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千年ヒヨコと宇宙の卵  作者: 古池ケロ太
西暦1464年 ヴェネツィア
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西暦1464年 ヴェネツィア(1)

 潮が引いた。

 ところどころに水たまりを残す昼下がりの広場に、人が集まってくる。屋台が並び、物売りが声を上げ、大道芸人たちが踊りをはじめる。眠っていた街を揺り起こすように、大鐘楼が重い音を響かせた。

 ドメニコは水たまりを踏み越えながら、鷲のような鼻を冬晴れの空に向けた。

「いやはや、びっくりしたなあ。一時は街が海の底に沈んじまうんじゃねえかと思ったぜ」

 ヴェネツィアに到着したクリスたちを迎えたのは、アクア・アルタと呼ばれる高潮だった。アドリア海の水位がせり上がって、街中が膝の高さまで水につかるのだ。海に浮かぶヴェネツィアならではの現象だが、そんなことは知らないクリスたちは水びたしの光景に驚いたものだった。

 サンマルコ広場は、東にサンマルコ大聖堂をのぞみ、三方を回廊に囲まれた美しい広場だ。長方形の敷地には石を敷きつめてあるが、高潮のときはその下から水が染み出してくる。

 大聖堂前の柱の上からは人々を見下ろすのは、翼の生えたライオン像。このライオンはヴェネツィアの象徴で、共和国の国旗にも描かれている。

「うわわっ! 見てよ兄ぃ! 何あれ!」

 クリスの指差した先、広場の中央に巨大な檻があった。観光客向けの見世物だろう。中にいるのは、大きなトラだった。

 クリスが目をむいたのも無理はない。ジェノヴァにも見世物が出ることはあるし、トラを見るのは初めてではない。だが、その檻の中にいたのは、全身が白い毛皮でおおわれたトラだった。

「はぁ~。おいら、こんなの初めて見たよ。さすがヴェネツィア」

 人垣の後ろから伸び上がるようにして白いトラをながめ、感心するクリス。

 一方のドメニコは、トラよりも弟分のはしゃぎようを見て苦笑いを浮かべる。

「まったく元気だな、お前は。ジェノヴァから五日も歩きづめだったってぇのに、疲れるそぶりもねぇ」

「だって、見るもの全部が珍しいんだもの。うわ、すごいよ、あれ。わわ、あっちも!」

 広場には食い物の出店や見世物屋が続々と出はじめている。客引きの威勢のよさも、人出の多さもジェノヴァにはないものだ。

「やれやれ……ま、十三のガキが笑いたいときに笑えるんだから、文句はねぇか……」

「もし! そこのお方!」

 突然、背後から声をかけられる。満面の笑顔を浮かべた若い男が、すぐ後ろに立っていた。

「はい、何でしょう?」

 振り向いたドメニコは、顔も口調も一瞬にしてよそゆきのものに変わっている。だが男は、クリスのびっくりした顔を見て、警戒されたと思ったのだろう、大仰に両手を振って見せた。

「やややややややや! 決して、決してあやしい者ではございません。わたくし、この街のトロマーリオでございます」

「トロマーリオ?」

「はいな。いわゆる観光案内人と申しますか、あなたがたのような巡礼の方々をお手伝いする役目でございまして……あの、失礼ですが巡礼に来られた方でいらっしゃいますよね?」

 クリスたちは一目で巡礼者と分かるローブを着こんでいた。身分を偽るにしても、この年で商人というのは無理がある。聖地巡りをしている男二人というのが偽装としては最も都合がよかった。

 ドメニコはおだやかに頷いた。彫りの深い顔からはいつもの軽さが消えており、どこからどう見ても思慮深い修道士の顔である。

「行き先はイェルサレムで?」

「まさか。トルコとの戦争で、行こうとしても行けるものじゃないでしょう」

「それはようございました。いえね、外国の方の中には、こんなときでも聖都に参ろうとする方もおられますので。ということは、ヴェネツィアの教会巡りだけ、と」

「あの、すみません。宿の斡旋でしたら間に合っていますので。大きな声じゃ言えませんが、懐の具合も寂しいかぎりでして」

 しかし、トロマーリオはにこりと笑った。

「その点についてはどうぞご心配なく。わたくしどもトロマーリオは、ヴェネツィア共和国の公務員でございます。街の案内も、宿の斡旋も、お買い物のお手伝いも、全てお代はいただかずにやらせていただきます。巡礼の方、外国の方、ヴェネツィアを訪れる全ての方々に不自由なく過ごしていただくのが、共和国の、ひいてはわたくしどもの願いでございますので」

 クリスは驚いた。役人が観光案内をするなど、聞いたこともない。

 見てみれば、広場の出店の中には巡礼者のためと思われる古着や雑貨を売っているものが多いし、ドイツ語やフランス語の客引き声もしょっちゅう聞こえる。巡礼や観光目的の外国人が落とす金は、この国にとって大きな収入なのだろう。

「ははあ、お役人さんが街の案内をね。それじゃ一つ、お願いしますか」

「ありがとうございます! さっそくですが、サンマルコ大聖堂へはもう行かれましたか?」

「いや、まだです。とりあえずそこの案内からお願いできますか」

 はい、とにこやかに返事をして、トロマーリオは広場の一角に建つ聖堂へと歩き出した。

 広場の中は人も多いがハトも多い。足元にまとわりついては飛び立っていく鳥たちの間を、すり抜けるようにして進んでゆく。

「それにしても驚きました。街に入った途端、道という道が水びたしになってるんですから」

「ははは。アクア・アルタは毎年夏ごろの恒例行事なんですが、今の時期にも気まぐれのように起きるんですよ。お二人はどちらから?」

「ミラノから来ました」

 ジェノヴァから、とは答えなかった。もっともドメニコはミラノの生まれなので、半分は嘘ではない。

「そちらは弟さんですか?」

「あ、は、はい。兄ぃ、じゃなかった、兄さんと一緒に教会巡りを」

「そうですか。若いのに感心なことですなあ。そうそう、サンマルコ大聖堂の由来についてはご存知ですか?」

「ええと……いえ、あんまり知りません」

「それはいけない。では、ご説明いたしましょう」

 トロマーリオはごほん、と咳払いをした。

「そもそもサンマルコ大聖堂は、ヴェネツィアの守護聖人たる聖マルコを祀るために立てられた教会です。守護聖人とは、国や街にゆかりがあって、その地を守ってくださる偉い信徒のこと。たとえばローマでは聖パウロが守護聖人ですし、ご出身のミラノでは聖アンブロジウスがそれにあたりますな。ヴェネツィアにはもともと他の守護聖人がいたのですが、今を去ること六百年前、この街の商人がエジプトはアレクサンドリアから、イスラム教徒たちの暴動に巻き込まれそうになっていた聖マルコの御遺体を持ち帰り、彼を守護聖人としたのです。何といっても聖マルコは福音書を記したお方。格で言えばキリストの直弟子たる十二使徒に次ぐ位におられるわけですからな。今でも大聖堂の祭壇の下には御遺体が安置されており、街を大いなる力で守ってくださっています。なんともまあ、ありがたい話でございますな。――おっと、長話をしている間に、聖堂の前まで来てしまいました。まずは正面の見事な装飾をごらんになってください」

 近づいてみれば、大聖堂の威容は目を見張るばかりだった。正面には五つの入口があり、それぞれの上部にもうけられたアーチとレリーフの美しさは、ジェノヴァではとうていお目にかかれない。二階には見事なブロンズの馬像が並べられており、テラスに上った人々がため息まじりに鑑賞している。

 そこから上に目を移すと、球根のような形のドームが見えた。

「聖堂は、上から見るとちょうど十字架の形をしていましてね。ドームはそのど真ん中と周りの四方にもうけられているんですよ。どうです、見事なものでしょう。ささ、次は中へとお入りください」

 何となく自慢げなトロマーリオにうながされて、入口をくぐる。

 その途端、クリスはその場に立ちつくした。

「すげえ……」

 まるで絵の中に入り込んだようだ。

 石造りの柱も天井も、全てがモザイク画で埋めつくされている。窓から刺しいる光の加減のせいだろうか。純白のファサードとは対照的に、堂内は静かな黄金の光で満たされていた。

「足元にお気をつけください。アクア・アルタの時は聖堂内にも水が入りますから、床がうねっているんです」

 見下ろしてみれば、大理石の床はたしかに平らではなく波打つようにゆがんでいる。しかし、そこにもびっしりとモザイク模様が描き込まれているため、そのゆがみさえ計算された意匠のうちに思えてくる。

「あの、これ、踏んでいっていいんですか?」

「はは、どうぞどうぞ。罰なんて当たりませんから。さ、中へ」

 おそるおそる床を踏み歩きながら、奥へと進む。壁や天井に描かれているのは、聖マルコがアレクサンドリアから運ばれてくる様子だという。見上げれば、吹き抜けになった二階部分の壁にも、やはり金色のモザイクが張りめぐらされていた。天井が凹型に大きくへこんでいる部分は、外から見えたドームの内壁だろう。そこに描かれた聖人たちの像は、すっくと立ち上がって自分たちを見下ろしているように思える。

 聖堂を訪れるのは、やはり巡礼の人が多いらしい。同じようなローブを着込み、聖人の像が描かれたモザイクを見れば、胸元で両手を合わせている。

「おい」

 ドメニコが脇をつついてきた。声を出さず、読話で話しかけてくる。

(ボサッとしてる場合じゃねえぞ。ちゃんと間取りを覚えておけよ)

 そうだ。自分たちはここに下見に来たのだ。実のところ、ジェノヴァを出る前から、聖堂の見取り図は穴が開くほど見ている。ただ、実物を見る機会があるなら探っておくにこしたことはない。

 クリスは分かってるよ、と目で返事をした。

 やがて、聖堂の最奥にたどりついたところに、それはあった。

 中央祭壇に飾られた、恐ろしくぶ厚い石の棺。

 すえた気を発する聖マルコの棺の前で、クリスたちは立ち止まった。

「驚きましたね。聖人の棺まで公開していいんですか?」

「はい。何といっても聖遺物の存在は教会の格を高めるものですから。この他にもキリストの十字架の木片やら聖ジョルジョの頭の骨やら、まあ、いろいろ。ここだけの話、観光も街の大きな収入源でございますから、出し惜しみするわけにはいかんのですよ」

「なるほど……こら、クリス。聞いてるのか?」

 ドメニコが再度脇をつつくのに、しかし、クリスはぼんやりとして応えなかった。その目は棺の向こう、中央祭壇の裏側に向けられていた。

「おお、さすがお目が高い。あれこそ当サンマルコ大聖堂、いや、ヴェネツィア共和国の至宝、パラ・ドーロでございます」

 トロマーリオが腕を伸ばして指し示した先に、黄金に光る衝立があった。

 絵のようにも見えるがそうではない。金板の打ち出しに無数の宝石をはめ込んで、浮き彫りを作っているのだ。磨きぬかれた宝玉に、七宝を使った聖人の像たち。想像もつかないほどの富と技術を収斂した、それは確かに至宝だった。

「そもそもこのパラ・ドーロは十世紀にコンスタンティノープルで作られはじめ、四百年もの時をかけて完成したものでございます。千三百粒の真珠、四百のガーネット、三百のエメラルドとサファイア、四十のアメジスト、ルビーなどで飾られたビザンチン美術の最高傑作。ま、人様が作ったものを十字軍遠征の際に持ち帰って飾っているわけですからこうして大声で解説するのもはばかられますが……ええと、もっと近くでご覧になりたいのでしたら、これから先は有料ということに相成りますが」

「いや、結構」

 聖マルコの棺だけが目的のドメニコがあっさり答えると、トロマーリオはがくりと肩を落とした。やはりそれなりの商売っ気はあるらしい。

「さて、それじゃ堂内の他のとこを案内してもらうか……おいクリス、いつまで見とれてる」

 クリスはいまだ棺の前に立ちつくしている。見ているのは、実はパラ・ドーロの金色の輝きではなかった。 

 衝立の前に人がいる。こちらに背中を向け、パラ・ドーロの金細工をじっと見つめている。ただの巡礼者なら気にも留めなかっただろうが、その風体がひっかかった。

 まるでローマの巫女だ。

 純白の垂れ布をまとい、左肩から引っかけるように紫色の長衣を着ている。足首まで丈のあるチュニックをはいており、その下は素足だ。顔は分からないが、長い髪から見て、女であるらしい。

 他の人間とは明らかに違う、どこか浮世離れした感じが、妙に気にかかった。

(おい、こら。ちゃんと棺を観察してろ。本番でどう開けるか分かりません、じゃすまねえんだぞ)

 ドメニコはクリスの肩を掴み、唇だけで話しかけた。トロマーリオは気付いていない。

(分かってるってば、ドメニコ兄ぃ。ちょっと別のとこを見てただけだよ)

(まったくボケっとしやがって。この後は元首の暗殺も控えてんだぞ。しっかりしてくれよ)

「分かってるって。それより兄ぃ、何だろ、あの人……」

 声を出して指差すのに、ドメニコは面倒くさそうに答えた。

「あん? あー、こんだけ人がいりゃ、変わった風体のヤツだって混じってるだろうよ。それより行くぞ、まだ見るところはたくさんあるんだ」

 含みを持たせた言葉に、クリスはあいまいに頷いた。

 そうだ、変なことに気を取られてる場合じゃない。

「……神のおぼし召すままに」

 自分に言い聞かせて、祭壇を去る。

 ――ふと、女の視線を感じたような気がしたが、気のせいだろう。



 

 黒雲が晩陽をおおい隠す、暗い夕暮れ時。窓の外では、冬枯れの木々がおびえるようにざわざわとさざめいている。

 街のほぼ中心に位置するサン・ポーロ教会。クリスたちは、ここをヴェネツィアでの宿泊場所にしていた。

 巡礼者は地元の教会からもらった証文を持っていけば、少しの寄付で泊めてもらえる。この教会も、二人が巡礼の兄弟という触れ込みでデュナン神父の証文を持っていくと、快く部屋を貸してくれた。もちろんここの神父は彼らが暗殺者であることなど知るよしもない。

「今夜、行くぜ」

 ベッドに腰かけて靴の手入れをしながら、ドメニコが言った。

 クリスにも異論はない。半月ではあるが、これだけ雲が厚ければ問題はないだろう。

 八日前、デュナン神父から言い渡された仕事は二つだった。

 ヴェネツィア共和国元首クリストファー・モーロの暗殺。そして、サンマルコ大聖堂に眠る聖人・聖マルコの遺骸を破壊すること。

 その手はずとして、デュナン神父はまず聖体を壊し、その破片を街中にばら撒くことを命じた。聖マルコはヴェネツィア人の心の支えである。それが八つ裂きにされたあげく無残に放り捨てられたとなれば、街中の混乱はすさまじいものになるだろう。その隙をついて、今度は元首の首を狙う――という計画である。

「……にしても何だ。また変わった依頼を受けちまったなぁ、神父様も。人間以外のモンを標的にするなんて、初めてのこったぜ。しかもとうの昔に死んでるものをまた殺すってんだから、笑い話にもなりゃしねぇ」

「何だよ、兄ぃ。さっきはおいらにしっかりしろとか言っておいて……まだ迷ってるの?」

「そういうわけじゃねぇ。だがよ、クリス。お前、この仕事のウラってヤツを考えたことがあるか?」

「ウラ?」

「そうさ。お前は見てないだろうがな、この仕事を依頼してきたのは、軍人だ。諸聖人の日のもっと前に、懺悔室から神父様と一緒に出て来たのを見たことがある。あのガタイも目つきも、軍人以外の何者でもねえ。それもミラノなまりがあった」

 ミラノでは長い間、君主の継承問題で内乱が続いており、ドメニコが孤児となったのも両親が戦の犠牲となったためである。恨み重なる軍人の風体を、彼が見間違えるはずはない。

「だが、どうにもワケが分からねぇ。何でミラノの軍人がわざわざジェノヴァにまで出向いて、ヴェネツィアの守護聖人を壊させようとするんだ?」

「知らないよ、そんなこと。しっかりしてくれよ、兄ぃ。失敗したら神罰が下るんだよ」

「神罰だぁ?」

「そうさ。神様のくれた仕事なんだから、失敗したら罰として雷が降ってくるんだって、前に神父さまが言ってた。そしたら天国にだって行けなくなっちまう。おいらやだよ、そんなの」

 ドメニコはふん、と鼻を鳴らした。

「おい、これだけは言っとくぜ。今度ヘマをかましたら、神罰どころか先輩たちが俺らの首を狙いに来るんだぜ」

 クリスはぎくりと目を見張った。

 先輩とは、暗殺者として神父に育てられ、その腕を買われて貴族や政府の子飼いとしてもらわれていった孤児たちである。クリスとは面識がないが、各地で暗躍し、今でもデュナン神父の要望があれば無償で言うことを聞くという。

「な、なんで先輩たちが……」

「当たり前だろうが、そんなもん。お前がこの道に入ってもう三年だ。その間何べん機会があっても殺しができねえ、そんなヤツに神父様がいつまでも甘い顔してると思うか? のんびり行こうとかじっくり構えろとか言ってるがよ、そういう時が一番危ねえんだ、あの人は」

「じゃあ、これが最後の機会……」

「そういうこった。ま、今回に関しちゃ、片っ方は人じゃねえわけだからそんなに……おい、クリス。お前ビビってるのか?」

 ベッドに腰かけるクリスの膝頭は震えていた。

「怖いよ、兄ぃ……おいら、おいら、どうしよう」

「クリス」

「言ってくれよ、兄ぃ。『神のおぼし召すままに』って。そしたらおいら、どんなときでも力が出るから」

 しかしドメニコは福音を口にしてはくれず、代わりに天井を見上げながら静かな声を出した。

「前に仕事についちゃあな、俺にも責任はある。お前はあの子を殺ろうとした。それを止めたのは俺なんだからな」

 意外な言葉にクリスは顔を上げた。

「おいら、兄ぃに怒られてるのかと思ってた。目撃者を消すのをためらったから、だから蹴り倒されたんだって……」

 そのときのドメニコの目は、クリスが見たこともないほど悲しいものだった。

「あの子はお前が殺すべきじゃなかった。それだけだ」

「……」

「クリス。信じることと考えないことは同じじゃねぇんだぜ。両手を合わせて祈るだけが、生きることじゃねぇんだ」

 なぜ兄ぃは今日に限ってこんなことを言うのだろう。ドメニコの横顔が誰か知らない人間のように思えて、クリスは切なくなった。

「どうしたんだよ、兄ぃ。いつもは余計なこと考えずに仕事に集中しろっていうくせに。何か今日は変だよ」

「うん? そうか……変か」

「そうだよ。『人には頭が一つしか無ぇ。一つしか無ぇ頭ん中に、三つも四つも考え事を詰め込みゃあ、失敗すんのは当たり前だ。やると決めたらやることだけ考えろ。余計なことは全部頭ん中からとっぱらえ』って。兄ぃの口癖じゃないか」

 自分の口真似をする弟分に、ドメニコはくっくっとおかしそうに笑った。

「そうか、そうだな。俺らしくもねぇ……。よし、仕事に備えて仮眠とるぜ。お前ももう寝ろ」

 どかりとベッドに寝転がる。

 木々を揺らす風はいつの間にかおさまり、サン・ポーロ小運河のせせらぎだけが部屋を満たしていた。

「きっとこの街が静か過ぎるんだな。いろんなことを考えちまう。考えすぎるくらいに……」

 ドメニコはそう呟くと、木枯らしのような寝息を立てはじめた。

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