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西暦464年11月

西暦464年11月


 おや、まだ起きていたのかい。

 早く寝なさい。夜更かしは体に悪いよ。

 え? ああ、はは。そうだったね、君は眠る必要などない体だった。

 いやはや、年はとりたくないものだね、こうも物忘れがひどくなるとは。近ごろではお祈りの文句を思い出すのも一苦労だ。

 だが、そうだね……うん。記憶違いをおこしたのは老いのせいばかりではないらしい。

 君は本当に人間らしくなった。歩き方にしゃべり方、立ち居振るまい、ちょっとした仕草、そうそう、そうやってまばたきもできるようになったな。もう外に出ても大丈夫だろう。みんな人間だと思ってくれるはずさ。それもとびきり美人の、ね。

 ふう……。

 ああ、あの音かい。ゲルマンの戦太鼓だよ。警備隊も逃げてしまったし、今夜はもちそうにないな。この村はちょうど帝国の国境線上にあるから、蛮族に襲われやすいんだよ。もっともその国境というやつは、昨日まで一マイルも向こうにあったはずなのだが……いやはや。

 ローマ帝国ももう終わりだね。かつてはブリテン島から黒海の向こうまでS.P.Q.Rの文字を刻んだのが、今や半島を守ることすらできやしない。まあ、次から次へと皇帝の首をすげかえているような国なんだから、兵士にやる気を出せというのが無理な話か。

 むっ……う……。

 ああ、これかい……これはね、血というんだ。血。人の体を流れる命の水。

 私の腹を見てごらん。そう、そこ。ざっくりと裂けているだろう。さっきゲルマンの兵士にやられたんだ。どうにか逃げおおせはしたが……ああ、内臓まで達しているね。これはもう長くはない。

 いや、そうじゃない。死ぬということさ。

 うん? そうか、まだ死について教えていなかったか。本当に年はとりたくないね。何よりも大切なことだったのに。

 いいかい。私はもうじき死ぬ。死ぬということは……死ぬということは、そう、何もできなくなるということだ。

 立つことも歩くことも、眠ることも起きることも、泣くことも笑うことも、みんなできなくなる。もう君の髪をとかしたり、昔話を聞かせたりするのもできなくなってしまうんだよ。

 さあ、ここからをよくお聞き。君にしてあげられる最後のこと――どうして私が君を作ったのか、その理由を話してあげよう。

 これを……この卵を持ってごらん。そう、そっと手にとって。やさしく、やさしく。

 これはね、私が神様からもらったものなんだ。

 忘れもしない五十年前、私はフランク人に荒らされたローマから逃げるところだった。家族はみな殺されてしまって、持ち物といえば道中に食べるつもりの卵が一個だけ。

 そうとうに気落ちしていたと思う。そりゃあそうだ。すでに首都でこそなくなっていたが、何百年も世界の中心であり続けた街が異民族に蹂躙されたんだから。アッピア街道は同じように地方へ逃れてゆく人々でいっぱいで、陽も高い時間だというのに全員の顔に暗い影が差していた。

 いくらか歩いたところで、道ばたに座り込む一人の老人が目に入った。足が悪いらしく、もう先に行くのをあきらめている感じだ。

 私が持っていた卵を渡してやると、老人はそれを手にしたまま私の顔をまじまじとのぞきこんだ。

「よいのか。ぬしの分であろう」

 私は答えた。

「別にいいよ。もう必要のないものだし」

 君は他の人間を知らないから分からんだろうが、私は思い込みの激しい性質でね。家族も故郷も失くして、この先どうせ野垂れ死にするのなら、なけなしの食べ物なんて誰かにくれてやって、すっきりこの世におさらばしようなんて考えていたのさ。

 老人は卵に口をつけず、しわくちゃの顔を街道の果てに向けた。市街からはもうかなり離れていて、コロッセオの外壁だけがうっすらと見えた。

「ぬしもローマから逃げてきたのか」

「ああ。ひどいもんだ、神殿もカタコンベもめちゃくちゃに壊されて、おまけに皇帝の妹君までさらわれたんだと」

「これからどこへ行く」

「どこでもいいさ。世界中のどこへ行ったって、どうせ同じことが起こるんだ。平穏無事に暮らそうと思ったら、それこそ天国に行くしかないだろうよ」

 私が捨て鉢にそう言って笑うと、老人は悲しげな目で見つめてきた。どんよりと曇っていた瞳が不意に透き通って、なんだか心の奥まで見透かされそうな気がしたな。

 そして老人は、一度受け取ったはずの卵を私に差し返し、こう言うんだ。

「この殻の中に宇宙を閉じ込めた。それを人肌で温め続けよ。いつか孵るときが来たならば、卵はぬしに奇跡を起こす力を与えるであろう」

 私は老人がボケていると思ったよ。だってそうだろう。そんな話、誰が信じる。大体、その卵は私がくれてやったものだ。

 だが私はその話につきあうことにした。今から思えば、人恋しさもあったんだろうな。

「温め続けるってじいさん、この卵は食用でもうヒヨコなんか生まれやしないよ。いつか孵るどころか放っておいたら腐っちまうさ」

「それはもはや鶏の卵ではない。奇跡をはらんだ、宇宙の卵よ。そして、腐ることはないが孵らせることもまた容易ではない」

「じゃ、どれくらい温めればいいっての」

「千年」

 私は大笑いした。そりゃ傑作だ。もしそれだけ長生きできる人間がいれば、そっちのほうが奇跡だ。

 しかし、老人はあくまで真顔で続けるんだ。

「人の命には限りがある。だが志は不滅だ。汝が世界を変えたいと思うのならば、人ならざるものを作れ。汝の志を受け継ぎ、千年の長きにわたって卵を守り通すものを」

 あまりの真剣さと、言葉の持つ不思議な響きに、私の笑いは吹き消えた。追いうちをかけるように、老人は筋張った手で卵を私に手渡した。

 それを受け取った途端に見えた、あの光景は一体何だったんだろう。無数の星、燃える太陽、赤い空、厚い雲、波立つ海、跳ねる魚、巨大な木々、見たここともない動物たち、天が破られ、時が巡り、人が生まれ、そして、そして……。

 我にかえると、老人の姿はどこにもなかった。すでに陽は落ちかけていて、朱に染まった石畳の上を、まばらに人が歩んでいた。

 手元を見て、ようやっと夢を見ていたのではないと分かったよ。手の中にあった卵には、ナイフで刻んだような文字でこう書かれてあった。


  人の世を忌む者よ、我を守護せよ。大地が千度巡りなば、そが手の内に奇跡は宿らん。

  選ぶべし。汝が望むは、次のいずれか。

  一つ、破壊。旧き世界を打ち滅ぼす力。

  二つ、創造。十全なる世界を創り出す力。

  そして三つ……


 ――ああ……すまない。少し気を失っていたようだ。

 こんな話を、君は信じてくれるかい。五十年間、誰にも話したことはないし、誰に話しても信じはしないだろうが、あれは確かに神の化身だったと思う。

 どうして神様が私にこれを託されたのかは分からない。いくら思い込みが強いと言っても、まさか自分が選ばれた人間などと考えるほど楽天家でもない。

 しかし、もし仮に神様の気まぐれだったとしても、私はそれにすがりたい。この世の中を変える奇跡を起こしてみたい。たとえ、千年の時をかけてでも。

 だから君は私を作ったんだ。卵を温め、守り続ける千年を生きてもらうために。 

 うん、何だって?

 ははは。君は賢いね。そう、君には体温がない。まさか千年間も湯を沸かしながら生きるわけにはいかないしね。

 心配しなくてもいい、そのことも考えてあるから。今から君に人の温もりを与えてあげよう。何も考えなくていい、君は私の言うとおりにすればいいんだ。それがいいことか悪いことかなど、気にせず、ね。

 ああ、連中、とうとう村の中まで入ってきた。ここまで押し込んで来るのも時間の問題だな。

 私は妻をめとらなかったし、子供も作らなかった。卵を懐におさめたままでは、誰かを抱きしめることなどできないから。

 君はそんな私にとってかけがえのない家族だった。それだけは……神に誓って言える。

 さぁ、今から言うことをよく聞くんだ。そしてそれが終わったら、私を置いて逃げなさい。それがいいことか悪いことか、気にせずに。

 生きなさい、千年を。守りなさい、卵を。そして願わくば三つの奇跡のうち、私の望むものをかなえておくれ。

 私の、願いは……


というわけで、なろうでの初長編です。

これも大昔の作品ですが、あのころの自分、ろくに知識もないのに何をトチ狂って歴史モノを書こうと思ったのか……

時代考証とかされたら即死ですので、シンプルに楽しんでいただけたら幸いです。

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