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西暦1494年10月 大西洋

「クリス! クリスはいるか!」

 荒々しい声を上げながら、ファン・デ・ラ・コサ船長は船室の扉を開けた。

 頭のつっかえそうな狭い部屋の中は、燭台一つで十分に照らしきれる。ほのかな灯りの中で、壮年の男がゆで卵の殻を一心に剥いでいた。

「おい、クリス! クリース!」

「待て、最後の一剥きだ……よっと」

 きれいに皮を剥き終わると、クリスは船長の赤ら顔をうんざりと見上げた。

「うるさいぞ、ファン。今何時だと思ってる」

「その言葉、そっくりそのまま返してやる。おいクリス、今何時だと思ってる。夜の十二時だぞ、十二時! もう日付は変わった。あとたった一日しかないんだ、分かってるのか?」

 イスパニア人らしく情熱的に怒鳴るファン船長。対して、クリスはてんでとりあう様子がない。ロウソクのもとでつや光る卵を満足そうに見つめるだけだ。

 ファンはテーブルの向かいに腰を下ろすと、クリスが口にしかけた卵をひっつかんで一口にほおばった。

「あっ、何すんだ!」

「ほむっ……ふん、のんべんだらりとしてるとどうなるか、呑気者のジェノヴァ人に教えてやったのさ」

「まさか、また暴動が起こったんじゃあるまいな」

「そんな大げさなものじゃないがね。ま、ちょっとしたケンカさ。私が仲裁に入ってなんとかおさまったが、どいつもこいつも相当イライラ来てる」

「しょうがないな。明日、いやもう今日か……今日のうちに見つからなかったら帰ると約束したじゃないか」

「だからそれすらも待てんほど気が張ってるんだよ。なんせ連中ときたら、次の瞬間にも世界の果てに落っこちるんじゃないかと思ってるんだから」

 クリスは「やれやれ」と頭を掻いた。

 世界が球形であることは、知識人の間ではほぼ常識である。だが多くの船乗りたちは、いまだに海の向こうは巨大な滝となっていて、真っ直ぐ進めば落っこちてしまうと信じているのだ。

「なあ、クリス。いや、提督。本当にどうするんだ。ここで引き返せばパロスの港からの一ヶ月が全部水の泡になるんだぞ。いや、それだけじゃない。イザベラ女王だって次の機会を与えてくれんかもしれん」

「ならポルトガルのジョアン王に頼むさ」

 ファンは神経質な顔の彫りを一層深めた。

「クリス」

「……すまん、冗談が過ぎたな」

「いや、いいさ。なあ、クリス。これはこの船の持ち主でも船長でもなく、君の友人として聞くんだが……君はどうして海を渡ろうとするんだ?」

「あん? そりゃああれだ、新航路を発見すれば金と名誉がわっさわっさと……」

「見くびるな。何年付き合いがあると思ってる。そんな欲だけでできることじゃないだろう、これは」

 はぐらかそうとしたところに釘を刺され、クリスは苦い顔をした。 

 確かに、思えばひどい苦労をした。ポルトガル王に出資を断られ、カスティーリャでは地方貴族のもとを転々とし、女王の承諾を足かけ五年も待ち続けた。

 たとえ成功を収めても、失うものはある。

 もし西回りでアジアへ行く航路が発見されれば、東回り、すなわち地中海やトルコを通って交易を行う国々はひとたまりもなく滅びる。その中には生まれ故郷のジェノヴァも含まれる。

「それでもいいのか、君は? なぜそこまでして海を渡ろうとする?」

 クリスは懐から布を取り出し、しばしながめた。細かな刺繍のほどこされた、色あせたバンダナ。それはこの変わり者の船乗りがいつも肌身離さず持っているものだ。

「……約束を守るためさ」

「何?」

 聞き返すファンには答えず、窓の外の暗闇に目を向ける。

 船はゆっくりと波間をかき泳いでいる。同行しているあと二隻も同じような鈍行だろう。陸を離れて三十五日。初めのうち吹き荒れていた逆風は、サルガッソ海を抜けた途端にぴたりと止んだ。まるで、ここから先はお前たちの力だけで進めとでもいうように。

 クリスはかたわらのカゴの中からもう一つ卵を取り出すと、それを指先でもてあそんだ。

「ファン」

「ん」

「さて、ここで一つなぞなぞです」

「あん?」

「いたみやすくて壊れやすい。ころころころころ転がるばかりで、いつまでたっても立ち上がれない。それは何でしょう」

「人の運命」

 クリスは二の句も継げなかった。

「卵とでも答えると思ったか? 君の考えることくらいお見通しさ。変に叙情的なところがあるからな」

「そう、かな……?」

「そうとも。たまにとってつけたようなクサい台詞を吐くことがある。人から聞いたのをそのまま自分のものにしてしまったような」

「……」

 すっかり恥じ入り、テーブルの上で卵を転がすクリス。船乗りらしい肉厚の手の中で、楕円が踊る。その様子を見つめながら、ファンは不意に頬をゆるめた。

「まあ、人から聞きかじったにしても、今のはなかなかだな。人の運命は卵のごとし。転がるばかりで立つこともなし、か。まるで今の我々のようだな」

「違う」

 思いがけないほど強い返答に、ファンは驚いた。

「違う……そうじゃない。そうじゃないと、信じたいんだ。運命は転がるばかりだけれど、人はそれに従うだけじゃない。いつか立ち上がることができるということを、私は信じたいんだ」

「くりす……」

 しばし卵をもてあそんでから、クリスは不意に目を見開いた。

「そうか……」

「どうした?」

「そうか……そうか。そういうことだったんだな。はははははははは!」

 呆然と見つめるファンの前で椅子を蹴倒し、クリスは笑いながら床を転げ回った。

「そうだ、それでいいんだ! こんな簡単なことだったんじゃないか! ははは、はははは!」

 一筋の光さえ無い海の上を、サンタマリア号はゆっくりと進んでゆく。



「陸地が見えたぞ――――!」

 悲鳴に近い水夫の声が、白んだ空に響き渡った。

 サンタマリア号の乗員たちが、半信半疑の様子で甲板に出てくる。半月前にも、海に浮かんだ雲を陸地と勘違いして、空騒ぎが起こったところだったのだ。

 しかし、まだほの暗い西の水平に見間違えようのない緑の隆起を認めたとき、彼らの顔に喜びが爆発した。

「やった……やったぞ! とうとうたどり着いたんだ!」

「ジパングだ! 黄金郷だ!」

「うおおおおお――――っ!」

 次々と甲板に駆け上がる船員たち。もう非番も何も関係なく、叫びを上げて船首に殺到する。大西洋の明けの空が、涙まじりの大歓声に揺れる。

「提督!」

 船室から出て来たクリスの姿を見た途端、全員が静まり返った。

 それは、遺恨のためではない。陸を後にして一ヶ月、彼らは文句を言いながらも、この変わり者のジェノヴァ人を心では信頼していた。

 白く澄んだ水平線に目をこらし、クリスは一つ息をついた。隣ではファンが感動に打ち震えている。

 固唾を呑んで言葉を待つ船員たちを、ゆっくりと見回す。わざとらしいほどの間を置いて、提督は口を開いた。

「諸君――」

 しかし、一言を口にした途端、クリスの喉は熱い渇きでいっぱいになった。胸の内が震えに満たされ、つんとした痛みがしたたかに鼻を打つ。耳の奥に響いたのは、数十年前のあのときから一度も忘れたことのなかった声。

 ――くりすサン、約束を……。

「……プルチーニ」

 口の中で呟いた言葉は、船員たちには届かなかったのだろう。一言も聞き漏らすまいと息をひそめる彼らを見たとき、クリスは用意してきた言葉の全てを忘れた。

 声を絞って出せるのは、ただ一言しかなかった。

「グラツィエ……グラシアス。ありがとう、みんな」

 甲板の上に歓声が爆ぜた。

 水夫帽や砂袋が放り投げられ、空が喜びで満たされる。荒くれ男たちは真っ黒な顔を涙でくしゃくしゃにしながら、口々に祖国をたたえた。

「カスティーリャ万歳!」

「イザベラ女王万歳!」

「万歳! 万歳!」

 ファンはクリスの腕を取り、天高く掲げると、友の名を高らかに叫んだ。

「クリストファー・コロンブス提督――万歳!」

「提督万歳!」

「万歳! 万歳! 万歳!」

 クリスは涙をぬぐい、はるかな西の地平に瞳をめぐらせた。

 十全な世界などいらない。神の奇跡など必要ない。

 人が人の力でもってたどりついた、不完全な世界。人はまた同じことを繰り返すのかもしれない。

 だがそれでいい。そうしながら人はまた、前へと進んでいくのだから。

 クリスは懐から卵を取り出すと、先端を叩いて潰し、甲板の上に置いた。

 卵は転がることなく、その場でしっかりと立ち上がった。

「これでいいんだろう、プルチーニ――」

 クリスの呟きに応えるように、涼やかな風が帆を揺らした。

 東の水平線から、煌々と朝日が立ち昇った。

というわけで完結です。


よもやこの終わり方は予想できるまい……って石を投げないで! 無理すぎるのは分かってるから! 

でもどうしてもやりたかったんです、「あの人だったのか」的な驚きの提供が。創作が現実の歴史と繋がるって、すごく気持ちいいと思うんですよね。


ちなみにこの人、史実では黄金のために先住民を殺しまくったり奴隷として連れ帰ったり、本当にロクでもない男でした。

だから美化する意図は全くないんですけど、せめてもうちょいロマンってものを持っててくれたらなぁ、と思ったのが創作のきっかけです。


長い話におつきあいいただき、ありがとうございました。

次の長編でもよろしくお願いいたします。

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