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街明かりと、琥珀色の神様

作者: 明石竜
掲載日:2026/10/12

 午後八時半。快速電車の車窓から見える明石海峡大橋のイルミネーションは、真珠を連ねたように美しく明滅していた。

 

 二十六歳、東京のIT企業から神戸のWeb制作会社に転職して半年。朝霧真菜の毎日は、それなりに充実している。けれど、どれだけ要領よく仕事をこなしても、時折、胸の奥に澱のような寂しさが溜まる。今日の夕方、提出したデザイン案について「そつがないけれど、面白みがない」と指摘され、修正を求められた。何度も色を変え、配置を整え、誰からも文句を言われないように仕上げたつもりだった。突き返されたコンペシートの余白が、自分の代わり映えのしない人生そのもののように思えて、真菜は逃げるようにオフィスを出たのだった。


 気づけば、自宅のある垂水を通り過ぎ、JR明石駅で降りていた。夜風に吹かれながら、真菜はあてもなく歩いた。

 魚の棚商店街のアーケードを抜け、少し外れた路地に入ったとき、古びた、けれど手入れの行き届いた杉玉が目に留まった。

 小さな居酒屋。暖簾には『季節の魚と地酒』とある。

 いつもなら通り過ぎるはずだった。けれど、ガラス戸越しに見えた木製のカウンターの温かそうな灯りに、吸い寄せられるように足が動いた。

「いらっしゃい」

 ガラガラと扉を開けると、白髪交じりの店主が穏やかな声で迎えてくれた。先客は会社員風の男性二人だけだった。真菜は隅のカウンター席に腰を下ろし、小さく息を吐いた。

「お疲れ様。まずは、ビールにしますか?」

「あ……いえ」

 メニューに目を落とすと、そこには見慣れない日本酒の銘柄が並んでいた。

 ――明石の地酒。

 この街が、かつて「西灘」と呼ばれ、江戸時代から酒造りが盛んな土地だったことを、真菜は引っ越してくるまで知らなかった。

「あの、あまり日本酒には詳しくないんですが……少し甘めで、でもすっきりしたものをいただけますか」

「それなら、これがいい。明石の『来楽(らいらく)』の純米生原酒。ちょうどいいのが開いてますよ」

 店主は冷蔵庫から一升瓶を取り出し、大ぶりのガラスのお猪口にトトト、と透明な液体を注いだ。表面張力でぷっくりと盛り上がる。

 カウンターの琥珀色の灯りが、お猪口の中で小さく揺れていた。

「まずは一口、どうぞ」

 言われるままに、お猪口を唇に運ぶ。

 ふわりと、熟したリンゴのような、あるいは炊きたてのお米のような甘い香りが鼻腔を抜けた。口に含むと、驚くほどみずみずしいお米の旨味が広がる。原酒らしい力強さがありながら、後味は驚くほど軽やかで、スッと喉の奥へ消えていく。

「……美味しい」

 思わず声が漏れた。

 冷たい液体が胃に落ちると、そこからじんわりと温かい熱が身体の隅々へ広がっていく。張り詰めていた肩の力が、すとんと抜けるのが分かった。

「気に入ってもらえてよかった。明石のお酒は、この街の食べ物とよく合うんですよ」

 店主は小鉢を一つ、真菜の前に置いた。

「この店を始めた頃から、いろんな料理とお酒を試してきましたけどね。結局、地元のもの同士が一番しっくりくることが多いんです」

「へえ……」

「はい、突き出しのタコの柔らか煮。これと一緒に、もう一口どうぞ」

 目の前に置かれた小鉢には、濃い琥珀色に煮付けられた明石タコ。

 お箸でひと切れつまみ、口に運ぶ。噛んだ瞬間、タコの弾力とともに、じゅわっと上品な出汁とタコ自身の凝縮された旨味が溢れ出た。

 そこへ、すかさず『来楽』をもう一口。

「っ……!」

 脳内で小さな感嘆符が弾けた。

 タコの濃厚な旨味を、お酒の酸味とキレが綺麗に包み込み、引き立てる。お酒がタコを美味しくし、タコがお酒をさらに愛おしくさせる。完璧な循環が、口の中で完成していた。

「最高、でしょう?」

 店主がいたずらっぽく笑う。真菜は何度も頷いた。

 一人で飲むお酒は、寂しいものだと思っていた。東京にいた頃は、仕事のストレスを忘れようと、誰とも話さず、居酒屋でハイボールをあおるように飲んでいたからだ。

 けれど、今ここで味わっている一杯は、全く違う。お酒が、そしてこの空間が、傷ついた心を優しく解きほぐしていく。

「お姉さん、次はこっちを飲んでみなよ。同じ明石の酒でも全然違うから」

 隣の席に座っていた、常連らしき年配の男性が、棚の酒瓶を指さして声をかけてきた。店主は苦笑しながら、次のおすすめを教えてくれた。

「じゃあ次は、江井ヶ嶋酒造の『神鷹(かみたか)』の水もと仕込みを。これはちょっと面白い味わいですよ」

 注がれたお酒は、先ほどの『来楽』よりも深い黄金色を帯びていた。カウンターの灯りを受けて、その色がいっそう温かく見える。「水もと」とは、室町時代から伝わる伝統的な醸造方法らしい。

 一口飲むと、乳酸菌のような甘酸っぱさと、どこか野性味のある奥深いコクが広がった。

「面白い……! どこか白ワインみたいです」

「そうでしょう。私も初めてこういうお酒を飲んだときは、びっくりしましたよ」

 店主は懐かしそうに目を細めた。

「昔はね、飲みやすくて、誰にでも好かれるお酒が一番だと思ってたんです。でも、あるお客さんに言われましてね。『みんなに好かれなくても、これが一番好きだって人もいるんだよ』って」

「……そうなんですね」

「それからですよ。少し癖のあるお酒も、積極的に置くようになったのは」

 店主は棚に並んだ酒瓶を見やった。

「明石の酒蔵は、伝統を守りながらも、みんなそれぞれ個性的でね。一本一本に、造った人の思いが詰まってる。私はそれを、お客さんに知ってもらえたら嬉しいんです」

 店主の言葉が、真菜の胸に深く染み渡る。


 もう一度、『神鷹』を口に含んでみた。

 最初は少し驚かされた、独特の酸味。誰もが好きになる味ではないかもしれない。けれど、真菜はこの味を、きっと忘れないだろうと思った。

 ふと、今日提出したデザイン案が頭をよぎった。

 落ち着いた配色。整ったレイアウト。誰が見ても不快にならない、無難な仕上がり。

 それなのに、何かが足りなかった。

 自分では気に入っていた大胆な配色を、最後に変更したことを思い出す。少し目立ちすぎる気がして、安全な色に置き換えたのだ。

 あのとき、どうして変えてしまったのだろう。

 もう一度、お猪口の中を見つめる。

 この『神鷹』のように、少し癖があっても、誰かを強烈に惹きつける力。それこそが、自分の表現したかったものではないだろうか。

「……私、もう一度頑張ってみます」

 小さく呟いた言葉に、店主は何も聞かず、ただ「うん」と頷いて、焼き上がったばかりの穴子の白焼きを置いてくれた。

 香ばしく炙られた明石の穴子。サクッとした歯応えと、脂の甘み。それを『神鷹』の酸味がキリリと引き締める。

 お酒は不思議だ。

 ほんの少し前まで、明日のことを考えるのも嫌だったのに。

 真菜はお猪口をそっと傾け、最後の一滴を味わった。顔を上げると、店主が穏やかに笑っていた。

 冷たい夜風の中を歩いてきたことが、ずいぶん昔のことのように思えた。

「ごちそうさまでした。すごく、元気が出ました」

「それはよかった。またいつでも、自分を労いに来てください」


 お会計を済ませ、店を出る。

 夜風は相変わらず冷たかったけれど、さっきよりずっと心地よく感じられた。路地に並ぶ店の灯りが、夜の街を琥珀色に染めている。

 JR明石駅へと向かう真菜の足取りは、驚くほど軽い。

 明日、もう一度イチからデザインを練り直そう。今度は私の「好き」を、もっと詰め込んで。

 そして、それが上手くいった日の夜は、またあの暖簾をくぐろう。今度は、自分への最高のご褒美として、明石の琥珀色の神様たちに逢いに行くために。

(終)

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