっとしてゾーリンゲン製デスか?」
「へへえ、分かるのかい。そうさ、ゾーリンゲンのマイスターが丹精込めて作った刃に、教会の祝福を受けた逸品だ。こいつで一突きすりゃあ、お前みたいな魔女なんぞひとたまりもねえぜ、ハハハッ!」
歯を見せて笑いながら、男はプルチーニの胸にサーベルを押しつけた。控えめなふくらみが刃先の形にゆがみ、外衣に小さな穴が開く。プルチーニは表情一つ変えず、それを見ている。
「ハッ、大した肝っ玉じゃないか、女ァ。よし、チャンスをやる。お前、そこにひざまずいて祈れ。俺の前で信仰の深さを示せば、見逃してやらんこともない」
群衆はざわめいた。
男が信仰という言葉を口実に、プルチーニに屈辱を与えようとしていることは明白である。しかしもちろん、彼女を擁護しようとする人間などあらわれるはずもない。事のなりゆきを興味津々に見守っているだけだ。
「スィ。分かりマシた」
なんとプルチーニは抵抗するどころか、言われるまま地面に両膝をついた。
「それで、どうすればいいんデスか?」
「祈れ。頭を地面にこすりつけて、祈りを捧げるんだ」
「お祈りの言葉が分からないんデスけど」
「かぁ……お前、本当に魔女じゃないのか? もういい、そのまま頭を下げろ」
プルチーニが小さくうつむくと、男はサーベルの先を彼女の頭に押しつけ、振り払った。銀の髪が数本、ぱらぱらと切れ落ちた。
「もっと下げろ。信仰が足りないぜ」
クリスは拳を握り締めた。
これが教会の人間のやることか。神と主と精霊に仕える者のやることなのか。
腹が立つ。教会の権力をかさに着て好き放題をする男に。言いなりになるがままのプルチーニに。そして――彼女に何もしてやれない自分に。
「本当によく切れる、いい武器デスね」
「そうさ、このまま首まで切られたくなかったら言うことを聞きやがれ。もっと頭を、いや、鼻がいいな。ブタみたいに地面に鼻を押しつけて懺悔するんだ。ハーッハハハ!」
プルチーニはやはり言われるまま、顔を地面に近づけた。
ふと、その動きが途中で止まった。
「ところで、人間が最初に手に入れた武器を知っていマスか?」
へっ、と男が聞き返そうとした瞬間だった。
プルチーニの伸び上がりざまの鉄拳が、男のアゴに叩き込まれた。男が宙にぶっ飛んで倒れると同時に、人垣から悲鳴が上がった。
「根性叩きなおすには、やっぱりこれデス」
ぴくりとも動かない男を見下ろし、ぷらぷらと拳を振るプルチーニ。対照に、クリスは真っ青になった。
「な、なんてことを……!」
とんでもないことになった。いくらなんでも、教会の人間を殴るなんてメチャクチャだ。
蜘蛛の子を散らすように人が間を開ける。プルチーニの袖に取りつき、クリスは悲痛な声を上げた。
「早く逃げよう、プルチーニ! 捕まったら火あぶりにされちゃうよ!」
「もう逃げようがないと思いマスけど。顔も見られちゃいマシたし」
「そんな、他人事じゃないんだから……ああどうしよう、取り返しがつかないことを」
「くりすサン」
思いがけないほど強い声が、クリスを立ちすくませた。
「世の中、どんなことでも取り返しがつくものデス。――ただ一つ、人の命以外は」
やがて、熱狂する群衆の中から、法衣と冠をまとった神父が。法衣の胸にあしらわれた黄金の十字架といい、たるんだ頬といい、なんとも俗っぽい聖教者である。
「神父様! あの娘です! あいつがマルコを!」
「ほう、ほう。これはまた異な風体を。まさしく邪教の徒じゃの」
教会兵にいざなわれて、神父はゆっくりとクリスたちの前に出た。
ぷいと横を向いたプルチーニに、鷹揚な態度で近づく。
「どれ、顔を見せてみい。顔を……」
そう言ってのぞき込んだ途端、神父の顔は石膏のように固まった。
「……神父様?」
兵が首をかしげる。
「いかがなさいました、神父様」
神父はよろよろと後ずさり、こわばった唇から風のような声を出した。
「し……」
「し?」
「失礼をばいたしましたあぁぁぁァァァァァァァァァァァァっ!」
その場にいた全員が目をむいた。神父が冠をかなぐり捨てて、地面に平伏したのである。
「まさかまさか貴方様とはつゆ知らず、とんでもないことを……けしてけして神に誓って、故意ではございません! どうかお許しをぉぉぉぉっ!」
かたわらの教会兵があぜんとしながら近づく。
「あの、神父様……一体何が」
「この馬鹿者!」
神父は彼の首根っこをつかんで引きずり下ろすと、その顔をしこたま殴りつけた。
「貴様はわしを破滅させる気か! よりにもよってこのお方を魔女などと……大馬鹿者め、地獄に落ちてしまえ! 馬鹿者! 馬鹿者!」
涙目になりながら半狂乱で殴り続ける。兵はわけもわからず頭をかかえてうずくまるばかりだ。
それを止めたのは、他ならぬプルチーニだった。
「じょるじおサン、そのあたりにしてあげてくだサイ」
神父は雷に打たれたように手を止めた。再び地面に突っ伏し、ごつごつと額を石畳に打ちつけて謝る。エサをついばむ鶏のようなその姿には、聖職者としても威厳もくそもなかった。
「ははあっ! も、申し訳ございません。このたびはこの者が大変なご無礼をば……」
「ディニエンテ。気にしないでくだサイ。彼は悪くありマセん。ただ、本物とニセモノの区別がつかなかっただけデス」
しばし言葉の意味を考えて、神父はいっそう青ざめた。
「ところで、少し太りマシたね。余計なことかもしれマセんけど、贅沢が過ぎるんじゃないデスか」
「め、めっそうもない。これは日がな一日外にも出ず祈りを捧げているせいで……」
「はぁ、年デスね。昔は足しげく裸のまりあサマのところへ通っていたのに」
「あわわっ! どうかそれ以上はご勘弁を!」
慌てて両手を振る神父。
「ではワタシを解放してもらえマスか、じょるじおサン。帰る道々で襲われたりすると怖いので、できればここにいる皆さんにワタシの潔白を証明してもらいたいのデスが」
もちろんです、と顔を上げて、しかし、ジョルジオ神父はそれが簡単ではないことに気付いた。
広場を埋めつくす群衆の顔には、困惑を超えて今や怒りの表情が浮かんでいる。もちろんその矛先は、魔女に対して媚びへつらう一人の神父に向けられている。一体何をやってる、何でさっさと焼き殺さないんだ、という文句がどの顔にもくっきり書いてあった。
プルチーニは転がっていた冠を長衣の裾でぬぐうと、神父の禿頭にかぶせた。
「この冠が三角帽子に変わるかどうかの瀬戸際デス。がんばってくだサイね」
彼女の言うとおりだった。魔女をかばいだてすれば、今度は自分が魔女あつかいされる。聖職者なればこそ、その罪は重い。
プルチーニは棒のように立ちつくす神父の肩に手をかけた。杭に繋がれた少女を指差し、こともなげに言う。
「ついでにあの人も助けてくれたら、うれしいデス」