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千年ヒヨコと宇宙の卵  作者: 古池ケロ太
西暦1464年 ジェノヴァ
3/17

(2)

 西風がリグリア海を波立たせれば、ジェノヴァの街にも短い冬がやってくる。

 鐘楼に登った途端、海からの風に吹きつけられて、クリスは思わず身をすくめた。

「おいおい、情けねェな。今からそんなザマじゃ、年の瀬には一歩も教会から出られなくなっちまうぞ」

 クリスよりも一段高いところで鐘を拭きながら、ドメニコが笑いかけてくる。鍛えられた長身は、まるでポセイドンの彫像だ。

 クリスより七つ年上だから今年で二十歳だが、彫りの深い顔に無精ひげを生やしているせいで、とてもそうは見えない。童顔のクリスと並べば、親子にも見えてくるくらいである。

「おいらが情けないんじゃないよ、兄ぃ。今年はウソみたいに寒いんだもの。何か悪いことが起こるに違いないよ」

「バカ。こんなモン、寒いうちにも入らねェよ。お前がひ弱すぎるんだ。ああ、風がぬるいぬるい」

 ドメニコはジェノヴァの生まれではない。ここより北、ミラノ公国のさらに北端にある村から流れてきたのだという。確かにアルプスから吹き降ろす風に比べれば、地中海の海風など生ぬるいくらいだろうが、それにしても十一月にもなって半袖のシャツに皮のタイツだけという格好はどうかしている。

 鐘を拭く手を一時休め、クリスは生まれ育った街を見下ろした。

 ジェノヴァは西にリグリア海、東にアペニン山脈をのぞむ海港都市だ。街中を走る道は山から海へ下りるように作られており、自然、その多くが坂道となっている。教会前の広場からソプラーナ門の円柱をくぐりぬけ、さらに坂を下ればジェノヴァ港。波止場へ出入りする帆船は、今日もまばらだ。かつて地中海の覇権を握っていたころはひっきりなしに船が往来していたというが、東のヴェネツィアとの争いに敗れてからは見る影もない。

 とはいえ、お年寄りの話を聞くと、これでもずいぶんましになったらしい。ここ数十年、北イタリアは各国が小競り合いを繰り返しており、陸も海も交易が途絶えがちだった。そこへ十年前、オスマントルコが東ローマ帝国を滅ぼしたという報がヨーロッパを揺るがし、大慌てで和平が結ばれた。以来、商船の行き来も増えるようになったそうだ。

 クリスが戦争で両親をなくし、教会へ引き取られたのはまさにその十年前だった。

 この教会は、孤児院としての顔も持っている。神父が親に捨てられた子や戦争で両親を失った子たちを拾い、読み書きや歌などを教えながら育てているのだ。そうして大きくなった子供たちは教会を出て職人のもとに弟子入りしたり、他の教会で働いたりすることになる。――そういう設定になっている。

「ところで、さっきの嬢ちゃんにもらったのァ、何だったんだ?」

 突然聞かれて、クリスは雑巾を取り落とした。

「何びっくりこいてんだ。見られてないとでも思ったのか?」

「う……」

 とんだ恥っかきだ。クリスは赤くなりながら、ベルトにくくりつけていた包みを開けた。中に入っていたのは、ふわふわとした生地に包まれた菓子だった。

「フリッテッラか! 良かったな、大好物じゃねえか」

 フリッテッラとは、卵と小麦粉を混ぜて油で揚げたものである。卵は貴重品なので、菓子とはいえ庶民がそう簡単に口にできるものではない。

「うん? どうした、うかねえ顔して。うれしくねえのか? きっとお手製だぜ」

「そんなことないけどさ……何か、全部が全部いきなりで、おいら、どうしたらいいのか分かんないよ」

「お前、気づいてなかったのか? あの嬢ちゃん、ずいぶん前からお前に気があったみてえだぞ。ミサのたんびに前の列に並んでよ、こう、お祈りの間にチラチラと」

「え、そうなの?」

「まったく鈍い野郎だなぁ、お前は。顔は悪くねえんだから、ちったぁ色気づけばいいものを。それにひきかえ、大したもんじゃねえか、向こうは。諸聖人の日に思い人に贈り物なんざ、最近のガキはしゃれてるってェか、垢抜けてるってェか」

「笑い事じゃないって。神父様にも見られちゃったし、後で何て言われるか……。大体おかしいよ、あの子も。女は教会の中でしゃべっちゃいけないんだ」

 ドメニコは肩をすくめた。

「なぁ、クリスよ。お前は教会の子供らの中でもいっとう信心深い。朝晩のお祈りは欠かしたことがねェし、聖書の文句も全部覚えてる。俺ァあの教会に十二年もいるが、お前くらい規律を守ってるやつは見たことがねェ。だが世の中には加減と要領って言葉があるんだ。そこんところを柔らかく考えてだな」

「硬いも柔らかいもあるもんか。決まりごとは決まりごと。規則は規則」

「は。なら、たとえばミサの途中で信徒のバアさんがぶっ倒れて、何か最期に言い残そうとしてるってときでも、お前は『女は教会でしゃべるな』って怒るのか? そのバアさんの孫娘が横にいて、ワンワン泣いても叱るわけか?」

 う、と詰まるクリス。

「た、たとえが極端すぎるよ、兄ぃ。あの子の場合は、別に命がかかってるわけじゃないじゃないか」

「バカヤロー、好いた相手にぶつかるときゃあ、誰だって命がけなんだよ。ましてやお前、向こうは女じゃねェか。きっとご主人様の目を盗んでプレゼントを渡す隙を狙ってたんだぜ。はいでもいいえでも答えてやらなきゃ男じゃねェだろ」

「……」

「とにかく返事は考えとけよ。会う間がねぇってんなら次のミサでもいい。神様だって見逃してくれるさ」

 その言葉はクリスの逆鱗に触れた。

「神様は見逃したりしないよ!」

 つい声を荒げるクリスに、しかし、ドメニコは深くため息をついた。

「やれやれ……信心深いのもカタいのも、ほどほどがちょうどいいってことだな。にしても、神様も人の悪事ばっかりに目を向けてねぇでよ、この景気の悪い世の中をどうにかしてほしいもんだぜ」

 兄ぃ、ときどきこんなふうに神様をバカにするようなことを言う。孤児たちの中で一番長く教会にいるのに、どうしてそんなことを口にするんだろう、とクリスは不思議に思った。

 ドメニコはふところからクルミの実を取り出すと、親指と人差し指の二本だけで硬い殻を割った。中身を口に放り込み、黒い瞳を遠くリグリア海のかなたへと向ける。

「主はとこしえに王でいらせられる。あなたの神は代々に王なり。ハレルヤ――ってか」




 掃除を終えてドメニコと一緒に礼拝堂に入ったとき、クリスははっきりと嫌な予感がした。

 堂内には誰も残っておらず、部屋の隅にある懺悔室の中にだけ人の気配があった。木彫りの家具のような狭い部屋、その扉には逆さにしたロザリオがかけられている。

 仕事の印だ。

 扉が開き、中から黒衣をまとった初老の男が出てくる。よく手入れされたひげや背筋の伸びた立ち姿。どこかの貴族の使用人だろうか。クリスたちの姿に気づき一瞬うろたえた様子をするが、すぐさま笑顔を取りつくろってみせる。

「おや、もう掃除は終わりましたか」

 懺悔室の反対側から、司教が顔を出した。やはり老人は仕事の客だ。ただの懺悔であれば、告白する側とされる側が顔を見せあうはずはない。

「ちょうどよかった。紹介いたします、この者たちが仕事の請負人です」

「何……こんな子供が?」

 神父の紹介に、老人の笑顔はたちまち吹き消えた。しかし神父はまったく準備をしていたように、言葉をつむいだ。

「年は若いが、腕のほうは確かです。特に大きいほうの彼はたいそう信心深い男でしてね。これまで仕損じたことはありません」

 老人はしばらく値踏みするように二人をながめ回していたが、やがて神父の方へと振り返った。

「……いいでしょう。デュナン神父。私どもが信頼するのは年齢ではなく実績です。誰であろうと、依頼を完遂してくれればそれで構わない。よろしくお願いしますよ」

「はい。心安らかにお待ちください」

 祝福の按手を受け、老人は足早に礼拝堂を去った。神父は逆さのロザリオを取り、懐にしまった。

「あの……神父様、今のは、仕事の……」

 クリスがおそるおそる聞くのに、神父は「はい、そうですよ」と、何でもないように答えた。胸の奥底がしくりと痛んだ。

「標的は……?」

「グリマルディ家。名家ですねぇ」

 安穏とした口調の神父に対して、クリスの顔は悪い。

「不安ですか、クリス?」

「あ、いえ。ええと……」

 大丈夫です、とは言えなかった。何しろ半年ぶりの仕事である。しかも相手はジェノヴァを代表する名門中の名門だ。

「少し、怖いです……」

 すると、神父はのっぺりとした顔をにこやかにほころばせた。

「そうでしょうね。当然のことです。ですが、心配ありませんよ。これは父なる神と主イエスから与えられた仕事。すなわち、あなたたちには神のご加護があるのですから」

 それを聞いた途端、クリスの顔色が一変した。

 曇った瞳から霧が晴れ、背筋がぴんと伸びる。そしてどこか陶然とした表情のまま、高らかに叫ぶのである。

「は、はい! 分かりました、神のおぼし召すままに!」

「よろしい。ドメニコ、あなたもお願いしますよ」

「へいへい……了解しました」

 一方のドメニコは、どこか憮然とした表情。

 デュナン神父は開け放った玄関から見える、薄曇りの空に細い目を向けた。

「なんともはっきりしない天気ですね。今日は仕事がはかどりそうだ」

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