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千年ヒヨコと宇宙の卵  作者: 古池ケロ太
西暦1464年 ヴェネツィア
15/17

(11)

 水のステージの上で、クリスはステップを踏む足を止めた。

 もう踊れない。こらえきれない悲しみが、足の力をうばってしまった。

「くりすサン」

 プルチーニの優しい声が、無性に辛かった。

「また泣いてるんデスか。泣き虫サンデスね」

 頬を伝う滴を拭いもせず、クリスは首を振った。

「違うよ。プルチーニの代わりに泣いてるんじゃないか。だって、プルチーニは人形だから。涙は流せないから」

 だってそうだろう。プルチーニは悲しかったんだろう。愛した人をその手にかけて、果てしない悲しさを背負って、それでも前を向いて生きてきたんだろう。

 おいらの悲しみなんてプルチーニと比べようもないけど、おいらには分かる。プルチーニは世界一可哀想な人形だ。

 胸いっぱいに詰まったクリスの悲しみは、それでも涙を流すごとに少しずつ取り崩されていった。

 泣くことが悲しみを癒す薬だとしたら、それを持たないプルチーニは、吐き出せない毒をずっと飲み込み続けてきたようなものだ。

 やっと分かった。自分が何をしたいのか。

 それは、プルチーニを助けることだ。プルチーニのために、少しでもいい、何かをしてやることがおいらのやるべきことだ。

 ――でも。

 おいらはこいつに何をしてやれるんだろう。気が遠くなるほどの長い間、悲しみを体の内にためこんできたこいつに、おいらは一体何をしてあげられるんだろう。

 泣きながら考えた末に、何もできることなどできないと気付いたとき、クリスの目にさらなる涙があふれた。

「ごめんよ。おいら、プルチーニに何もしてあげられない。おいら、ただの子供だから。プルチーニが会ってきた人たちに比べれば、おいらなんてちっぽけなものだから。おいらと過ごした一週間なんて、プルチーニの千年と比べたら取るに足らないものだから……」

 プルチーニは泣きじゃくるクリスを抱きすくめた。

「それは違いマス。くりすサンはかけがえのない奇跡を起こしてくれマシた」

「おいら、何もしてないよ。奇跡なんて……」

「ノ。アナタは、ワタシと出会ってくれマシた。この広い世界で人と人が出会うこと、それ自体が奇跡なんデス。ワタシは百万人と出会っても、次の一人と会うのを楽しみにしマス。千年を生きても、次の一秒を大事にしたいと思いマス。くりすサン。ワタシは千年の間、ずっとアナタを待っていマシた」

 涙が止まらなかった。

 プルチーニの胸元に泣き顔をうずめながら、クリスは今一度自分に何ができるかを考えた。

 おいらにできること。ちっぽけな暗殺者崩れにできる、ほんの小さなこと――。

「プルチーニ」

 クリスはプルチーニの顔を真っすぐに見上げた。

「おいら、船乗りになるよ。船乗りになって、プルチーニを船に乗せてやるんだ。今すぐはできないかもしれないけど、約束する。いつかきっと、プルチーニを海の向こうに連れていくから」

 そのときのプルチーニの瞳を、クリスは忘れない。涙を流せるはずのない彼女の目は、確かに潤んでいるように見えた。

 目の前にふわりと紫の長衣が舞い降りた。クリスの小さな体は、プルチーニの腕の中に抱きすくめられていた。

「グラツィエ。グラツィエ・ミッレ、ミ・アモーレ」

 ――ありがとう。本当にありがとう、愛しい人。

 頬に感じる温もりは、まぎれもなく人のそれだった。

 折れそうなほど細い体をそっと抱き返しながら、クリスはこの温もりを守ってみせると誓った。

「……プル」

 その瞬間だった。

 突然体が強く揺れ、クリスは水の中に倒れこんだ。一瞬の後、プルチーニに引き倒されたのだと理解できたときには、そのプルチーニまでもが隣に横倒しになっていた。

 何が起こったのか分からない。分からないまま顔を上げ、プルチーニの顔をのぞき込み、クリスは悲鳴を上げた。

 左目に矢が突き刺さっていた。

「プルチーニ! プルチーニ!」

 肩を揺すっても、プルチーニは水中に打ち伏したまま動かない。目の奥まで深々と刺さっている矢は、短い丈で、かつ矢尻が四角い。それがボルトと呼ばれるクロスボウ用の矢だと分かったとき、クリスの顔から血の気が引いた。

 立ち上がって見回せば、暗がりの只中に、マスクをかぶった男たちの姿が浮かび上がった。中庭を囲む建物の上から、刺客たちは二人をぐるりと取り囲んでいた。

「くりすサン……」

「プルチーニ!」

 濡れた衣を引きずりながら、プルチーニが立ち上がる。一瞬意識が途絶えはしたが、動けなくなるまでは至っていないらしい。

「くりすサン……どこデスか……くりすサン」

 目の前にいるクリスの名を呼びながら、頼りなく両腕をさまよわせるプルチーニ。残された左目を潰され、何も見えていないのだ。

 クリスの目の端に、建物の上でクロスボウを肩につがえる刺客の姿が入った。プルチーニの手を取って引き寄せた次の瞬間、まさにその場所に火薬を炸裂させたようなしぶきが上がった。

 クロスボウの威力は鉄の鎧をも貫く。しかもボルトは黒く塗られているため、この闇の中ではとうていかわせない。

 プルチーニを肩にかかえながら、階段の影に走りこむ。しかしそこにはすでに別の刺客が待ちかまえていた。突き出された刃をすんでのところでかわし、みぞおちに蹴りを入れて退ければ、今度は後ろから複数の男が突っ込んでくる。

「どけっ! どけよ、ちくしょう! このヤロー!」

 次々と飛びかかってくる相手を押しのけながら、クリスは路地の奥へと走った。だが、足元が悪い上に、プルチーニを背負っているのでは逃れようもない。たちまち袋小路に追い詰められる。壁を背にした二人の前に牙を向けるのは、十以上の刃とクロスボウだ。

「くりすサン……」

 矢が刺さったままの目を虚空にさまよわせるプルチーニ。そのか細い声を聞いたとき、クリスの胸はつぶれそうになった。

「ごめんよ、プルチーニ。でも、信じて。これはおいらが仕組んだんじゃない。こんなヤツらが隠れてたなんて、おいらは知らされてなかったんだ」

「スィ。分かってマス。最初から疑ってなんていマセんよ。もしそうなら、すぐ顔に出マスから。くりすサンはいい人デスから……」

 クリスは唇を噛んだ。また泣きそうだ。

 プルチーニは目から矢を引き抜いた。

「だから、くりすサン。逃げてくだサイ。狙われているのはワタシデス」

「馬鹿言うな、そんなことできるわけないだろ。絶対見捨てないからな!」

「いや、見捨てちまいな」

 刺客の一人が、不意に前に歩み出た。マスクをかぶっているが、その太く低い声は聞き違えるはずがない。

「兄ぃ……」

 ドメニコは仮面を外し、きつく据わった目で弟分を見下ろした。

「その人形をこっちに渡すんだ、クリス。そいつはこの世にいちゃあならねぇ。今まで俺たちが殺してきた誰よりも、な」

「いやだ。そんな上っ面の理屈で丸め込もうとするなよ、兄ぃ」

 弟分の思わぬ反抗に驚いたのだろう、ドメニコは目を丸くし、次いでおかしそうに唇をゆがめた。

「言ってくれるじゃねぇか。いつも俺のケツにくっついてきたガキが、ずいぶんたくましくなったもんだな、ええ?」

「兄ぃは自分が一番大事なんだろ。自分が生きられるんなら、それでいいんだろ。元首の側についたのは世界のためなんかじゃない、そのほうがお金になるからだ」

「そうさ、その通りさ。だからどうした。そのついでにお前を助けてやろうってんだ、悪い話じゃあるめぇ。さぁ、分かったらそこをどけ、クリス。抵抗したことについちゃあ、俺が元首に口をきいてやる」

 ドメニコが一歩を踏み出す。途端、

「来るな!」

 クリスは生まれて初めて、兄貴分に向かって怒鳴った。

 金縛りにあったように足を止めるドメニコ。クリスは大きく息をつき、やおら力の抜けたような穏やかな声を出した。

「兄ぃ。おいら、こればっかりは聞けないよ。いくら兄ぃの言うことだって。たとえ神様の言うことだって」

「クリス」

「約束したんだ。船乗りになる。プルチーニを海の向こうに連れて行くって」

「……」

 ドメニコは痛みをこらえるように固く目をつぶった。兄貴分のそういう仕草を見たのは初めてだった。

「……分かった。そうまで言うなら仕方ねぇ」

 ごきりと右手を鳴らすと、後ろの男たちも構えに殺気を込める。クリスは覚悟を決めた。

 だが次の瞬間、信じられないことが起こった。

「らあっ!」

 ドメニコが振り向きざま脚を振り回し、クロスボウをつがえる刺客をなぎ倒した。残りの男たちが驚く間もなく、突風のように襲いかかって打撃を浴びせる。

「貴様、裏切る気か!」

「斬れ、そいつを斬……ぐあっ!」

 格が違った。動揺した男たちは反撃の一つも出せないまま、次々と失神させられてゆく。ものの十秒もたたないうちに、水の張った地面の上に刺客たちの体が転がった。

 呆然とするクリスに、ドメニコはふぅ、と息を整えて振り返った。

「何してる、まだ追っ手はそこいらに控えてるんだ。ボサッとするな。早く逃げろ!」

「兄ぃ、どうして……」

「元首は、はなっからお前を頼みになんぞしちゃいなかった。お前がその人形の泣きどころだってぇことを見越してたんだ。人形を直接狙ったんじゃ到底かないっこねえ。だが、お前をエサにすりゃあ、なんとかなる、ってな」

 クリスはハッとプルチーニを見た。あのとき、クロスボウで狙われたのは自分だったのだ。そして、それをかばってプルチーニは目を射られた――。

「最初からそのつもりだったのさ。でなきゃお前なんぞを刺客に差し向けるはずはねえ。くっだらねぇ手だぜ」

「それが許せなかったから……?」

 だから助けたのか、と問うクリスに、ドメニコは仕方なさそうに笑った。

 それは兄貴分のいつもの仕草だ。クリスの、大好きな。

「いつも俺のケツにくっついてきたガキが、ずいぶんたくましくなったもんだ。さっきお前に怒鳴られたときな……何だかむしょうに淋しくなっちまった。へ、ガラにもねえ。これが子離れした親の気持ちってヤツか。やだやだ、年寄りくせえ」

「兄ぃ……」

「それともう一つ。元首は神父を殺した。あんな男でも俺たちを養ってくれた人間だ。仇をとらなくちゃあいけねえ」

 ぐっと胸が詰まった。兄ぃの本当の顔を、クリスは今初めて見た気がした。

 もしドメニコが一人だったなら、元首の側につくことはなかったろう。だが、元首からロザリオを見せられ、神父が死んだことを知ったとき、彼に頭に浮かんだのは他でもない、自分のことのはずだ。

 いつだってそうなんだ。自分のことは二の次で、他の誰かのことばかり考えてる。

 グリマルディ邸のことだって、兄ぃがつらくなかったわけがない。心優しい兄ぃは、そんな悲しみを胸の内に押し込んでいたのだ。

 それに気づかなかった自分は、本当の馬鹿だと思う。

「だったらおいらも!」

「馬鹿野郎。お前には役目があるだろう。男の役目が」

「男の役目……?」

「そうだ。惚れた女を守り抜く。福音よりも金よりも、そいつがこの世で一等命をかける価値のあるもんだ――と思うぜ、俺は」

「……」

「なあ、クリス。お前はどうだ?」

 ドメニコの声はどこまでもおおらかで優しかった。身寄りのない自分にとって、この人こそ兄であり父だとクリスは思った。

「思うよ……。おいらも、そう思う」

「それなら言ってやれ。こういうのは、口に出さなきゃ分からねえもんだ」

 振り返れば、プルチーニは祈るようにまぶたを閉じていた。

「プルチーニ……」

 言葉は自然に流れ出ていた。

「おいら、プルチーニが好きだ」

 プルチーニは目を閉じたまま、その言葉を聞いている。

「もっと言ってやれ。もっと大きい声で」

 ドメニコの声が背中を押してくれる。

 そうだ、元首だろうと教皇様だろうとかまうもんか。面と向かって言ってやる。世界中の人間に向かって、大声で叫んでやる。

「好きだ。好きだ。大好きだ」

 誰にも恥じることなんてない。この気持ちにウソなんてあるわけない。

「おいらは、世界中の誰よりもプルチーニが大好きだ!」

 ドメニコは満足そうに笑った。

 やがて、あわただしく水を踏む複数の足音が近づいてきた。

「さて、おいでなすった。俺ぁ出迎えに行くぜ。いいかクリス、もう祈るな。両手をほどけ。前を見ろ。立ち上がって、走り出せ。生きるってなァ、そういうことだ」

 そう言い置くと、返事を待つことなく駆け出していく。広い背中は瞬く間に暗がりに飲み込まれ、見えなくなった。

「くりすサン」

「……行こう、プルチーニ」

 クリスはプルチーニの手を引き、反対の方向へと走り出した。

 月が出ているとはいえ、路地裏の暗さに変わりはない。

 なるたけ水の無いところを選んで走っているつもりだが、この暗さではどうしても水を踏んでしまうし、足音は立つ。おまけに街をよく知っているプルチーニは目が見えない。

 そのプルチーニはクリスに手を取られながらも、先ほどよりはしっかりとした足どりで走っている。いくらか慣れたのだろう。

「くりすサン……ミ・スクーズィ」

 『ごめんなさい』と言うプルチーニに、クリスは眉をひそめ、

「何でプルチーニが謝るんだよ。悪いのは、足手まといになったおいらだ」

「ノ。この街にいる限り、こういうことになるとは思っていマシた。せめて誰も巻き込まないように、と思っていマシたが、結局……」

「違うよ」

 クリスは小声で、だが、しっかりと否定した。

「巻き込まれたんじゃない。おいらが好きで足を踏み込んだんだ。謝らなきゃいけないのはおいらのほうだ」

「くりすサン……」

「ごめんよ、プルチーニ。でも、約束は守るから。絶対にプルチーニを海の向こうに連れて行くから」

 やがて、暗闇の中に目もくらむような黄金の箱があらわれた。壁一面に金箔を塗りこめた、美しい貴族屋敷。

「これは……たしか、カ・ドーロ、だっけ」

「ということは、大運河のほとりまで出てしまったようデスね」

 確かに足元の水のかさも若干増していた。街の中心近くまで出て来てしまったのはうかつだが、逆に言えばここから離れれば潟に出ることができる。後は船でヴェネツィアを脱出するなり、そこらの倉庫で追っ手をやり過ごすなりすればいい。

「逆方向に行きマショう、くりすサン」

「うん」

 カ・ドーロに背を向けて、小路へと入る。

 そのとき、ドスッという音とともに、右の足首に小さな熱が走った。

「……?」

 見れば、そこにボルトが深々と沈み込んでいた。

「……あ、ぐああああっ!」

 続いて襲う激しい痛みに、クリスは転がって悲鳴を上げた。

「くりすサン?」

「そこまでだ」

 落ち着き払った声と同時に、水を踏む長靴の音が近づいてきた。運河沿いの道を埋め尽くすのは、たいまつをかかげ、槍やサーベルを手に取った男たち。

 暗殺部隊ではない。『夜の支配者』の通称を持つヴェネツィアの警察だ。

「二人とも動くな。貴様らを元首暗殺の容疑で逮捕する」

「あ、暗殺……?」

「そういうことだ」

 重々しい正装に身を包んだ初老の男が、人垣の前に歩み出る。

 モーロ元首は、ドゥカーレ宮殿で話したときとは似ても似つかない謹厳な顔で、うずくまるクリスを見下ろした。

「君の仲間から自白を取った。聖堂荒らしの容疑も加えられている。大人しくしたまえ、クリストファー君」

「ふざけるなっ……何が自白だ! ドメニコ兄ぃをそそのかして、おいらをけしかけておいて、よくも、よくも……」

「さて、何のことか分からんね」

 痛みと悔しさで、声も出ない。対するモーロは歯ぎしりするクリスを無視して、背後のプルチーニに目を向けた。

「この声は……もーろサンデスね」

「久しぶりだな。まだ卵を守っているのかね。それほどまでに破滅を望むか」

「そんなもの、望んではいマセん。卵はただ持っているだけデス」

「同じことだ。この街に奇跡は必要ない。ヴェネツィアは、人間の街だ」

 痛む足を必死に踏ん張って、クリスが立ち上がる。

 元首は冷たいため息をついた。

「クリス君。少しは潔く振舞ったらどうかね。ドメニコ君も、最期は立派だったぞ」

 途端、クリスの頭の中で何かが切れた。

「うわああああああ――――――っ!」

 痛みも忘れ、突進する。と同時に警官たちが刃を向け、それを迎え撃つ。

 瞬間、闇が弾け飛んだ。クリスの後ろから閃光が弾け、その場にいる全員の目を灼いたのである。

「むっ……」

 モーロ元首が袖の陰から目を出したときには、もう二人の姿は消えていた。

 元首はいまいましげに舌を打つと、目をこする警官たちに向かって追跡の命令を下した。

「人形め」

 彼らが路地の中に消えてゆくのを見送ると、モーロはやおら悲しげな目を天に差し向けた。寒空の上に月は鎮座して、地上の営みを見下ろしている。

 一度月をつかむように手を伸ばし、元首は誰にも聞こえない声で呟いた。

「そんなに……僕に捕まりたくないのかい」


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