眠り姫は空色の校舎で目を覚ます
もし、目を覚ました場所が――
誰もいない学校だったら。
窓の外には、雲ひとつない青空。
廊下には、なぜか小さな雲が浮かんでいる。
時計は、ずっと同じ時刻を指したまま。
そして、一番奥の教室。
そこにあるすべての机が、まるで誰かを待つようにこちらを向いていたら。
あなたは、そこから帰ろうと思うだろうか。
それとも――
誰かが自分を待っているのだと、思うだろうか。
これは、十年間眠り続けた少女が、夢の中の学校で出会った不思議な少女と、失われた記憶を探す物語。
あの日、何があったのか。
なぜ時計は止まっているのか。
そして、黒板に残された、
『まだ帰らないで』
という言葉の意味とは。
これは怖い夢なのか。
それとも、誰かがずっと待っていてくれた場所なのか。
――最後のチャイムが鳴るまで、もう少しだけ、この夢に付き合ってほしい。
目を覚ますと、そこは学校だった。
「……え?」
思わず声が漏れた。
見慣れたような、でも絶対に知らないような校舎。
壁も、床も、天井も。
全部が淡い水色に染まっている。
窓の外には、雲ひとつない青空。
なのに――
「……なんで?」
廊下の真ん中に、小さな雲が浮かんでいた。
ふわふわと、まるで風船みたいに。
「いやいやいや……」
私は目をこすった。
もう一度見る。
……浮いている。
「夢?」
たぶん、そうだ。
だって普通、学校の廊下に雲なんて浮いていない。
そう思った瞬間。
――キーン、コーン……
どこからともなく、チャイムが鳴った。
「……誰もいないのに?」
廊下を見渡す。
人の気配はない。
教室の扉は全部閉まっている。
時計を見ると、針は――8時13分で止まっていた。
「8時13分……?」
なぜか、その数字を見た瞬間。
胸の奥が、ズキッと痛んだ。
「……何、この感じ」
理由はわからない。
だけど、私はこの場所を知っている気がした。
知らないはずなのに。
懐かしい。
そんな矛盾した感覚だった。
私はゆっくりと廊下を歩き始めた。
すると、一番奥にある教室だけ。
扉が少しだけ開いていた。
「……あそこだけ?」
近づく。
ギィ……。
扉を開ける。
「…………」
誰もいない。
机も椅子も、全部きれいに並んでいる。
ただし――
「……なんで、こっち向いてるの?」
全部の机が、私のほうを向いていた。
まるで。
私が来るのを、ずっと待っていたみたいに。
そして黒板には、チョークで文字が書かれていた。
『まだ帰らないで』
「…………」
背中が冷たくなる。
「誰が書いたの?」
返事はない。
当然だ。
誰もいないのだから。
……そう思った。
そのとき。
「――ねえ」
背後から声がした。
「え?」
振り返る。
誰もいない。
「……気のせい?」
再び黒板を見る。
すると。
さっきまでなかった文字が、一文字だけ増えていた。
『まだ、思い出してないでしょう?』
「……っ」
心臓が跳ねる。
私は教室から逃げるように廊下へ飛び出した。
「何なの、ここ……」
走る。
だけど、どれだけ走っても。
廊下の景色が変わらない。
同じ窓。
同じ教室。
同じ浮かんだ雲。
「……嘘でしょ」
気づけば、私は最初の場所に戻っていた。
そして。
廊下の突き当たりに、一人の女の子が立っていた。
私と同じくらいの年齢。
長い髪。
制服姿。
だけど、その顔はよく見えない。
「……誰?」
女の子は答えなかった。
ただ、こちらを見ている。
そして、小さな声で言った。
「やっと来たね」
「……私を知ってるの?」
「うん」
「ここはどこ?」
「学校」
「それは見ればわかるよ!」
思わず声を荒げる。
女の子は少しだけ笑った。
「じゃあ、もっと大事なことを教えてあげる」
「……何?」
女の子が指を差す。
その先には、古い時計があった。
針はやっぱり8時13分を指している。
「この時間から、ずっと動いてないの」
「どうして?」
「あなたが、ここで止まったから」
「……私が?」
その言葉を聞いた瞬間。
頭の中に、知らないはずの光景が流れ込んできた。
暗い空。
雨。
濡れた校舎。
誰かの声。
『先に帰ってて』
『いや、待ってる』
『じゃあ、また明日』
――そして。
時計。
20時13分。
「……っ!」
頭を押さえる。
「何……これ……」
女の子が静かに言った。
「思い出した?」
「……わからない」
「うそ」
「……え?」
「本当は、もうわかってる」
女の子は私の前まで歩いてきた。
近くで見ると。
その顔には、見覚えがあった。
いや。
見覚えがあるなんてものじゃない。
「……私?」
そこにいたのは。
十年前の私だった。
「やっと気づいた」
幼い私は笑った。
「ここは、あなたがずっと待ってた場所だよ」
「……誰を?」
その問いに。
幼い私は少しだけ悲しそうな顔をした。
「帰ってくるって言った人」
その瞬間。
すべてがつながった。
十年前。
私は学校で事故に遭った。
その時間は――20時13分。
私は助かった。
でも。
長い眠りについた。
十年間。
ずっと。
病院のベッドの上で。
そして、この学校は。
私が眠りながら作り出した、記憶の世界だった。
「じゃあ……私、死んでないの?」
「うん」
「じゃあ、どうしてここにいるの?」
幼い私は答えなかった。
代わりに、教室の黒板を見る。
そこには新しい文字が浮かんでいた。
『もう、帰っていいよ』
「……帰る?」
「うん」
「でも……」
私は振り返る。
この学校には、まだ誰かがいる気がした。
ずっと私を待っている誰かが。
「私が帰ったら、この場所はどうなるの?」
「なくなるよ」
「……そっか」
なぜか、少し寂しかった。
「ねえ」
幼い私が言った。
「私、ずっとここにいたの」
「……うん」
「あなたが怖がらないように」
「……」
「だって、あなたはずっと『誰も待ってない』って思ってたから」
胸が締めつけられた。
そうだった。
私はずっと。
自分には誰もいないと思っていた。
だけど。
違った。
母も。
友達も。
そして。
十年前の私自身も。
ずっと、私が帰ってくるのを待っていた。
「……ありがとう」
そう言うと。
幼い私は、初めて泣いた。
「うん」
そして。
「じゃあね」
私は廊下を歩き出した。
後ろを振り返る。
誰もいない。
淡い水色の校舎だけが、静かにそこにあった。
時計を見る。
8時13分。
止まっていた針が――
カチッ。
動いた。
8時14分。
その瞬間。
世界が真っ白になった。
◇
「……お母さん?」
目を開ける。
白い天井。
機械の音。
知らないようで、どこか懐かしい匂い。
そして。
ベッドの横で泣いている母。
「……おかえり」
その言葉を聞いた瞬間。
涙が出た。
「……ただいま」
十年ぶりの言葉だった。
◇
その夜。
誰もいなくなった学校で。
時計は静かに時を刻んでいた。
8時14分。
8時15分。
8時16分。
そして。
誰もいない教室の黒板に。
最後の一文が浮かび上がる。
『もう、帰っていいよ』
その文字を見届けるように。
窓の外を、一つの小さな雲がゆっくりと流れていった。
ここまで読んでくれて、ありがとう。
……と、言いたいところなんだけど。
本当に、この物語はこれで終わったんだろうか。
主人公は目を覚ました。
十年間止まっていた時間も、ようやく動き始めた。
あの不思議な学校も、きっと消えてしまったのだろう。
――たぶん。
そう。
「たぶん」なのだ。
もし、あの学校がただの夢ではなかったとしたら?
もし、あの場所にいたのが主人公だけではなかったとしたら?
そして。
もし、あの少女が主人公の記憶から生まれた存在ではなく――
誰か別の人を待っていたのだとしたら。
……なんて。
今はまだ、答えは秘密にしておこう。
だって物語というものは、最後のページを閉じたあとにも続いているのだから。
もしかすると次にあの学校へ迷い込むのは、主人公ではない誰かなのかもしれない。
時計はもう、8時13分ではない。
だけど。
あの学校には、まだ一つだけ。
開いていない教室が残っている。
その扉の向こうに誰がいるのか。
何を待っているのか。
それは――また別の物語。
……まあ、もし続きを読みたいと思ってくれたなら。
そのときは、もう一度。
あの空色の校舎へ。
「おかえり」




