(2)
ぶ厚い雲が街を闇におとしいれている。ヴェネツィアの夜は、絶好の暗殺日和だった。
午前二時、サンマルコ大聖堂。テラスの鍵を壊し、クリスはそっとガラス戸の中に忍び入った。
出たところは、二階の正面口。昼間に見た天井のモザイク画は、暗闇にまぎれてしまって何も見えない。
階下に目を移せば、堂内の一番奥、祭壇の前にロウソクを持った男が二人。法衣に長棒をたずさえた格好から見て、聖堂の警備にあたっている者たちだろう。ロウソクの弱い光は彼らの足元しか照らさず、向こうからこちらが見えている様子はない。反対にこっちからは向こうがまる見えだ。
後ろ手に合図をし、ドメニコを招き入れる。堂内の暗さは予想以上で、間近にいる彼の口の動きすら見えづらい。階下の警備たちを認めたドメニコは、手振りで二手に分かれるよう指示を出した。
聖堂の正面から奥へ、左右に分かれて音もなく進む。二階の壁際を走り、ドームの内壁を伝い、中央祭壇の上までたどりつく。警備の二人は壇前の階段に腰をおろし、眠気覚ましの無駄話をしている。
「ふあ~」
彼らのあくびが合図になった。クリスたちは同時に階下に飛び降り、それぞれの相手を石畳に叩き伏せた。
鈍い音がして、警備員達が力なく横たわる。
(やばっ)
ちょっと力の加減を間違えたかもしれない。倒した相手の顔をのぞきこみ、死んではいないのを確認して、クリスはほっと息をついた。隣を見ればドメニコの相手も気絶しているだけらしい。二人は今の音で誰かが来ないかしばらく探ってから、ゆっくりと立ち上がった。
マスクを外し、棺に向かい合う。
倒した拍子にロウソクが消え、堂内の闇は一層濃くなった。自ら発光するようなパラ・ドーロの無数の宝石だけが、おぼろに闇を切り取っている。
二人は棺に近づき、蓋に手をかけた。抵抗するような重さのそれを、渾身の力で持ち上げる。どうにか横にずらすと、棺の中から六百年の時を越えた聖遺物が姿をあらわした。
古く黄ばんだ布にくるまれた人間の体。顔も胴体も見えないが、布の盛り上がり方から小柄な人物であることは見て取れた。
裏の仕事ばかりか、聖歌隊としても遺体に接することは多いクリスである。何だか普通だな、と思った瞬間、心の底にこびりついていたわずかな恐怖は消え去った。
何の事はない。ただの死体だ。後は中身をひき千切って、ばらまくだけ――。
そっと手を伸ばし、布を剥ぎにかかる。
と、ドメニコが肩に手をかけてきた。その目は、祭壇の奥に向けられていた。
「兄ぃ?」
続けてクリスも目を見張る。
何かが――誰かがいる。
一体いつからそこにいたのか。一つの人影がたたずんでいた。
クリスの夜目をもってしても姿形は分からない。肩から下がった長衣のシルエットが、そう大きくもない体をおおっているのが見えるだけだ。
経験の差か、迷いは一瞬だったろう。ドメニコは、棺を飛び越えてその影に襲いかかった。獰猛な獣のように相手の首を掴み、そのまま床へと押し倒す。
と見えた次の瞬間、クリスは目を疑った。
ドメニコが宙を飛んだ。いや、飛ばされた。
自分の頭上を越え、兄貴分の巨体が堂の中央まで弾き返されたのである。
「なっ……?」
ごろりと転がる兄貴分に目を移したのが命取りだ。
ぞわりと悪寒を感じたかと思ったときにはもう、クリスのみぞおちにもの凄い拳撃がぶち込まれていた。
「げふっ!」
うめき声とともに胃液を吐き出し、クリスはその場に膝をついた。かろうじたもたげた瞳に映ったのは――再び影に飛びかかるドメニコだ。
腕と腕が交錯する。相打ちとなり、しかし、後ろにのけぞったのはドメニコだけ。バランスを崩した彼に向かい、影が追撃の拳を伸ばす。
それがドメニコの狙いだった。一瞬にしてバランスを立て直すと、相手の腕をかいくぐって間合いに入り、肩に飛び乗りざま両脚で首を挟みこむ。次の瞬間、
――ごぐん。
異様な音が堂内に響いた。
挟んだ首を軸に体を前転させ、頚椎をねじ折ったのである。ドメニコが転がって離れると、影は二、三歩とまどうように進んでから、がくりと膝を落とした。頭が背中の側にぶら下がっているのが、シルエットからでもはっきり分かった。
痛む腹を押さえながら、クリスはふらふらと立ち上がった。兄貴分に声をかけようとして、しかし、うろんげに眉をひそめる。
かすかに見えるドメニコの顔が、見たこともないほどこわばっていた。
「兄ぃ……?」
そしてクリスは、彼が仕事の最中に声を出すのを初めて見た。
「逃げろ、クリス」
悲鳴だった。
「こいつは人間じゃねえ!」
ぶわりと影が伸び上がった。膝立ちの姿勢からいきなり立ち上がり、ドメニコへと殺到する。迎え撃つ彼と手を組んで――
砕いた。ドメニコの悲痛な叫び声と手の骨を砕く音が、クリスの耳にもはっきりと聞こえた。
影はそのままドメニコをぶん投げ、壁に叩きつけた。カエルのように壁にくっついた体が、ずるずると力なく床に落ちた。
「あ……あ、あ……」
呆然と立ちつくすクリスの前で、影の頭がぐぐ、と動いた。折れてぶら下がっていたはずのそれは、見る間に持ち上がり、ごきりと音を残して元に戻った。
ひきつる喉からクリスがしぼり出せたのは、たった一言だけだった。
「バケモノ……」
「助けて!」
悲鳴が上がったのは、聖堂の正面入口だ。先ほど倒した警備の一人が、いつの間にか正面の扉まで這いずって移動していた。
「だ、誰か来てくれ! 賊だ、盗賊だ!」
たちまち人の声と足音が連なって近づいてくる。
と、そのとき壁際で一つの人影が立ち上がった。ドメニコだ。
「兄ぃ」
口元が皮肉らしく歪んでいるように見えた。
「……へ。やっぱりそうだ。見ろよ。神様なんていやしねぇ。福音なんて、救いなんてありゃしねえんだ、この世の中には!」
ドメニコは折れた腕をかばいつつ、壁の上に飛び乗った。二階の暗闇にその姿が消え、テラスの窓が割られる音が聞こえた。
しばらくの間、クリスは認めることができなかった。
兄ぃが逃げたのだということを。
任務が失敗したのだということを。
見捨てられたのだ――ということを。
「そんな……」
膝から力が抜けた。クリスはがくりと床の上に座り込んだ。頭の中は真っ白になっていた。
手をついたそのすぐそばに、化け物の足がひたり、と近づいた。靴ははいておらず、意外なほど白い肌が暗闇の中であらわになっていた。
「……殺せよ」
モザイク模様をめぐらせた床が目に入る。どうせ死ぬのなら、火あぶりの台よりもこの素晴らしい聖堂の中のほうがいい。きっと天国には行けないだろうけど。
目を閉じかけたとき、突然床が遠ざかった。体が浮いている――天国に行けるのか。
そう思ったのもつかの間、腹に強烈な痛みがよみがえって、クリスは現実に戻された。影が自分を脇に抱え、どこかに連れ去ろうとしているのだ。
警備隊のもとへ、ではない。向かっているのは聖堂の奥、パラ・ドーロのさらに向こう側だ。人間一人持ち上げているとは思えない速度で廊下を突っ切り、壁をよじ登って二階に出る。しかしそこはモザイク壁がそびえ立つ袋小路だ。
「な、お前、どこに……むぐっ!」
クリスの口を無理矢理に塞ぐと、影は壁面の一箇所を肘で押した。ごごん、と壁が横に開き、仰天するクリスを抱えたまま、影は中へと進んでゆく。
こいつは誰だ。いや、何だ。棺のそばに音もなくひそみ、首を折っても死ぬことなく、おまけにこんな隠し道まで知っている。
とある考えが閃いて、クリスは慄えた。
そうだ、こいつは――いや、この人は、聖マルコの化身に違いない。
福音の聖者が、ヴェネツィアの守護聖人が、遺骸を壊そうとする自分に怒って降りてきたのだ。そして今から、拷問手も死刑執行人も異端審問官も想像のつかないくらいひどいやり方で、自分をこらしめようとしている。
これは――神罰だ。
たどりついたのは、屋根の上だった。
雲は相変わらず月をおおい隠し、巨大な体を空に横たえている。風の消えた冷たい空気は、まるで黒い氷だ。
大聖堂の五つのドームが、裁判官のように周りに立ちはだかっている。見下ろせば、サンマルコ広場にも反対側の道にも警備の人間が集まり、とうてい逃げ場は見出せない。
いや、もう逃げることなど考えなくていいのだ。
「聖マルコ様……」
クリスはかたわらの影に向かって呟いた。
「おいら、逃げないよ。さわいだりも暴れたりもしない。こっから飛び降りろっていうんなら飛び降ります。首を吊れっていうんなら吊ります。そんなんじゃ許せないっていうんなら、聖マルコ様の好きなようにしてください。……でも、一つだけ、お願いを聞いて」
涙の代わりに、懸命に声をしぼり出す。
「おいらはどうなってもいいから、ドメニコ兄ぃだけは見逃してあげてください。兄ぃは、神様がくれた仕事をしてただけなんだ。今までたくさん人を殺して、これからも殺すかもしれないけど、それは神様がそうしろって言ったことだから。もしそれがいけないことなら、その罪はおいらがかぶります。勝手なお願いかもしれないけど……だから、どうかお願いです。兄ぃだけは、助けてあげてください」
影は何も答えなかった。クリスを見下ろしているのか、それともどこか遠くを見ているのか、それすらも分からない。闇の中で、ただ人形のようにたたずんでいるだけ。
不意に涼やかな声が聞こえた。
「イル・ヴェッキオ」
クリスは驚いて顔を上げた。声はたしかに影から発せられ、しかも女のものだったのである。
それに答えて、クリスの背後から小さな影が飛び出してきた。
「クェー」
「うわっ!」
思わずのけぞるクリスを横切ったそのシルエット、そして鳴き声は――。
「に、鶏?」
一陣の風が頭上にのしかかる雲に切れ目を入れた。暗幕の隙間から半分の月が現れ、やわらかな光のヴェールを垂らしてくる。色を取り戻した世界で、クリスは影の正体をたしかに見た。
エメラルドグリーンの瞳。透けるようなその輝きは、しかし、端正な顔の中に一つしかない。右の目は華やかな刺繍をほどこした赤いバンダナにおおわれ、そのバンダナはそのまま頭に幾重にも巻きついていた。無造作にくくった後ろ髪の、なんという美しい銀色だろう。月の光を跳ね返す、騎士の剣のようなきらめきにクリスは心を奪われた。
「イル・ヴェッキオ。いい子にお留守番していマシたか」
鶏は女の足元にひょこひょこと歩み寄り、クェーと返事を返した。よく見れば、その頭にはトサカを包み込むように、ツバなしの赤帽子がかぶせられている。
「聖、マルコ、様……?」
「ノ。ワタシの名前はプルチーニ。こっちは鶏のイル・ヴェッキオデス」
呆然とするクリスに、女は舌足らずなイタリア語で答えた。
女――プルチーニが、氷の上を滑るようにするりと近づいてくる。びくりと震えるクリスの手を取り、
「あっ……?」
舐めた。
赤い舌が、手の甲を柔らかく這い回った。
よく見れば、そこにはさっきの立ち回りで負ったと思われる傷がついていた。だが、クリスは「痛い」でも「染みる」でもなく、自分の血を舐め取る女の顔を見つめているだけ。
やがて女はクリスの手から口を離した。そして、緑の瞳を真っ直ぐに向けて、こう言うのだ。
「ではここで一つ、なぞなぞデス」
「……え?」
「いたみやすくて壊れやすい。ころころころころ転がるばかりで、いつまでたっても立ち上がれない。それは何デショう」
澄んだ夜風に揺られながら、クリスは考えた。
こいつはおいらを、どうする気なんだろう。一体おいらを、どこに連れて行こうというんだろう。
頬を撫でる夜風は冷たく、今さらのようにせり上がってきた手の痛みはひどく現実的で、しかし、目の前で起こっている出来事は夢のようだった。
クリスは一度まどろむように目を閉じてから、ただ一つ、思いついたままの言葉を口にした。
「卵……?」
次の瞬間、体を縛める重みが解けた。
プルチーニがクリスに抱きつき、そのままの屋根の外まで押し出したのである。
声を出さなかったのは、驚きのあまり叫ぶことすらできなかったからだ。女の肩越しに見える月が、あっという間に遠ざかってゆく。
いや、違う。
月が近づいてくる。半円の光が、視界の中で大きくなってゆく。体が――体が浮き上がってゆく。
飛んでいた。羽も無いのに、鳥のように夜空を滑っていた。
「しっかり捕まってくだサイ。でも、変なところ触っちゃ駄目デスよ」
クリスを抱きかかえながら、プルチーニが呑気な台詞を吐く。その背中では、鶏のイル・ヴェッキオがくちばしで体の身づくろいをしていた。
顔をおおうプルチーニの胸が、ほのかな光を放っている。白でも黄色でもない、ぼんやりとした明かりが、瞬く間に心を安らげたのはなぜだろう。風切るでもなく、舞い上がるでもなく、緩やかな弧を描いて二人と一匹は空を飛んでゆく。
やがて一行は、小運河沿いの路地に降り立った。大聖堂の喧騒は、もうはるかに遠ざかっていた。
プルチーニはクリスをそっと抱え下ろすと、乱れた衣を軽く直した。胸元の光は、何事もなかったように消えている。
へたり込むクリスに、少女は白い手を伸ばした。
月光の下。銀髪の妖精。空を飛んで。
まるでおとぎ話。
「くりすサン、千年生きたワタシが一つ教えてあげマス。アナタは神サマの操り人形なんかじゃありマセん」
差し出された手をぼんやりと見つめながら、クリスは考えた。
おいらは、これからどこに行くんだろう。こいつはこれから、おいらをどこへ連れて行くんだろう――。
そっと握った少女の手から、人の温もりが伝わった。