(12)
もうろうとする頭を押さえながら、路地裏を行く。幸い水はここまで伸びてはおらず、足音を聞かれることはない。
閃光を放って二人を助けた宇宙卵は、彼女の胸元に何事もなかったように収まっている。
プルチーニの手を引きながら走っていたクリスは、不意に足を止めた。
「う……うっ、う、あ……」
壁に肩をあずけ、片手で顔をおおう。狭い道に嗚咽が響いた。
「兄ぃ……う、ああっ……兄ぃぃ……うああん……」
兄ぃが死んでしまった。小さいころからずっとそばにいてくれた人が、自分のせいで――。
「くりすサン、ごめんなサイ」
「なんっ……ぐすっ……で、プルチーニが、うっ、あやまるんだよ……」
「ワタシのせいデスから。どめにこサンが死んだのもくりすサンが傷ついたのも」
「そうじゃない……そうじゃないって……」
ばしゃばしゃと激しく水を踏む音が、夜風に乗って聞こえてくる。澄んだ夜気のせいか、静まり返った街の中で警官たちの追う声だけがひどく長く響いていた。
悲しんでいる場合ではないとクリスは涙を拭いた。
「くりすサン……?」
「何っ?」
いぶかしむような声に、クリスはぎくりと振り返った。
「本当に大丈夫デスか? 何だかずいぶん息が荒いデスけど」
「ちょっと疲れただけだよ。何でもない。何でも……」
気付かれてはいけない。もし気付けば、プルチーニはきっとまた自分を責める。
腹からは、深々と突き刺さったボルトの尻が突き出している。先ほどの閃光の中、警官の一人が当てずっぽうに放った矢が当たったのだ。
この深さからして、先端は内臓を滅茶苦茶に食い破っていることだろう。止まる様子のない血、もうろうとする意識――もう長くはない。
体が震えてきた。繋いでいる手にそれが伝わらないよう、必至に奥歯を噛みしめる。
好きな人をかばって負った傷なのに、怖いと思うのはどうしてだろう。結局、それが自分の限界なのだろうかと思うと、情けなくなった。
ふと、プルチーニが顔を上げた。
「星が見えマス」
見上げれば雲は一片も残さず消え去っており、無数の星々が路地の上にただよっていた。
両目を失ったプルチーニに見えるはずがない。だが、今たしかに彼女の胸の中には、満天の星空があるのだ。それは、何千回、何万回と繰り返し見上げてきた刻の残像だ。
「プルチーニは……星の数を数えてたよね」
「スィ。夜の間、ずっと」
「空にはいくつ、星があるの?」
「さぁ……分かりマセん。星は増えたり減ったりしてマスから」
「星が増える……?」
「スィ。宇宙から見れば、千年なんてちっぽけなものデス。でもそんな短い間にも、星は生まれ、消えていきマス。役割を果たして」
そのとき、クリスの心から恐怖が消えたのは不思議なことだった。
生きているものは、皆死ぬ。星ですら生まれては消えてゆく。でもそれは空しさなんかじゃなく、役割を果たした結果なんだ。
ドメニコ兄ぃは犬死にしたんじゃない。役割を果たしたんだ。
なら、おいらも続かなきゃ。道を切り開いてくれた兄ぃと同じく、男の役目を。約束を。
――神様。
助けてくれなんて言いません。救ってくれなんて言いません。ずっと逃げ続けてきたおいらに、神様のお慈悲なんて下りるわけがないから。
ただ、勇気をください。ちっぽけなおいらに、それでも――それでも、誰かを守れるんだって思える心をください。
「プルチーニ」
呼びかければ、守るべきものは白く小さな顔を振り向けてくれた。
「おいらの言うことをよく聞いて」
「閣下! あれを!」
警官が叫びながら指し示す先に、モーロ元首は面を向けた。
運河から陸側に少し入ったところにあるサンティ・アポストリ教会。天を突くその鐘楼の頂上に、少年が登っていた。
「人形は?」
「いません。少年一人だけのようです」
すでに警官たちは教会前の広場に集っており、事の成り行きを見つめている。
「こちらも何人か登らせましょうか」
「いい。それより半分ほど人を割いて人形を探しに行け」
「ははっ!」
元首は鐘楼の前に歩み出た。そびえ立つ塔の上で腹ばいになりながら、少年はぼんやりと天を見上げている。
一体何をするつもりだ。
いつの間にか雲は去り、広大な川のような星屑が黒い海を断ち切っている。ときおり輝くきら星は、まるで砂金だ。
腹の傷から流れる血は、とめどなく鐘楼の屋根を汚し続けている。足の感覚はすでに無い。こんな体でここまで登ってこられたのだから、奇跡はすでに起きているのに違いないとクリスは思った。
鐘楼の高みから地上を見下せば、青白い月の下にひっそりと寝息を立てるヴェネツィアの街があった。
サンマルコ大聖堂。ドゥカーレ宮殿。リアルト広場。カ・ドーロ。サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会。メルチェリエ。カ・ペーザロ。アルセナーレ。カナール・グランデ。
プルチーニがこの街を綺麗だと言った意味が分かった。
ヴェネツィアを作ったのは人間の力だからだ。
何もない葦原に杭を立てて、泥を重ねて土台を作って、水が腐らないよう水路を通して。何度も洪水が起こって、家が倒れもしただろう。フランク人の襲撃、十字軍、他の国々との競争……いろんなことがあって、それでも今、ヴェネツィアはアドリア海に立ってる。誇り高く。
モーロ元首の言うとおりだ。ヴェネツィアは人間の街だ。世界一美しい街だ。
「ごめんよ、神父さま。この街は、おいらなんかじゃ手に負えなかった」
クリスは満足そうに呟き、大きな息をついた。命を吐きつくすような熱い吐息は、白く凍りながら天に昇った。
教会前の手狭な敷地は、こちらを見上げる警官たちで埋めつくされている。彼らのかかげるたいまつで、モーロ元首の寄せる眉のしわまでがよく見えた。
懐から取り出したものを、地上に向かってかざす。途端、元首の顔色はみるみる青くなった。クリスは愉快そうに笑うと、卵を一層高く振りかざして、渾身の大音声を放った。
「言われた通り、卵は壊してやる! これで依頼は果たしたぞ!」
広場には、騒ぎに目覚めた市民たちまでが集まり始めていた。寒さに襟元をかき合わせながら見上げる彼らには、一様に「何をしているんだ」という文字が書いてある。
クリスが続ける。
「金は要らない! その代わり報酬は別のもので払ってもらう! おいらの言うことを聞け、モーロ元首!」
警官の、続けて市民の視線が一点に注がれる。その中心で、モーロが唇を引き結ぶ。
「プルチーニには指一本触れるな! このまま街から逃がしてやれ! それから、船を用意しろ! ゴンドラじゃない、ヴェネツィアで一番大きい船だ! それにプルチーニを乗せて――のせて……」
不意に、クリスの声から力が抜けた。
「プルチーニを……乗せて……それから……それ、から……」
涙が噴き出して止まらない。口から嗚咽が漏れるたび、命そのものがこぼれ落ちてゆくよう気がする。
それでもこれだけは言わなくちゃいけない。おいらにはできないから。もう、果たせないから。
「船乗りを、貸してあげてください……。とびきり腕のいい船乗りを……おいらの代わりに、プルチーニを海の向こうに連れて行ってあげられる……ヴェネツィアで一番の……約束、を……まもっ、て……」
涙声は震え、途切れ、やがて消え去った。
元首は、しかし、にべもなく首を振った。
「見逃してやれ、と? あれは殺人鬼だぞ」
気力だけで、クリスが返す。
「プルチーニはもう、誰も殺しません……」
「だが罪はつぐなわれるべきだ。これまで犯した罪は」
「おいらが……つぐないます」
クリスの声には、一片の曇りもなかった。
「おいらが、今から、プルチーニの千年の罪をつぐないます。だから、どうかプルチーニを許してあげてください。どうか、海の向こうへ連れて行ってあげてください。お願いします。お願いします。お願いします……」
言葉の後半を、クリスは天に顔向けながら言った。それは元首に、というよりも、ずっと空のかなたにいる何者かへと向けられた願いのようだった。
温度の失われ始めた体をひきずり、鐘楼の端へと動く。体の半分以上が虚空に出ると、群衆の間からはどよめきが上がった。
今一度街を見回す。プルチーニはどこにいるんだろう。どこにいても自分の姿は見えないだろうが――だがそれでいいと思った。
「約束を果たすよ。プルチーニ」
体を前に押し出すと同時に、体を縛める重みが解けた。
永遠に。
その少年は、眠っているように見えた。
不思議と広場に混乱は起こっていない。悲鳴もざわめきも一瞬のことで、皆が呆然とその場に立ちすくんでいた。目の前で起こった悲劇と、その前の命をしぼるような叫びとのつながりを、理解しかねているらしい。夜が開けたら、悪魔憑きが飛び降り自殺をしただけだと説明しようと思いながら、モーロ元首は鐘楼の根元に近づいた。
「か、閣下。いけません、閣下がご覧になるようなものでは……」
「いいよ、別に。君たちは下がってて。僕が見るから」
堅苦しい言い方をするのも、何だか面倒くさい。検分をしていた警官たちをどかせると、元首は死体のそばにしゃがみこんだ。
いまだ広がり続けている血だまりは腹の傷からのもので、落下の傷は特に見られない。首の骨は折れているようだが、それにしてもまあ随分キレイに死ねたものだ。
握りしめた手を開かせ、中にあるものを確認する。卵は粉々に砕け、何の変哲もない白身と黄身が、混ぜ合わさってこぼれていた。
「伝説のオチにしちゃ安すぎるような気がするねぇ……ま、そういうもんかもしれないけど」
不意に起こったざわめきに、モーロは顔を上げた。
警官たちの作る人垣の中から、両目をつむった少女がふらりと歩み出たのである。
血相を変えて取り押さえようとする警官たちを制し、彼女を迎え入れる。手を取って少年の元まで連れてやると、少女は不思議そうに小首をかしげた。
「……くりすサンは?」
「死んだ。卵も割れた」
プルチーニは眉一つ動かさず、しかし、長く長く沈黙した。
「変わったね、君は。五十年前よりもずっと綺麗になった」
「アナタは変わりマセんね、もーろサン。いたずら坊主だったあの頃のままデス」
モーロは浅いシワが刻まれた顔をゆがめて笑った。
「船をあげるよ。西に行くならガレー船じゃなく、帆船のほうがいい。アルセナーレでとびきり上等なのを作らせよう。それが約束だからね」
「いりマセん」
「どうして?」
「それが約束デスから。くりすサンは、ワタシを海の向こうに連れて行くと言いマシた。だから、ワタシを船に乗せられるのは、くりすサンだけデス」
プルチーニはしゃがみこみ、冷たくなりはじめたクリスの体を撫でた。やがて、不器用にその体を背負い、ふらつきながら立ち上がる。
「一つだけ聞いていいデスか、もーろサン」
「何だい」
「どうしてワタシをつけ狙ったんデスか。元首の役目だから、というだけでは説明がつきマセん。くりすサンまでまきこんで……」
モーロの顔から笑みが消え、懊悩の色が濃くなる。喉の奥から鉛を吐くように、元首は告白した。
「君が守ろうとする全てのものを壊したかった。卵も、この少年も。そうすれば、君は僕から目をそらさずにいてくれるだろうから」
「嫉妬、デスか」
「そうじゃない。初めてあったあの日から、君は僕の神様だった。神様がいないこの街で、僕が目指した天国は君の胸の中にあった。……コジモ・イル・ヴェッキオがうらやましい。ずっと君の記憶の中にいられるのだから」
「なら今は、満足しているんデスね」
途端、モーロの顔がくしゃりと崩れた。栄光の都をたばねる元首は、人形と初めて会ったころの少年に戻ってしまっていた。
「行かないで。ねえ、行かないでよ。おいらは……」
プルチーニは背を向けたまま言った。
「さようなら、くりすサン。もう二度と会わないデショう。プラウディテ・アクタ・エスト・ファーブラ」
去ってゆく彼女の姿を、モーロは置き去りにされた子供のように立ちすくんで見送った。広場を囲う人垣は、死体を背負った少女が近づいた途端、逃げるように左右に割れた。
警官の一人が、モーロにそっと近づいて問う。
「閣下。よろしいのですか?」
モーロの顔はもう、元首のそれに戻っていた。
「かまわん。行かせてやれ」
「はぁ……。ところであの女、最後に何と言ったのでしょう」
「ラテン語。アウグストゥスの臨終の言葉だ。相変わらず洒落者だな、彼女は」
「何という意味でしょうか」
元首は永遠に届くことのない月を見上げて息をつくと、枯れ枝のような手を打ち鳴らした。
「芝居は終わった。どうか拍手を」
ベネタ潟に映り込む鮮やかな月が、夜の深さを物語っている。夜明けも陸も、まだはるか遠くにあった。
ゴンドラの上に立ち、プルチーニはゆっくりとオールを動かしている。櫂先が波を撫でるたび、ヴェネツィアの街は背後に遠ざかってゆく。
「約束、守ってくれマセんデシたね」
話しかける足元には、クリスの骸があった。
「くりすサンは、ウソつきサンデスね」
クリスは何も言い返せない。うずくまるような形の体は、夜気に当てられて冷え切っていた。
「でも、いいデス。仕方ないデス。神様は愛する人をすぐ天国に連れて行ってしまいマスから。どんなウソつきサンでも、許してあげマス」
オールを漕ぐ手に力を込め、プルチーニはゴンドラを西に急がせた。そのはるか先にはイタリアの赤い土がある。パドヴァ、ヴェローナ、マントヴァ、パルマ、そしてジェノヴァ――。
「必ず、デス。必ず、アナタをふるさとに帰してあげマスから」
突然荒い波が立って、ゴンドラを揺り動かす。しこたま水を浴びせられ、プルチーニはたちまち濡れねずみになった。
こんな小さな船で半島までたどりつけるはずはない。それでもプルチーニは手を止めず、それしか知らないからくり人形のように、広大な潟を進み続けた。
ヴェネツィアの街が完全に見えなくなったころ、それは唐突に起こった。
プルチーニの胸元に、光が瞬いたのである。
蛍のようだったそれは、たちまちのうちに熱をともない、胸全体をおおうまでに膨れ上がった。懐に手を入れて取り出すと、おびただしい光の渦が見えない目を刺した。
光の珠。本物の『宇宙の卵』。
軌跡の片鱗を見せるときの微光とは明らかに違う。ゴンドラの上に立ちこめる夜を払い、プルチーニとクリスを呑みつくす、それはまぎれもない千年の光だ。
「時が……満ちたのデスね……」
瞳の奥で光と熱を感じながら、プルチーニは卵を撫でた。指先に感じるのは、神が殻に彫り記した言葉。
かすれて見ることも困難だったその文字が、はっきりと刻み直される。消え去った続きの言葉がよみがえり、プルチーニの指に伝わる。
人の世を忌む者よ、我を守護せよ。大地が千度巡りなば、そが手の内に奇跡は宿らん。
選ぶべし。汝が望むは、次のいずれか。
一つ、破壊。旧き世界を打ち滅ぼす力。
二つ、創造。十全なる世界を創り出す力。
そして三つ……
「ああ……」
――そうだったんデスね。
閉じた瞼をぎゅっとしぼり、息をつくプルチーニ。
光はもう果てが見えないほどに膨れ上がり、ベネタ潟に巨大なドームを浮かべている。陸から見れば、太陽が落ちてきたかと思うことだろう。
やがて卵の殻にひびが入り、さらなる輝きをともなって割れてゆく。
と同時に、プルチーニの体にも亀裂が走った。胸元から鎖骨に、腰から脚に。右腕が付け根から腐れ落ち、髪がまとめて抜けてゆく。プルチーニが、崩壊してゆく。
「やっぱりアナタはワタシを守っていてくれたのデスね」
恨みがましさなど微塵もない声で、プルチーニは卵に話しかけた。そして、光に満ちた天を見上げた。
おとうサン。
本当は最初から分かっていマシた。アナタは狂ってなどいなかった。
アナタはただ、自信がなかっただけなんデスね。どの奇跡を選んでいいのか、世界をどうすればいいのか。
だからワタシを作ったんデスね。千年を生きて、人を、世界を知ったあと何をすればいいのか、ワタシに任せたかったんデスよね。
選びマシたよ、おとうサン。
世界よりもただのちっぽけな男の子を選ぶと言ったら。それがワタシの千年の答えだと言ったら、アナタは怒りマスか。それとも笑いマスか。
ワタシは今、笑っていマス。自分の愚かしさがおかしいのデショうか。そうではない気がしマス。ワタシは千年生きてきマシたから、バカなこととそうではないことの区別くらいつきマス。
「いいじゃないデスか。理不尽だらけの世の中に、一つくらいこんな奇跡があっても」
ただれかけた口で何事かをつぶやくと、卵は応えるように光を強めた。千年の時を経た殻が、その役割を終えて音も無く割れる。
世界をおおう光。崩れゆく人形の体。
末期の息の中で、プルチーニは最後の言葉を残した。
「くりすサン、どうか約束を――」
光の海がクリスの瞳になだれ込んでゆく。