(3)
新月の夜が来た。
月の光はなく、家々も灯りを消した。宵っぱりの酒場から漏れるロウソクの光の他に石畳を照らすものはなく、野犬の遠吠えと打ち寄せる波の音だけが、暗闇を揺らしている。
その闇の中、のっそりと二つの影が立ち上がった。頭から足先まで黒ずくめにかためた二人は、マスクの間からそこだけを出した目で、貴族屋敷の壁を見上げた。
グリマルディ家は銀行業を営む、ジェノヴァ屈指の大貴族である。街そのものが衰退しているとはいえ、その屋敷の壮麗さにはいささかのかげりもない。そそり立つ茶褐色の壁をゴシックの彫刻が飾り、窓枠の一つ一つにまでほどこされた細かな装飾は目を見張るばかりだ。
巨人のようにたたずむ屋敷のファサードを見上げ、クリスはごくりと唾を飲んだ。
隣の大男が肩をつついてくる。クリスと同じくマスクですっぽりと顔をおおったドメニコは、屋敷の横道を無言で指差した。
こくりと頷き、二人同時にそこへ駆け込む。羊の皮を底に張った靴は、石畳の上でも全く音を立てない。
屋敷の陰でしばらく身をひそめ、周りに人気が無いのを確かめると、クリスたちは壁にとりついて屋敷を登りはじめた。
速い。垂直に天突く壁を、道具もなく蜘蛛のように這い上がって行く。装飾の多い外壁は、その分でっぱりが多く、手足をかける場所も確保しやすい。ものの三十秒で、三階建ての大屋敷は二人の侵入者に踏破された。
平らな屋根に立てば、のしかかる夜が黒ずくめの衣装を呑みこんだ。街中のどこから見ても、クリスたちの姿は見えないだろう。
口元をおおう布を引き下げた途端、十一月の夜風が唇を撫でた。あやうく声をもらしそうになるのを我慢していると、ドメニコが再び肩をつついてきた。
(どう思う、クリス)
マスクを外した口だけを動かし、声は出さない。仕事のときだけに使う読話、つまり読唇術を使う者同士の会話である。
(どう思うって、何が)
(昼間に来たあのジジイだよ。ドーリアかスピノラの人間だろうが、ありゃあ)
ドーリア家とスピノラ家はともにジェノヴァの大貴族である。両家がしばしば手を組んで街と国の覇権を狙っていることは、この街に住む人間なら誰でも知っている。そしてそれに対抗しているのがフィエスキ家、そして今侵入しようとしているグリマルディ家の共同戦線。四家が二派に分かれて争いを繰り返し交互に実権を握っているのが、共和国とは名ばかりのこの国の実情だった。
そんなありさまだから、仕事の口には事欠かない。実際、半年前の仕事と言うのがグリマルディの依頼だったのだから、皮肉というよりお笑いぐさである。
(明日にはもういっぺんグリマルディから依頼が来るな、こりゃあ)
(笑ってる場合じゃないよ、兄ぃ)
(いやいや、俺ぁ真剣だぜ。何しろグリマルディの当主をやるんだからな。今度こそ刃物持ち出しての戦になるかもしれねえ。街の命運はこの手の中にってわけだ)
その言葉で、ふと考えた。
もし戦争になったら、人が死ぬ。そうしたら、自分のような孤児がもっと増えてしまうかもしれない。それって――。
その先の考えを、クリスは首を振って打ち消した。
(関係ないよ。この仕事は神様からもらったものなんだ。だったら何があってもやり遂げなきゃ)
(神の思し召しのままに、か)
(そうだよ、神の思し召しのままに)
唇を動かしながら、クリスは体の内に力が湧いてくるのを感じた。声にしなくても、口で形作るだけで勇気をくれるこの言葉こそ、福音というやつに違いない。そうだ、そうに違いない。
意気を上げるクリスに、ドメニコはふと悲しげに目を向けた。が、次の瞬間にはもう獣のように瞳を燃えたぎらせている。
マスクを上げて顔を隠し、二人は屋根の内側へしなやかな動きで移動した。
屋敷の内側はぽっかりと四角にくり抜かれている。そっと覗き込むと、噴水をたたえた中庭が見えた。
夜目のきくクリスが、さらに顔を突き出して様子を見る。庭に突き出した二階のテラスに、ローブを着込んだ一人の老人がたたずんでいた。かたわらのテーブルには小さなグラスとワインの瓶がある。
髪の色、顔かたちに背格好、そして何より就寝前のこの時間帯、一人きりでワインをたしなむ癖――神父が下調べしたグリマルディの当主に間違いない。
テラスの奥からはひそやかなロウソクの光が漏れているが、他に灯りのついた部屋はない。クリスは振り向いて相棒に目くばせを送った。ドメニコは一つ頷き、体を乗り出した。
全ては一瞬だった。
ドメニコはヒョウのように身を躍らせて飛び降りると、主人を床に押し倒して馬乗りになった。と同時に、その腕はローブの襟をつかんで首を絞めあげている。驚いた主人が声を出そうとしても、閉じた喉からは息一つ漏れない。
「……っ! っ……!」
ばたばたと暴れる主人の腕が、テーブルの足に触れた。石造りの床に向かって、グラスと瓶がまっ逆さまに落ちる。
クリスは床に転がりこみながら、それを拾い上げた。間一髪。この静けさの中、瓶が割れでもしたら、すぐさま人が起きだしてくるところだ。
なおも抵抗を続ける主人の喉に、ドメニコが指をあてがう。クルミの殻をもはさみ割る、親指と人差し指だ。
次の瞬間、ごきん、と音がしたかと思うと、主人の体は小さな痙攣を残して動かなくなった。あまりにもあっけない仕事の終わり。命の終わり。
クリスは膝立ちで瓶をかかえたまま、その様子を見つめた。だらしなく広がった主人の四肢の上で、ドメニコは十字を切っている。マスクの内側で「アーメン」と唱えるその行為が、殺めたものに対する形ばかりの礼儀だと思ったとき、胸に風穴が開いたような気がしたのはなぜだろう。
「だんな様……?」
鈴のような呼び声が背筋を凍らせた。
振り返れば、部屋の入り口の扉に手をかけて立ちすくむ少女の姿。
考えるより先に体が動いていた。クリスは花瓶を放り出し、少女を床に組み伏せた。
おそらくは暗闇でまともに見えていなかったのだろう。少女はようやっと状況を察して声を上げようとしたが、クリスの手はドメニコがやったのと同じように、彼女の襟口をつかんで声を奪っている。
ナイフを喉元につきつけたところで、思考がようやっと追いついてきた。うかつ。何といううかつ。ぼんやりと見ている暇があれば、扉を閉めに行くべきだった。
見られてしまったからには、生かしておけない。ヘマをやらかした責任は、自分でとらなければならない。
この家の召使いだろうか。組み伏せた体の大きさはクリスと同じか少し小さいくらいで、目をこらせばおびえる顔が見えてくる。
床の上に散らばった浅黄色の長い髪に、空気を求めてあえぐ小さな唇、そしていっぱいに見開かれた、どんぐりのような大きな瞳。
(ああ――)
クリスは強く目を閉じた。
何でだ。どうしてこんなことになるんだ。よりにもよって。
少女の目は恐怖に固まっている。この闇の中、しかもマスクをかぶっている自分の顔はバレてはいないだろう。
だが――。
ナイフを持つ手から、力が抜ける。
途端、視界が恐ろしい速さで横にぶれた。首が折れるかと思うほどの衝撃とともに、体が床に投げ出される。頭を蹴り飛ばされるのだと分かったときには、もう少女の喉笛にはドメニコの足ががっちりと食い込んでいた。
「兄ぃっ……!」
思わず声を出してしまってから、クリスは口をおおった。吹っ飛んだ拍子にマスクが脱げてしまっていた。
喉を踏みつけられて声もない少女。しかし、涙でうるんだその瞳は、こちらに向けられていた。暗闇の中、彼女は自分の顔を認めただろうか。
どうか気付かないでいてほしいと目をつむりながら、クリスは首の骨の折れる音を聞いた。
■
主よ 永遠の安息を彼らに与え
絶えざる光でお照らしください
神よ シオンではあなたに賛歌が捧げられ
エルサレムでは誓いが果たされます
私の祈りをお聞き届けください
すべての肉体はあなたの元に返ることでしょう
主よ 永遠の安息を彼らに与え
絶えざる光でお照らしください
冬枯れの芝が、聖堂の裏手にある庭をおおっている。膝の上に組んだ腕に顔を沈め、クリスは流れてくるレクイエムから逃げた。
葬送曲を捧げられているのは、グリマルディ家の主人である。ときおり聞こえるすすり泣きは、突然の不幸に悲しむ遺族のものだろう。十一月二日――『死者の日』に葬儀が開かれるとは、まったく冗談にもならない。この上もし当の教会が暗殺を請け負ったのだと知れば、遺族たちはどんな顔をするだろうか。そう考えるにつけ、クリスの心は暗くなった。
神父のとりなしで、クリスは歌唱隊から外された。体の具合が悪いからという理由は、あながちウソではない。ドメニコに蹴られた頭はまだ痛むし、何より少女の最期を思い出すたび目はくらみ、腹の底から吐き気がわき上がってくる。
少女はただの召使いであるから、主人と同時に葬送されることはない。だがどこからのつてか、聖歌隊の仲間たちは彼女が亡くなったことを知っており、それこそ腫れ物を触る感じで接してくれた。ということはつまり、彼らは少女を殺した張本人が自分であることを知らないのだ。それどころか、自分が暗殺者であることも。
クリスはべそをかいたような顔を上げた。鐘楼はやはり何一つ変わらない顔で、今日もジェノヴァの曇り空を突き刺している。
この教会は孤児院としての顔と、そしてさらにもう一つ裏の顔を持っている。すなわち、暗殺者の養成所である。
集めた子供の中から見込みのありそうな、つまり身のこなしに優れ、夜目のきく者を選んで極秘の特訓をほどこすのだ。そうして人殺しの技を身につけた者は、神父の請け負った依頼を遂行して、報酬を教会に還元する。しかも神父はミサや懺悔を通じて街の人間関係に精通しているので、情報に事欠くことは無い。グリマルディの当主など、標的リストの筆頭に書かれていたことだろう。
今孤児たちの中で暗殺の役を担っているのは、ドメニコとクリスだけである。二人がことさら鐘楼など高いところの掃除を任されるのも、特訓の一つに違いない。
冬風に鳴るマロニエの葉を見上げながら、クリスは考えた。
自分はあの少女のことが好きだったんだろうか。数ヶ月前、ミサであの子を見かけ、ただ「かわいい」と思った。そう思うだけで、その気持ちの正体が分からないでいた。
そして分からないまま、あの子は死んでしまった。
――違う。殺したんだ。おいらが。
もう一度、腕の中に顔をうずめる。
ドメニコは、今日も変わらずオルガンを弾いている。死者を送るパイプオルガンの音色は重く、それでいて涙の出るほどに神々しかった。
兄ぃは、どうしてこんなにオルガンを上手く弾くことができるんだろう。
鍵盤を叩く指は、主人の喉を潰した指。ペダルを踏む足は、少女の首を折った足。それなのに、いつもと何も変わらない美しい曲を弾きこなすことができる。そのことが、クリスにはひどく辛かった。
兄ぃの心が分からない。いや、分かるはずがない。
なぜなら自分は、今まで人を殺したことなどないのだから。
「クリス」
気がつけば、デュナン神父がすぐ後ろに立っていた。
「あ、神父様……葬儀は?」
「もう終わりましたよ。遺族の方も、墓地に向かわれました。聖歌隊のみんなが君を見ていたのに、気づきませんでしたか? みんなひどく心配していましたよ」
神父はクリスの隣の芝生に腰を下ろした。
「また殺せなかったそうですね」
穏やかな口ぶりに、しかし、クリスは体の内から凍えるような気がした。
「ごめんなさい……神父様」
「ふむ。半年前もその前も、最後の最後でドメニコに任せてしまったとか。そろそろ慣れてくるころだと思っていたのですがね……まあ、焦っても仕方ありません。じっくり構えていきましょう」
はい、と答える声に力は無かった。
「浮かない顔をしていますね。よければ私に打ち明けてみませんか」
「おいら、寄付なんかできないんですけど……」
「ははは、身内からお金を受け取る神父がいますかね。それに寄付とは富める人だけが望んだときにやればいいことです」
神父の顔はいつも通り、虫も殺さないおだやかな笑顔だ。
クリスの悩みはもちろん仕事についてのことである。命じた張本人にそれを打ち明けるのは筋違いだろうが、今の神父を見ていると、昨日逆さのロザリオをかかげた人物とは別の人間に見えてくる。それはすなわち、この教会の表と裏の顔そのものだった。
「それじゃ、いいですか」
「はい、どうぞ」
「おいら、どうしたらいいのか分からないんです。聖書には『人を殺す者は裁きを受けなければならない』って書いてあるのに、でも、神父様は暗殺が神様から与えられた仕事だって……親のいないおいらたちに神様が生きる道を指し示してくれたんだって言って……だから、その……」
「つまり矛盾している、と?」
「そう、です」
神父はふむ、とあごの下を撫でた。
「君は罪と犯罪の区別がついていませんね」
「罪と、犯罪……?」
「そう。人を殺めることは犯罪です。では、罪とは何か? それは心の中にあるものです。憎しみ、恨み、怒り、ねたみ、つらみ……そういう感情を持つこと自体が人間の罪なのです。犯罪とは、それが行動としてあらわれた結果にすぎません。さぁ、答えてください、クリス。君はあの少女を手にかけるとき、彼女を恨みましたか?」
「いえ……」
「では、ねたみましたか? 怒りを覚えましたか?」
「そんなこと、思ってもいません」
「では、何を考えていましたか?」
クリスは少し考え、答えた。
「神様のことを考えてました」
神父は我が意を得たりとばかりに微笑む。
「そう。人はみな生まれながらにして罪を背負っているものです。でも、それを認めて心の中を神で満たせば、必ず罪は赦されます。そして罪を赦されたものが犯罪を赦されないはずはないでしょう。クリストファー、神のしもべよ。君はもう赦されているんですよ」
言葉は砂に滴る水のように、心に染み込んだ。クリスは風渡る青空を見上げた。
「分かりました、神父様。おいら、もう迷いません」
「はい。お願いしますよ。神のおぼし召すままに」
と、そこへドメニコがやってきた。
「神父様、葬儀の後片付けが終わりました」
「ああ、もう終わりましたか。では二人にお話をすることにしましょうか
神父は立ち上がり、二人の暗殺者を交互にながめ回した。懐から取り出したのは、逆さにしたロザリオだ。
「昨日の今日で申し訳ありませんが、ヴェネツィアに行ってもらえますか」
「ヴェネツィア? ……仕事ですかい」
「その通り」と答え、神父はもう一方の手を挙げた。芸術家のように細い指を二本、ぴっと立てて見せる。
「標的は二人。ヴェネツィア共和国元首クリストファー・モーロ。そしてヴェネツィアの守護聖人、聖マルコです」