確定しなかった君へ。
拝啓
ワンルーム六畳。湿気のこもった空気の中で、君はこの手紙を読んでいるはずだ。
2030年8月5日。机には書きかけの退職願と、残高の心許ない通帳。
どうか驚かないでほしい。
……いや、無理な話かもしれないが。
僕は――30年後の君だ。
正確に言えば、「これからの君がどうしても変えられなかった未来」を背負い、そこで立ち止まってしまった人間だ。
未来の技術は、皮肉なほど進歩した。
時間軸に小さな穴を開け、過去の自分へ手紙を送ることさえ可能になった。
だが宇宙のルールは残酷だ。
どれほど未来の自分が過去に干渉しようとも、“確定してしまった事象”だけは変えられない。
――2038年7月6日18時00分。
君は、最初の取り返しのつかないミスを犯す。
その日、空はよく晴れていた。
夏の陽射しがアスファルトを照らし、蝉の声が遠くで揺れていた。
黒々としたスーツに身を包んだ君は会社を後にしていた。
胸の奥には、小さな後悔が沈んでいた。
――「今日こそ言おう」
そう決めていたはずだった。
君の、たぶん最初で最後の想い人。
会社の同僚で、笑う横顔がずっと心に刺さっていた。
けれど、いざ目の前にすると言葉が喉につかえて出てこなかった。
「飲みに行きませんか」
その一言が、どうしても言えなかった。
そして、ほんの数分後。
遠くに人だかりができているのを見つける。
救急車のサイレンが近づき、誰かが名前を呼んで叫び、誰かが泣いていた。
君が駆け寄った時には、すべてが終わっていた。
彼女は車に轢かれていた。即死だった。
世界が音を失ったように静まり返った。
君はただ立ち尽くすことしかできなかった。
その場に座り込み、何度も何度も心の中で繰り返した。
――もし、あの時。
――もし、たった一言でも言えていたら。
あの子は君と飲みに行っていて、
あの道を歩くことはなかったのかもしれない。
勇気が出せずに飲み込んだたった一言。
その後悔は、未来の僕の中で空白のまま固まり、
今もなお、頭の奥にこびりついて離れない。
「ミンミンミンミンミンミン」
あの日の蝉の声だけが、今でも鮮明に聞こえる。
――2044年3月22日22時56分。
スマホに一通のメッセージが届く。
「少し話せない?」
高校、大学と共に過ごした親友からだった。
君にとって、数少ない“何も飾らずに話せる相手”だった。
けれどその夜の君は、仕事を終わらせることに必死だった。
上司からのメールは山のように溜まり、明日の会議の資料もまだ完成していない。
だから君は、深く考えもせずに返信してしまう。
「ごめん! 今忙しいから後でもいいか?」
本当は、少しだけでも話したかった。
けれど、あの時の君は“自分のことで精一杯”だった。
返信を送ったあと、机に戻り、資料作りに没頭した。
そして――そのまま、彼のメッセージのことを忘れてしまう。
翌日も、その次の日も、君は仕事に追われ続けた。
気づけば一週間が過ぎ、
「そういえば、あいつから連絡来てたな」
とふと思い出した時には、もう返信するタイミングを失っていた。
“まあ、また今度でいいか”
そう自分に言い聞かせた。
あいつなら、きっと笑って許してくれる。
そう思い込もうとした。
しかし二週間後、突然の電話で知らされる。
――彼が亡くなった、と。
その瞬間、君の中で時間が止まった。
あの夜の短いメッセージが、
まるで刃物のように胸の奥を切り裂いた。
「少し話せない?」
あれは、ただの雑談の誘いではなかったのかもしれない。
あの時、ほんの五分でも話を聞いていれば、
何かが変わっていたのかもしれない。
未来の僕は、今でもあの通知音を忘れられない。
あれは、君が二つ目のミスを犯した瞬間だった。
――2049年11月18日。
その日、君は三つめのミスを犯す。
誰かを傷つけたわけでも、何かを失ったわけでもない。
ただ、君は“自分自身”を置き去りにした。
仕事の評価を取り戻そうと、終わらない仕事を終わらせようと、
君は毎日終電まで働き、
休日も休むことに「罪悪感」を覚えるようになっていた。
食事は適当になり、
眠りは浅く、
朝はいつも胸が重かった。
それでも君は、「まだ大丈夫だ」と言い聞かせていた。
誰にも弱音を吐かず、
助けを求めることもせず、
ただひたすら、壊れかけた心に鞭を打ち続けた。
本当はもう壊れていたのかもしれないが。
そしてある日、
ふと気づく。
鏡の中の自分が、まるで知らない他人のように見えたことに。
次の瞬間、視界が揺れた。
気がついた時には、君は病院にいた。
過労と鬱。
医者は淡々と告げた。
あの瞬間、君はようやく理解する。
“自分を大切にしないこと”は、
誰かを失うよりも静かで、誰にも気づかれないまま進行する、
最も残酷なミスだということを。
僕がどれだけ叫んでも、僕の視点から過去をいじることはできない。
僕の世界線では、いま書いたミスはすべて「既読」の事実なんだ。
でも一つだけ、たった一つだけ希望がある。
それは未来の僕がまだ知りえない「未読」の事実があるということ。
君にはそれを探し当ててほしい。
僕がこの手紙を送った瞬間、君の世界線は僕の知っているそれとは少しずれる。
僕にはもう変えられない事実を、君は“現実”という特権を持って捻じ曲げることができる。
君がこの手紙を読んでいる「今」は、僕たちにとって二度と戻れない分岐点だ。
だからこそ、君に変えてほしい。
僕ができなかったことを、君にやってほしい。
僕が言えなかった一言を、君に言ってほしい。
僕が拾えなかった声を、君に拾ってほしい。
そして何より、僕が置き去りにしてしまった自分自身を、どうか大切にしてほしい。
君がこれを読んだ後、僕の意識がどうなるのかはわからない。
君があるはずだった未来を変えてしまえば、この記憶を持つ「僕」は消えてしまうかもしれない。
でも、それでいい。それがいい。
僕という“過去の未来”は、君が歩き直すことで静かに終わる。
それは敗北ではなく、再出発だ。
頼んだよ。
2060年の、もう存在しないはずの自分より。
敬具
2060年4月18日




