(3)
まぶたを開けると、窓の外に昇りたての太陽が見えた。
ひどく眠りが浅い。鉛のような頭を持ち上げ、クリスはのそのそとベッドから降りた。宿から用意してもらったチュニックに着替え、部屋を出る。階段を下りて女将と挨拶を交わすと、そこはもう庭への出入り口だ。
白んだ光が、土の地面を二つに塗り分けている。まだアクア・アルタの水が抜けきっていないのだろう、庭に踏み入るとじっとりと湿った感触が靴の裏に伝わった。
ヴェネツィアの北東に位置する、ここカナレッジョ区は、政治経済の中心地である聖マルコ区と比べるとずいぶん寂しい。クリスたちの他に泊まり客はおらず、物売りの声どころか、小道を行く人の足音すらまばらだった。
庭を挟んだ向かいの三階建ては、一般の住宅である。左右を見れば、それぞれ小運河と住宅街に抜けられるようになっており、中庭というより通路を兼ねた共有空間といった感じだ。
建物の間からのぞく運河を、小船がゆっくり横切ってゆく。屋根で羽を休める白いハトは、サンマルコ広場から流れ飛んできたものだろうか。陽だまりに足を踏み出すと、髪をすいて通り過ぎる涼やかな朝の風――。
ゆうべのことは全部夢だったんじゃないだろうか。そう考えかけて庭の隅に目を移したとき、その願望ははかなく消えた。
井戸のそばに座り込んでいるのは、バンダナで右目をおおったグレコローマン衣装の少女プルチーニと、トサカに赤い帽子を乗せた鶏イル・ヴェッキオだ。
「……何やってんの」
クリスが声をかけると、ぼんやりと空を見上げていたプルチーニはハタと顔を向けてきた。
「あ、くりすサン。ブォン・ジョルノ」
「いや、『おはよう』じゃなくて。何やってんの」
「星の数を数えていマシた」
「は?」
「ゆうべは空が晴れて、星がよく見えマシたから。一万二千八百四十二個までは数えられたんデスけど、夜が明けてしまいマシて。とっても残念デス」
クリスは頭をかかえた。何なんだこいつは。
「……ひょっとして、あれから今までずっと? 一人で?」
「スィ」
そうだ、と答えて、プルチーニは再び片方だけの目を空に向ける。
「ワタシ、眠らなくてもいい体デスから。長い夜は星の数を数えていマス。月の模様をながめていマス。人の寝息に耳をすまして、夜の空気を味わっていマス。五感を開けば、案外夜は楽しいんデスよ。本当のところ、眠っているなんてもったいないんデス」
本気か冗談か、感情の無いその顔からは全く読めない。いや、感情がないというより、何も考えていなさそうなのだ。それが近所に住んでいたボケ老人の表情にそっくりであることに気付いて、クリスはうんざりとなった。
「知っていマスか? 千年前より太陽は大きくなってるんデスよ」
「何が千年前だ。見てきたようなウソつくな」
「ウソじゃありマセん。見てきマシたから。この目で」
「……分かった。もう十分に分かった」
クリスはプルチーニに背を向け、中庭の出口に向かった。
「どこへ行くんデスか?」
「教会」
「今日は日曜日じゃないデスよ」
「ミサに行くんじゃない。神父様に会いに行くんだ」
「はあ……何のために?」
クリスはがばりと振り向き、プルチーニを激しく指差した。
「決まってるだろ! 神父様に言いつけてやるんだよ! ここに魔女がいます、焼き殺してくださいって!」
果たして、プルチーニは表情一つ変えないまま、小首をかしげた。
「ワタシ、魔女じゃないデスよ?」
「ウソつけ。おいら知ってるぞ。魔女は何百年でも生きのびるし、使い魔を連れて空を飛んで、子供を一飲みにしちまうんだ」
「見てきたような口ぶりデスね」
「見たことあるさ。昔、街の広場で火あぶりにあってたもの」
魔女狩りは、ジェノヴァでも年に一度か二度は行われていた。教会に告発された魔女に三角帽子をかぶせ、罪を告白させた後、火刑にするのだ。クリスが最後に見たのは、ソプラーノ門前の広場で火あぶりにされた魔女だった。拷問で歯を抜かれ、手足を折られたその魔女は、どう見てもただの村娘にしか見えなかったが、教会が裁判で魔女だと言ったら魔女なのだ。
そう考えると、目の前の少女が首を折られて生きていることにも、自分を連れて空を飛んだことにも納得がいく。どうだ、と息巻くクリスに、プルチーニはしばし考えるふうをした。
「見たことがあるものは信じる、と」
「そうさ」
「じゃ、アナタは神様を見たことがあるんデスか」
クリスは一瞬あぜんとした。
「……なんだって?」
「ノ。何でもないデス。別にいいデス」
プルチーニはぷい、とそっぽを向いた。
「ちょ、待てよ、今聞き捨てならないことを」
「どうぞ聞き捨ててくだサイ」
「そ、そういうわけにはいかないだろ! 待てよ、無視するな!」
なおも食い下がるクリスに、プルチーニはうるさいなあ、とばかりに眉をしかめた。
「ホモー・ホミニー・ルプス」
「……は?」
「ローマの格言デス。『人間は人間にとっての狼』。人はみな狼の中にいマス。くりすサン、もちろんアナタも。それに比べれば、仮にワタシが魔女だとしても、かわいいものじゃないデスか」
「へ、屁理屈だよ、それ」
「屁でも糞でも理屈は理屈デス。……あ、お手洗いが終わりマシたね、イル・ヴェッキオ。ちゃんと後片付けもするんデスよ」
かたわらにいた鶏のイル・ヴェッキオは、すっきりした顔つきで「クェー」と答えると、器用に土を蹴って自分の糞を隠した。どうもおとなしいと思ったら、用を足していたらしい。
「ところで、そろそろ本題に入っていいデスか」
「何、本題って」
「アナタのお仕事を中止してもらうことについて」
またその話か、とクリスは顔をしかめた。
ゆうべ、大聖堂から逃げ出したクリスたちが駆け込んだのは、人気の少ないこのカナレッジョ地区の宿屋だった。隅っこの部屋を取り、どうにか一息ついたと思う間もなく、この少女は「お仕事するのをやめてくだサイ」と頼み込んできたのである。
疲れ果てていたこともあり、返事もそこそこにベッドに沈み込んだクリスだったが、こうもしつこく言われてはたまらない。そもそも頼みごとの意図が不明だ。
「あのさぁ……何でお前がおいらの仕事に口を出すんだよ。大体、仕事って何なんなのか、分かってるの?」
「スィ。聖体の破壊と、元首の暗殺デショう」
「分かってるなら、なおさらだよ。大体、何で……」
そこまで言いかけて、クリスは青ざめた。
大体、何でこいつはあの時、あの棺のそばにいたんだ。少なくとも警備をしていたわけじゃない。後をつけられた覚えも、先回りされた気配もなかった。
そもそも自分の仕事が暗殺だなどと、一言たりとも言ったことはない。あの状況なら盗賊だと思うのがせいぜいだろうに――。
すると、プルチーニは心を見透かすように言ってきた。
「あの時はデスね、聖堂の中で待ち伏せさせてもらってマシた。閉館の前に、建物の中に隠れて夜までずっと」
「でも、おいらたちが聖体を壊しに行くなんて、分かるわけないじゃないか」
(くりすサンがそう言ってマシたから)
「嘘だよ。人前でそんなこと言うわけ……」
クリスはハッと気付いた。
プルチーニは言葉を発していない。ただ、しゃべる形に口を動かしただけだ。
「そういうことデス。読話は裏のお仕事ではよく使われる手段デスから。あ、でもワタシは別に裏のお仕事をしてるわけじゃないデスよ。千年も生きていれば、これくらいのことは自然に見につくということデス」
クリスの脳裏に、昨日、大聖堂の下見に行ったときのことが蘇った。
「あ……あのとき、聖堂にいた変な格好のヤツ!」
「変な、と言われるのは心外デスが、くりすサンと……ええと、どめにこサンを見たのは、たしかにその時デス。聖堂にいたのは本当にたまたまだったんデスけど、物騒な話をしている人がいるな、と思いマシて」
「それで、おいらたちを力づくで叩きのめした、ってわけか」
「話しかけようとしたのに、先に飛びかかってきたのは、そっちじゃないデスか。ワタシ、結構怖かったんデスよ。つい反撃してしまうくらい」
「つい、でヘドを吐くほど殴ったり、壁に叩きつけたりする、普通?」
「女の子に手をあげてあれくらいで済むなら、安いものだと思いマスが。それに、落ち着いたらきちんと話をしようと思ってたのに、変に抵抗するから、警備の人たちが来てしまって……ああ、やっぱりくりすサンたちが悪いんじゃないデスか」
それは違うだろうと思いつつ、クリスは押し黙った。こいつには何を言っても通じそうにない。
「とにかく、言うことは聞けない。もう行くよ」
「教会に、デスか?」
クリスは少し考えた。
「……やめとく。仕事も片付けてないんじゃ、神様にあわせる顔がないや」
踵を返しかけて、ふと思いついた。
「一つだけ聞いていい?」
「スィ。何デショう」
「どうしてゆうべはおいらを助けたのさ。暗殺をやめさせたいなら、あの場で警備に引き渡すなり、殺すなりしたらよかっただろ」
「助けてほしそうな顔、してマシたから」
「……」
クリスはしばらく黙り込んだ後、一言を残して中庭を去った。
「……ありがとう」
しばしきょとんとした後、プルチーニはやはり何も考えていないような顔で呟いた。
「いい人デスね、くりすサン」
イル・ヴェッキオが相づちを打つように、クエッと鳴いた。