(6)
日が傾き、空が黄ばみはじめた。黄昏がヴェネツィアの街にゆったりとおおいかぶさってゆく。
金色の膜が張ったカナール・グランデのほとりを、クリスたちはそぞろ歩いた。リアルト界隈の市場は、夕飯の買い出しに来る女性や下男でごった返している。
「どうしマシた、くりすサン。何だかボーッとしてマスが」
プルチーニが問いかけても、クリスは呆然としたままだ。
「いや……うん。何か、すごいもの見たような気が」
「よくあることデスよ。ワタシのまわりでは」
その言葉でちょっと笑えた。プルチーニの肩では、イル・ヴェッキオが相変わらず呑気に毛づくろいをしている。
「あの神父とは顔見知りだったの?」
「じょるじおサンが若いころ、ちょっと。いいお友達デシた」
「向こうは怖がってたみたいだけど」
「やんちゃな人デシたからね。多少おしおきをしたことがあったようななかったような……まぁ、忘れちゃいマシたけど」
話すうちに二人が早足になるのは、雑踏にまぎれて後ろをつけてくる人の気配を感じたからだ。見え見えの尾行――広場での一件に興味を持ったやじ馬たちだろう。
「教会の人間じゃないね」
「スィ。ちょっとじょるじおサンを脅かしすぎマシたか。よっぽどワタシに関わりたくないんデショう」
「そういや教会兵の連中、最後まで謝り通しだったね。ざまあみろってんだ」
「ノ。反省していマス。ちょっと大人気ないことをしマシた」
千年生きてきた魔女が言う『大人気ない』には妙な説得力があった。
「長生きしていれば、人の弱みの一つや二つ、デスよ」
そういうものかな、と少し考え込んでから、クリスはハタと思いついた。
「え……ちょっと待って。ひょっとしてプルチーニ、あの教区の神父があの人だって知ってたんじゃ……?」
「スィ。そうデスけど、何か」
「それじゃ――弱みを握ってる相手って最初から分かってて強気に出たってこと?」
「ひっかかる言い方デスけど、まあその通りデス。何か?」
何か、じゃない。
自分は死ぬほどの勇気を振りしぼって教会に食ってかかったのに、当のプルチーニは最初から勝てる戦だと思ってしかけたわけだ。
「そ、そりゃないよ、プルチーニ。おいらがどんだけ怖い思いしたかと……」
「それにしても後ろの人たち、しつこいデスね。船に乗りマショうか」
「ちょ、ごまかすなよ」
運河岸にゴンドラを泊める船頭に声をかける。積荷が何もないことから見て、観光客用のものだろう。
「スクーズィ。適当に運河を下ってもらえマセんか。これ、お代デス」
「いいけど、二人かい? それにしちゃちょっと多いよ」
「この子の分デス」
クェー、と肩からイル・ヴェッキオが声を出す。船頭は「動物は対象外なんだけどなぁ」と苦笑いしつつ、多めの船賃を受け取って二人と一羽を乗せた。
舫を外して、小船がカナール・グランデへと漕ぎ出してゆく。追うのをあきらめたやじ馬たちに、プルチーニはひらひらと手を振った。
「で、さっきの話だけど」
「マンマ・ミーア。しつこい人がここにも」
肩をすくめるプルチーニに、クリスは顔を寄せた。二人が腰かけているのは小船の先頭で、船頭は最後尾にいる。長いゴンドラの端と端、小声で話せば向こうには聞こえない。
「ひどいよ、最初からそう言ってくれれば」
「言ったらくりすサン、止めにかからなかったデショう」
「当たり前だろ。そっちに任せてたよ。一人で勝てたんだから」
一度運河を見回してからプルチーニが返した言葉は、クリスを赤面させた。
「かっこいいところが見たかったんデスよ」
「……」
「どうしマシた、くりすサン」
「……なんでもない」
「顔が赤いデスが」
「分かってて言ってるだろ?」
「何のことやら」
プルチーニはイル・ヴェッキオと顔を見合わせ、首をひねった。
気を利かせたつもりか、船頭が歌を歌い始めた。観光客相手に披露しているであろう素朴な民謡が、波の隙間に溶けてゆく。市庁舎を左手にのぞみながら運河を下れば、市場の喧騒はもうはるか後ろだ。
「さっきの女の子、これからどうなるのかな」
杭にくくりつけられていた少女は無事釈放され、プルチーニに何度も頭を下げながら去っていった。だが人々の見る目は依然厳しかったし、彼女の父親も決して歩み寄ろうとはしなかった。これから先、ヴェネツィアで生きていくことはできないだろう。プルチーニは「どんなことでも取り返しがつく」と言ったが、本当にそうなんだろうか。
果たしてプルチーニは「さぁ」と、にべもなく首を振った。
「わかりマセん。ただ、街に残るにしろ出て行くにしろ、自分の力で生きていかなければ。そうでなければまた火刑台行きデス」
「……プルチーニって、優しいのか冷たいのか分かんないね」
「ワタシはワタシが正しいと思ったことをしただけデス。世の中は理不尽デス。ウソとデタラメでいっぱいデス。そういうものデス。でもワタシは、千年生きても一万年生きても、絶対に納得なんてしてやらないのデス」
水面から突き出る舫いの杭が、葦のように夕風に揺らいでいる。
こいつは一体何者だろう。千年生きれば、誰でもこんな考えをするようになるんだろうかとクリスは不思議に思った。
「それにしてもひどいよね、あんな普通の子を魔女だなんて」
「くりすサンこそ、最初は彼女を魔女扱いしたじゃないデスか」
「あ、あれはみんながそう言うから……」
「結局それはじょるじおサンが否定したわけデスが」
うっ、と言葉に詰まる。ぐうの音も出ないとはこのことだった。
神父が自分の身かわいさに裁判で決められたことを覆したのは事実なのだ。神様の名の下に行われた裁判の結果が人間の都合でひっくり返るなら、裁判そのものがまがいものだということになる。神様が間違いを犯すわけはないから、ウソをついているのは裁きを下した人間のほうだ。
「でも、何であんなことを……」
「出世のためデス。魔女狩りは聖職者にとっての名誉デスから。多く焼けば焼くほど教会にハクがつくというわけデス。ヴェネツィアはまだマシなほうデスよ。北のほうでは魔女狩りで村が全滅してしまったところもあるくらいデスから」
氷のような悪寒がクリスの背を走り抜けた。
デュナン神父も同じだったんじゃないか。自分にナイフを持たせ、暗殺術を叩き込んできた神父様。神様のためと言ってきたその言葉はでまかせで、本当は金のために神様の名前を利用していただけなんじゃないか。
自分はずっとだまされ続けていたんじゃないのか。
考えが深まるにつれ、疑いは渦を巻いた。
そうだ。神様は本当は怒っているのかもしれない。神様の名を騙った神父様に、そして言いなりになって手を汚した自分に。
いや、もしかしたら最初から神様なんて――。
「プルチーニ」
クリスは強張った顔を向かいに座る相手に向けた。言葉は魔物のように口から躍り出ていた。
「神様は――本当にいると思う?」
表情を変えず見つめ返してくるプルチーニ。それを見て、クリスは正気にかえった。
「ご、ごめん! 今のなし! 忘れて、ごめん、忘れて!」
どうかしていた。これじゃまるで魔女の考えだ。神様を疑うなんて、きっとドメニコ兄ぃの口癖がうつったんだ。
顔をそむけるクリスに、プルチーニは答えを返さず、身じろぎもせず、じっと視線を送った。
ガラスの瞳がまっすぐに見つめてくる。いつものぼんやりとした視線とはまるで違う、汚れもよどみもない、それは人間以外の何かが持つ眼差しだ。
クリスはいたたまれなくなって、声をしぼり出した。
「どうして……どうしてプルチーニはそんな綺麗な目をしてるんだ。千年以上も人間を見てきたんだろ。世の中の汚いところも、たくさん見てきたんだろ。おいらはこんなに汚れてるのに……たった十三年でこんなに汚れちまったのに、どうして……」
薄緑の瞳がすっと細まり、唇の両端が小さく吊りあがった。
そうだと分かるのにしばらくかかるほど、小さなプルチーニの笑顔だった。
「くりすサンはいい人デスね」
「は……」
「だから、ワタシの秘密を教えてあげマス」
「秘密?」
「スィ。女の子の秘密デス」
そう言って、身を横に寄せてくる。肩が触れ合い、その柔らかさにクリスは一瞬どきりとした。秘密って一体何のことだろう。
次の瞬間、クリスは心臓が飛び出るほど驚いた。プルチーニが上衣の胸元を開き、肌をあらわにしたのである。
あわてて目をそらすクリスに、しかし、プルチーニは穏やかに声をかけた。
「くりすサン、見てくだサイ」
こわごわと顔を戻す――と、目に入ったのは思いがけないものだった。
おそろしく白いプルチーニの柔肌。その胸の上部が裂けていた。胸の中心からふくらみに沿って脇の近くまで、左右それぞれ一本ずつ、まるでナイフで切ったような切り口が開いている。
背を向けているから、船頭には二人が何をやっているかは見えない。プルチーニは右の胸の傷に指を突っ込むと、そのまま無造作に引っ張った。みちりっ……と肉の裂ける音がして、クリスが思わず顔をしかめる。が、当の本人は顔色一つ変えず、広がった傷口からも血はまったく出てこない。
「ワタシは魔女じゃありマセん。人間でもありマセん。今からちょうど千年前、ローマ帝国の時代に作られた人形なんデス」
「人、形……」
やがて、プルチーニの指が傷口から何かを取り出した。
真っ白な色の、丸みを帯びたそれは――
「卵……?」
「スィ。これがワタシの秘密デス。ワタシの生まれた理由デス」
プルチーニは異様なほどの丁寧さで卵を包み持った。気のせいだろうか。両手の間からのぞく卵の表面は、ほのかに光っているように見える。
「これは宇宙の卵。おとうサンが――ワタシを作った人が、神サマからもらったものだそうデス。見てくだサイ、表面に文字が彫ってあるデショう」
殻には確かに何らかの文字が刻み込まれていた。多少の読み書きはできるクリスだが、それはまったく解読できない。
「ラテン語デス。『人の世を忌む者よ、我を守護せよ。大地が千度巡りなば、そが手の内に奇跡は宿らん』――千年間人肌で温め続ければ、奇跡の力を得ることができる。おとうサンは神サマからそう告げられマシた。でも人の命には限りがありマス。そこでおとうサンはワタシを作って、千年間これを温めるように命じたのデス。この胸のポケットは、どんなときでも卵を温められるように、とおとうサンが考えたものデス」
クリスの体はにわかに震え出した。
冷えマスから、とプルチーニは卵を胸のポケットにしまい、傷口をなぞって塞いだ。
「おとうサンがこれを本物だと信じたのは、そしてワタシもまたそう思うのは、理由がありマス。大聖堂から逃げたときのことを覚えていマスか?」
「あの、空を飛んだときのこと?」
「スィ。くりすサンはあれを魔女の力だと言いマシたが、ワタシだって空を飛ぶことなんかできマセん。この卵がワタシを宙に浮かせたんデス」
あのとき、自分を抱きかかえたプルチーニの右胸は、この卵と同じ色の光を放っていた。
「ワタシはこの力を奇跡の断片だと理解していマス。つまり、卵は己を守るものを守るのデス。そうしないと温めてもらえマセんから。ワタシが千年間生きてこられたのも、半分はこの卵のおかげなんデス。モンゴルの騎馬軍に追いかけられたときも、タクラマカン砂漠で迷ったときも、ヒマラヤを越えたときも、卵はワタシを守ってくれマシた。……途方もない話だと思いマスが、信じるかどうかは」
「信じるよ」
プルチーニはきょとんと目を開いた。クリスは目を輝かせて叫んだ。
「信じるよ、おいら! すごい! やっぱり神様はいるんだ! おいらは間違ってなかったんだ!」
興奮しきったクリスは、船頭が目を丸くするのにも気付かない。プルチーニの顔がわずかに翳ったことにも。
「うわー、すごい。おいら、こんなドキドキするの生まれて初めてだ。きっとプルチーニを作った人は立派な人だったんだね。神様が奇跡の卵を預けたんだから」
「おとうサンは、若い頃ローマで卵売りをしていたそうデス。西ゴート族というフランク人の一派がローマの街に侵入して、さんざん略奪を行ったことがありマシた。おとうサンはそのとき家族を殺されて、街を逃げ出す途中で神サマと出会ったそうデス。その後五十年かけてワタシを作ったわけデスが――それ自体がもう、卵の力によるものデショう。ただの商人に過ぎなかったおとうサンが、人形に命を吹き込むなんて、できるわけがありマセんから」
「ほら、やっぱりすごいよ。その人は神様に選ばれたんだ」
不意に、プルチーニの視線が虚空に浮いた。空を見つめる緑の瞳の、その悲しい深さは一体どうしたことだろう。雲居のかなたに千年の記憶を探しているような――。
「プルチーニ?」
「おとうサンは狂っていたんだと思いマス」
突然の言葉だった。
「おとうサンはこの世の全てを憎んでいマシた。世界に絶望していたんデス。なぜなら、おとうサンの家族を殺したのはゲルマン人ではなく、混乱に乗じて強盗をはたらいた、同じローマ人だったのデスから。人間の本性がいかに醜いか、おとうサンは思い知ったのデショう」
クリスは何も言うことができなかった。
「この卵を温めはじめたのは、ちょうど千年前の十一月。もうすぐ約束の時が来マス。そのとき、卵の持ち主は三つの奇跡から自分の望むものを選ぶことができるのデス」
「三つの奇跡……」
「あの文字には続きがありマス。『選ぶべし。汝が望むは、次のいずれか。一つ、破壊。旧き世界を打ち滅ぼす力。二つ、創造。十全なる世界を創り出す力」
「十全?」
「完全、という意味デス。『そして三つ……』」
プルチーニはそこで言葉を切った。
「な、何? 三つ目は」
「分かりマセん。文字はそこでかすれて消えてしまっていて、おとうサンも教えてくれマセんデシた」
クリスは黙り込んだ。
破壊。創造。世界を滅ぼす。または創り出す。
そんなことができるなら、確かに奇跡には違いない。だが、それは今まで考えていた神様の力とは、あまりにもかけ離れていた。
奇跡は、人間を救うものじゃないといけないんじゃないのか。困っている人間を、弱い人たちを助けるために、奇跡は、その卵はあるんじゃないのか。
世界を滅ぼしたり勝手に創ったり、そんなの、そんなの人間なんて最初からいないみたいじゃないか。
クリスの心を察したように、プルチーニは穏やかな声を出した。
「分かりマスよ。神サマのくれた奇跡なのに、あんまりにも残酷だと思ってるんデショう。ワタシもそう思っていたときがありマシたから」
「本当?」
「スィ。千年生きてマスから。それこそ夜も眠らずに、いろいろなことを考えマシた」
「じゃあ、プルチーニは何を選ぶの?」
考え無しに言ってしまってから、クリスの唇は凍えついた。
破壊と創造、どちらを選ぶにしろ、それは世界の存亡に関わるものに違いない。神にも等しい人物に、世界を潰しますか創りますかと質問しているようなものだ。
しかし、プルチーニはあっさりとこう答えるのだ。
「何も選びマセん」
「へ」
「ワタシはいろいろ考えマシた。おとうサンと同じように、人間は醜いと思ったこともありマス。でも今は――」
イル・ヴェッキオがゴンドラの縁で短く鳴いた。そのトサカの赤帽子を、プルチーニがそっと撫でる。
「今は……そうデスね。分かりマセん。長く生きれば生きるほど、人間というモノは分からなくなりマス。だから人間は人間なのだと思いマス。でも、ただ一つ言えることがありマス。ミセルム・エスト・アルビトリオー・アルテリーウス・ウィーウェレ――他人に従って生きるのはみじめなこと。ワタシはワタシがそうしたいと思ったことをするだけデス。それが何も選ばない、ということデス」
「分からないよ……分からない。それは神様からもらった卵なんだろ。その卵を守るためにプルチーニは作られたんだろ。なのに、どうしてそれに逆らおうとするんだ。人間だって、神様に造られたものだから、神様の言うことに逆らっちゃいけないのに……なんで、人形のお前が……」
言葉は進むごとに怒りを含み、やがて嗚咽まじりになった。
考えたことをうまく言葉に出せない。胸の中にわだかまった思いは、喉にせりあがった途端、粉雪のように消え去ってしまう。
「やっぱりくりすサンはいい人デスね」
「は……」
「迷ってるんデスね。どうすればいいのか」
思いのたけを、プルチーニはたった二言で代弁してくれた。
頷くクリスに、千年人形は噛んで含むように言い聞かせた。
「簡単なことデス。ウソをつかなければいいんデスよ。自分にウソをつかなければ。たった一つだけ、それだけをすればいいんデス」
「……」
「クエッ」
不意にイル・ヴェッキオが声を上げ、西の空を見やる。クリスとプルチーニも思わずそれにならった。
ゴンドラが建物の陰から頭を出す。
途端、宝石箱を開けように、深紅の光が目に踊り込んだ。
水面に溶けた陽光が、運河を朱に染め上げていた。水の都は夕影の只中にあった。
「綺麗デスね」
プルチーニがつぶやいた言葉も耳に入らず、クリスはただ魂を抜かれたように溶けた夕日を見つめた。
いつの間にか、歌は終わっていた。風も凪いでいた。街のざわめきが、人々の雑踏が、何もかもが静けさに吸い込まれ、ただ船腹を打つ波の音だけが世界を満たしていた。
紅の運河を、小船はゆっくりと進んでゆく。
クリスは思った。
夕日の美しさは、人間を喜ばせるためにあるんじゃない。それどころか、夕日は美しくあろうとすらしていない。ただ沈み、また昇るだけだ。天から地へ、そしてまた天へ。東から西へ、何度も何度も、何年も何十年も何千年も、飽きもせず。
ただそれだけなのに、人が沈みゆく太陽を見て、心を動かされるのはなぜだろう。カナール・グランデのおだやかな波が照り返す、ルビーのような夕映えが、何かを教えてくれるような気がするのはどうしてだろう――。
クリスの目から、不意に涙がこぼれ落ちた。
「どうしマシた、くりすサン」
プルチーニが不思議そうにのぞきこんでくる。ガラスの瞳に見つめられて、クリスは心の内を吐き出した。
「おいら、人殺しなんてしたくない」
プルチーニは眉一つ動かさなかった。
「おいらは悪党だ。最低のウソつきだ」
言葉は一度流れ出してしまえば、とめどが無かった。たまった毒を吐くように、クリスはしゃべり続けた。
「おいら、本当は人殺しなんてしたくない。したくないのに、ずっと自分をだましてきたんだ。神父様がそう言うから、神様がそう言うんだから仕方ない、って……。そうやって全部他人のせいにしてきた」
他人をだます人間は本当の悪人じゃない。たとえ神様をだましても、それは本当の悪者じゃない。
本当の悪とは、自分自身の心を偽る人間のことだ。
「神父様でもドメニコ兄ぃでもない。おいらだ。おいらだけが本当の悪人なんだ。プルチーニが言うみたいな、いい人なわけないじゃないか」
うつむくと、こぼれた涙が膝の上に粒模様を作った。ドメニコが見れば、男が泣くなと叱られただろう。だが、こらえる勇気をクリスはどうしても持てなかった。
船頭が舵を切り、小船は運河の果てへと向かってゆく。それでも波は音一つ立てず、いたずらにクリスを苛み続ける。
静寂を破ったのは、プルチーニの呟きだった。
「橋デスね」
「……え?」
「橋の下を通りマス」
クリスは顔を上げた。ゴンドラは運河にかかるアーチへ、舳先を進めていた。
「知ってマスか? 日が沈むとき、ヴェネツィアの橋の下で口づけを交わした恋人は、永遠に幸せになれるそうデス」
プルチーニの言わんとすることが分からず、クリスはただ黙りこくった。
ゴンドラが橋の下を通る。斜陽がさえぎられ、プルチーニの白い顔に影が差したと思った瞬間、その顔がふっと近づいた。
――――。
船尾が橋の影を抜けた。そのときにはもう、プルチーニは何事もなかったように顔を戻していた。
クリスは、目の下に触れながら、呆然とつぶやいた。
「あ……い、今のって……」
「濡れてマシたから。涙で」
返すプルチーニの口ぶりは、まるでいつもの通りだった。
睫毛を押さえれば、涙の代わりに柔らかい唇の感触が、優しく貼りついていた。
船頭が再び歌を歌い始めた。水面の上に風がなびき、歌声を夕空に染み渡らせる。世界は今、音を取り戻した。
クリスは自分の顔が、ゆで卵のように熱くなっているのに気付いた。どう反応すればいいのか、何を言えばいいのか。答えてくれないまま、プルチーニは西日に顔をさらしているだけ。
やがて船は外海に開けた運河に出た。ジュデッカ島の家々が白い顔をほの赤く染めていた。
「ところで、さっきの話デスけど」
「さ、さっきの、って」
「キスをすれば幸せに、という話デス」
「はぁ」
「アレ、嘘デスから」
「はあっ?」
もうワケが分からない。ぐるぐると回る頭をかかえるクリスに、プルチーニはほんの少しだけ微笑んで言った。
「いい人は、すぐだまされマス」
サンマルコ運河が抱く夕日の中へ、ゴンドラは漕ぎ出してゆく。