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S2第四十一章 氷點下四度の北上序列

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

重力が正常な位置へ戻った時、最初に感じたのは解放感などではなかった。

――痛覚ペインだ。

どこかが欠けたわけでも、切り裂かれたわけでもない。ただ、限界を超えた過熱オーバーヒートと、その直後に強制執行された絶対零度の調律チューニング。オーブンに叩き込まれた直後に、極寒の雪原へ放り出されたような、理不尽なまでの「肉体の軋み」が全身を苛んでいた。

宙にはまだ木屑が舞い、床には凍結し砕け散った黒油の残骸が、割れたアスファルトか、あるいは未成熟な内臓の破片のように撒き散らされている。

林雨瞳リン・ユートンが俺の胸に寄りかかり、まだ乱れた呼吸を整えていた。

俺の右手は、まだ彼女の紫色の髪の中に埋もれたままだ。

彼女はすぐには俺を突き放さなかった。ただ俯き、肩を小さく上下させ、その熱い吐息が俺の鎖骨を微かに撫でる。掌の下に感じるのは、彼女の髪の温度。柔らかく、清潔で、先ほどまでの黒油と氷霜が混じり合ったおぞましい泥仕合とは、決定的に断絶した別世界の質感だった。

俺は右手の掌に打ち込まれた魂釘ソウルネイルを一瞥した。

『39.1°C』

「……悪かった」先に口を開いたのは、俺だった。

雨瞳は数秒の沈黙の後、ゆっくりと顔を上げた。サングラスはいつの間にか歪み、鼻筋には木粉がこびりついている。唇は青白く震えていたが、その瞳に宿る光だけは、依然として揺るぎない。

「……貴方が謝る時って、大抵すべてが終わった後よね」

「今回も、そんなところだ」

彼女は俺を見つめ、それから俺の右手を一瞥した。

「それで、その手は……謝罪の印? それとも、次の犯行の準備?」

俺はゆっくりと手を離した。喉の奥が乾ききっている。

「……ミスだ」

「今夜の貴方はミスだらけよ」

彼女は身を起こし、歪んだサングラスを外した。露わになったその瞳は、薄暗い個室の中でどんな刃よりも冷たく光っている。「……けど、まだ生きてる。その運搬効率の悪すぎる悪運に感謝することね」

彼女はそう言い捨てると、個室の奥へと歩き出した。

俺はその後に続き、凍りついた黒油の欠片を踏み砕きながら進んだ。パキパキという乾いた音が、静まり返った部屋に虚しく響く。

個室の中は、もはや無惨な廃墟だった。卓はひっくり返り、すき焼きの鍋からは半ば凝固した割り下が鉄の縁を汚している。だが、あの牛脂と石油が混ざり合った腐臭は、跡形もなく消え失せていた。小雪こゆきが放ったあの一撃が、この空間のすべてをマイナス18度まで叩き落とし、黒油の擬態と揮発を根こそぎ氷封し、砕き散らしたのだ。

彼女は、部屋の最奥に座していた。

赤裸あかだかな足、白い衣、腰まで届く長い髪。白骨の傘はすでに閉じられ、彼女の傍らに古めかしい遺物のように立てかけられている。その表情はなぎのように淡く、この空間を物理的に崩壊させた張本人だとは到底思えないほどだ。

神代彌生じんだい やよいはその隣で膝をつき、小型のセンサープレートで床の破片をスキャンしていた。戦術巫女裝束タクティカル・ミコは灰と返り血に汚れ、それでも彼女の背筋は、雪原に打ち込まれた鉄釘のように一本立ちしている。

「結論から申し上げるわ」彼女は顔を上げずに言った。「……これは純粋な怪異でも、純粋な黒油でも、単なる寄生物でもない。ヴァイスマンの一味は、この地の伝承にある『山姥やまうば』の外殻を汚染体の適応プロトコルとして利用した。都市伝説と土着の妖怪を、意図的に劣化接合ミスマッチさせたのよ」

シキが倒れたテーブルの上にしゃがみ込み、山刀サバイバルナイフの先で黒い油のかさぶたを弄る。

「要するに、ただの雑種ハイブリッドってことだろ」

「ええ、極めて質の悪いね」弥生がようやく顔を上げた。金縁眼鏡の奥の瞳は、刃のように冷え切っている。「厄介なのは、こいつが『学習』することよ。旅館という様式を学び、奉仕という概念を模倣し、『おもてなし』という甘い蜜で獲物を自らの胃袋へと誘い込む。……最悪の擬態だわ」

老高ラオガオは壁際でタバコを咥えていたが、火を点ける気力さえなさそうだった。その顔には、いつもの余裕など微塵もなく、死灰のような疲労がこびりついている。

空気は決して緩んでいない。

ただ、「死ぬ瞬間」が「死に損ないの状態」へと移行したに過ぎないのだ。

弥生がプレートを操作し、ホログラムのデータを投影した。

「残存サンプル、コードB102。そして、小雪こゆきさん……」

彼女は言葉を切り、白い衣の少女へと視線を向けた。その響きは、研究員が希少な標本を分類する時のそれへと変わる。「……先の物理的脆化ぜいか能力、および低温領域における構造安定性を鑑みれば、彼女の脅威度はB105(G)に相当すると推測するわ」

希が鼻で笑った。「胸のサイズの話か、それともヤバさの話か?」

「両者は互いに排他的ではないわ」弥生は平然と応じる。「骨盤の比率、肺活量の拡張性、下肢の保温効率、そして霊圧レイアツの貯蔵量。彼女の形体は明らかに選択的な強化が施されている。単なる成長ではないわ。……機能的設計ファンクショナル・デザインよ」

「……あんた、学術的な話をしてるつもりか?」希が呆れたように目を細める。

「ええ、至って真面目にね」

個室に、奇妙で歪な沈黙が流れた。

そして、雨瞳が口を開いた。

「そこまでよ」

彼女は俺と小雪の間に立ち、静かだが拒絶を許さないトーンで、その場を支配した。

「彼女は標本でもなければ、戦利品でもないわ」雨瞳リン・ユートン弥生やよいを射抜くような視線で制した。「――少なくとも、今はね」

弥生は二秒ほど彼女を凝視し、やがて無機質な動作でホログラムの投影を消した。

「分かったわ。なら言い換えましょう」彼女は淡々と告げる。「彼女は、今回の黒油と山姥の変異体に対し、明確な逆相圧殺を可能にする唯一の寒性存在よ。その事実は、貴方の不機嫌さ一つで変わるものではないわ」

雨瞳は言い返さなかった。ただ、ゆっくりと首を巡らせ、小雪こゆきへとその視線を向けた。

「……貴方は、どう考えているの?」

小雪は瞳を上げた。その眼差しは、雪原に落ちる酷く薄い月光に似ていた。

「あれは……山姥ではありません」

彼女の声は囁くように軽かったが、個室の空気はさらに一段、冷え込んだ。

「少なくとも、貴方たちの書物に記されているような類のものではありません」

彼女の指先が、白骨の傘の柄を愛しむように微かに触れた。

「あれの内部には、別の何かが潜んでいます。油は模倣し、学び、器を借りる。あれはこの山における『旅人を介抱する作法』を学習したのです。だからこそ、先にしとねを敷き、湯を沸かし、扉を開けて貴方たちを招き入れた。……すべては、貴方たちを永遠にその内側へと留めるために」

俺は壁に背を預けたまま、重い溜息を吐き出した。

「……それで、あいつは今、死んだのか?」

「外側の器は砕けました」小雪は言う。「ですが、中の『臭い』はまだ消えていません」

彼女は窓の外を仰ぎ見た。そこには何も映っていない。ただ室内の灯火を反射する、漆黒のガラスがあるだけだ。

「……あれは銀山ぎんざんに留まるつもりはありません」彼女は言葉を継いだ。「あれは、きたを目指しています」

その一言が落ちた瞬間、老高ラオガオがようやく口からタバコを外した。

「北だと?」

小雪は静かに頷く。

「銀山は、あれが『人を介抱すること』を学んだ場所に過ぎません。さらに北には、あれが求めている次の『形状カタチ』が存在します」

個室に沈黙が降りた。

俺は右手の掌を見つめる。魂釘ソウルネイルの熱は、いつの間にか36.5°Cまで下落していた。安全圏に戻ったのではない。ただ、一時的に蓋をされただけだ。

その時、スマホが短く、けれど執拗に震えた。

通常の通知音ではない。システムが発する「警告」だ。

端末を取り出し、画面に浮かび上がった三行の文字列を追う。

『代替ルート更新完了』

『第一接応地点修正:青森あおもり

『特定資産の密封状態が低下中。移動中の封存維持を推奨する』

俺は眉をひそめ、その無機質な文字列を凝視した。

「……何があった?」老高が低く問う。

俺は画面を彼の方へと向けた。

弥生がそれを一瞥し、氷のように冷徹な一言を添える。

「回収したあの『釘』ね。ヴァイスマンがここに埋めた黒油の媒介メディアは、完全には失活していなかった。静置しておけば、かえって再活性化を許すことになるわ」

俺はスマホをポケットに放り込み、ひび割れた床を蹴って立ち上がった。

「……要するに、のんびり湯冷めしてる時間はねえってことだ。目的地は青森。あのアカの他人が、山を丸ごと飲み込む前にあいつの喉元を掻っ切ってやる」

左手の指輪の中で、小雪の気配が静かに、けれど確かに脈打った。

外はマイナス四度。

俺たちの、終わりなき「北上」の幕が上がろうとしていた。

「つまり、」葉綺安イェ・キアンがボルトを引き、乾いた金属音を響かせた。「今夜はここで枕を高くして寝るわけにはいかない、ってことね」

小雪こゆきが俺を見つめ、密やかに囁く。

「……それに、あまりに『献身的』に見える場所には、長く留まらない方がよろしいかと」

その一言が落ちた瞬間、個室の空気は目に見えない扉が閉ざされたかのように、決定的な断絶を迎えた。


AM 01:00 銀山閣 深夜駐車場

夜の銀山ぎんざんは、夕暮れ時よりもさらに「作り物」めいた気配を濃くしていた。

雪の中に二台のハイエースが停まっている。ヘッドライトは絞られ、低い位置にある黄色い灯火が、足元の積雪を濁った白へと変えていた。旅館の軒先に吊るされた提灯が風に揺れているが、本来なら人の温もりを感じさせるはずのそれが、今やただの空虚な形式かたちにしか見えない。

弥生やよいが先頭の車両の傍らで計器を確認していた。外付けセンサーの数値が、一目盛りずつ静かに上昇していく。

「……環境霊圧レイアツ、正常。黒油の残留値は警戒レベル以下よ」

老高ラオガオがスライドドアを開け、中の様子を覗き込んだ。

「……なら、こいつはどう説明するんだ?」

俺もその視線の先を追った。

車内の温度計が示しているのは――『-4°C』。

暖房はとっくに稼働しているはずだというのに。

老高はニコチンガムを噛み潰し、何か汚い罵倒を飲み込むように顎を動かした。最後に出てきたのは、吐き捨てるような一言だった。

「……俺の車は、幽霊物件を運ぶために買ったんじゃねえぞ」

「幽霊ではありません」

小雪の声が、俺の左手の指輪リングから淡い霧のように漏れ出した。

「……ただ、あまりに長くあの中に留まるのが、窮屈になっただけです」

次の瞬間、指輪の表面が氷藍色の微光を放った。

空間が、爪先で薄皮を剥ぐように静かに裂ける。その隙間から小雪が音もなく現れ、赤裸あかだかな足で積雪を踏みしめた。雪が軋む音さえしない。彼女はドアの横に立ち、白衣に冷気を纏わせたまま、俺たちを静かに見守っていた。

「……分かったよ」俺は眉間を揉みほぐした。「つまりマイナス四度は、あんたのお出ましを告げるチャイムってわけか」

「貴方の三十九度よりは、よっぽど風情があっていいわ」

隣に立つ雨瞳リン・ユートンが、冷淡な声で切り捨てた。

俺は彼女を振り返る。

今夜の彼女は、移動に適した濃色のタクティカル・ジャケットに着替え、その紫の髪を一つに束ねていた。瞳に宿る光は、眠気を一切排除した異常なまでの覚醒状態にある。死線を越えた直後特有の、研ぎ澄まされた冷徹な美しさがそこにはあった。

「……まだ根に持ってるのか?」

「私はただ、リスクの源泉を記録しているだけよ」

「……同じことだろ」

「貴方にとってはね」

言い返すのも面倒になり、俺は車尾へと回った。ラゲッジスペースには、金属製の封印箱が鎮座している。三重の呪符じゅふの糸で縛られ、四隅には弥生が新たに施した紙札が貼られていた。

中身は、あの変容空間の核から引き抜いた「釘」――ヴァイスマンが銀山に残した黒油の媒介メディアだ。

封印箱の側面にあるインジケーターが、緑から黄色へと、不吉な色に変わりつつあった。

やはり、俺の勘違いじゃなかったわけだ。

弥生が歩み寄り、グローブをはめた手で箱の天面を軽く叩いた。

「……生きてるわ、これ」弥生やよいがグローブ越しに封印箱を叩く。「正確には、中の黒油がこの一帯の空間構造を『記憶』しようとしている。ここで停滞しすぎれば、奴は既成のルートを辿って、銀山旅館の残骸に再び接続リンクするわ」

「なら、止まらずに走るだけだ」老高ラオガオが吐き捨てる。

「問題は、どこへ向かうかよ」

佐藤拓海がエンジンフードの上に簡易ルートマップを広げた。「原定の道路は二箇所で封雪ふうせつに遭ってる。迂回路を選ぶしかない。蔵王ざおうは中止だ。北線を直走ひたはしり、秋田あきたを抜けて青森あおもりへ繋ぐ」

葉綺安イェ・キアンが地図を覗き込み、眉を上げた。「……青森?」

「ええ」弥生が引き継ぐ。「銀山の汚染モデルは単点に留まるものではなかった。あれは『ノードの機能』を学習している。旅館という場所で『収受レセプション』を学んだのなら、次の段階は、物流のハブや分流、あるいは次のセグメントへの転送機能を模倣するはずよ」

シキが二台目のハイエースに背を預け、山刀サバイバルナイフを収めたまま、獲物を待つ獣の目で言った。

「……要するに、山奥の仲居から、ターミナル駅の駅長にでも出世したいってことか?」

「品のない言い方だけど、方向性は正しいわ」弥生は平然と応じる。

老高が額を揉んだ。「……俺が一番恐れているのは、あいつが出世することじゃない。俺たちが深夜の北上を強行して、あいつの『辞職願』を直接叩き込みに行かなきゃならないってことだ」

牛小琴ニュウ・シャオチンの声が保温瓶の中から籠もった響きで漏れる。「……言っておくけど、私はあの子(雪女)と相席なんて御免だからね」

「アンタのは瓶でしょ、相席ですらないわよ」馬三娘マー・サンニャンが隣の車から鼻で笑う。

「瓶にだってプライドはあるのよ!」

老高は目を閉じた。午前一時の山形で、雪女の座席割り振り問題を解決しなければならない自分の人生を、呪っているに違いない。

弥生は極めて合理的な声で結論を告げた。「理論上、小雪こゆきさんはジョウさんの副槽サブ・スロットに留まるのが最も望ましい。それが現在、最も安定した寒熱対消滅ポイントだからよ」

「――理論上、でしょ。必ずしもそうする必要はないわ」

雨瞳リン・ユートンが間髪入れずに割り込む。彼女は俺を見ていない。その視線は、静かに佇む小雪を射抜いていた。

嫉妬などという生易しいものではない。この異質な存在が俺と深く結びつくことで、チームの力学ルールそのものが書き換えられてしまうことを、彼女の「火眼金睛」が警戒しているのだ。

だが、小雪は淡々と、けれど拒絶を許さないトーンで言った。

「……後部座席に座ります」

半秒の静寂。

「……指輪に戻らなくていいのか?」俺が聞く。

「中に留まり続ければ、貴方の内側に熱が蓄積される速度を早めるだけです」

彼女は俺の右手の掌――魂釘ソウルネイルの在り処を凝視した。「今は一時的に下がっているだけ。……治ったわけではありません」

視線を落とすと、インジケーターの数値が不気味に跳ねていた。

『38.2°C』。

……クソ。またじわじわとせり上がってきやがる。

弥生は表情を変えず、封印箱に新たな護符を貼り付けた。

「結論。一号車には封印箱、佐藤、老高、希。二号車には私、周士達、林雨瞳、小雪、それに牛小琴と馬三娘の容器を。……道中、気温が急激に下がれば小雪の霊力漏出、周さんの体温が39度を超えれば副槽の圧差失衡アンバランスと見なす。異常があれば即座に報告しなさい」

老高が苦笑いした。「……出発っていうより、重病人の転院搬送だな」

「景気のいい言い方がお望みなら、『北上序列ほくじょうシーケンスの再編』とでも呼びなさい」

俺はスライドドアを開け、先に雨瞳を促した。彼女は中列の窓際に、俺との間に意図的な空白を残して座り込んだ。続いて小雪が最後列へと滑り込む。暗闇の中で彼女の白い衣は、まるでけ残った月光のようだった。彼女が乗り込んだ瞬間、車内の窓ガラスが内側から白く曇り始める。

前方の一号車が、短く二回、クラクションを鳴らした。

催促ではない。それは「断絶」の合図だ。

俺たちは、本当に行ってしまう。

エンジンが重厚な唸りを上げ、タイヤが凍てついた雪を噛み砕く。

銀山という胃袋から脱出し、俺たちはさらに深い冬の深淵――青森へと、その針路を向けた。

二台目のハイエースに乗り込んだ瞬間、スマホが再び震えた。

表示されたのは、たった一筋の無機質な文字列。

『北上ウィンドウ残り:11時間42分』

『第一接応地点:青森』

俺はその文字を凝視し、胸の奥が冷たく沈み込むのを感じた。

銀山ぎんざんの悪夢は終わった。

だが、俺たちをこの極寒の夜へと駆り立てる「本番」のカウントダウンは、今この瞬間から始まったのだ。


AM 01:20 山形県北上道路・車内

銀山を離れるや否や、ルームミラーに映っていたあの温泉街の灯火は、猛吹雪の中へと急速に吸い込まれていった。

振り返る者は、誰もいない。

薄情だからじゃない。あんな場所、一度でも長く振り返れば、まだ「もう一泊していけ」と手招きされているような錯覚に陥ることを、全員が本能で理解しているからだ。

老高ラオガオの運転する先行車が、二つの赤い尾灯テールランプを雪煙の中に明滅させている。それはまるでもがき苦しむ鬼火のようだ。俺たちの車はその後を追い、暖房を最大に上げているというのに、車内の温度は低くも高くもない奇妙な停界デッドゾーンに固定されていた。骨まで凍るほどではないが、決して「安らぎ」とは呼べない不快な温度だ。

俺は再び、自分の右手を確認した。

『38.5°C』。

「……眺めていたところで、勝手に下がりはしないわよ」

雨瞳リン・ユートンが隣で告げた。

腕を組み、窓に映る彼女の横顔は、さやに収まったまま冷徹な意志を放つ一振りの刀のようだ。

「……何か名案でもあるのか?」

「ええ」彼女は断言する。「二度と、何でもかんでも自分の中に溜め込まないことね」

俺は力なく、自嘲気味な笑いを漏らした。

「……その台詞、まずは後ろの『ソウルネイル』に言ってやってくれよ」

「あの釘は口答えをしないけれど、貴方はするわ」

俺は彼女の方へ顔を向けた。

「……つまり、俺を先に『処理』したいってことか?」

「……いつだって、そう思っているわよ」

この女の言葉は、いつ聞いても死刑判決の読み上げに最適だ。

言い返そうとした時、後部座席から微かな布擦れの音がした。最後列に座る小雪こゆきは、石像のように微動だにせず窓外を見つめている。時折、対向車のライトが彼女の睫毛まつげに触れ、淡い白光を走らせていた。

弥生やよいはその前列で、タブレットを操作しながら銀山でのデータを整理している。

「コードB102は封印完了。当面は現状維持とするわ」彼女は事務的に記録を続ける。「銀山変異体のキーワードは、旅宿、介抱、汚染、そして模倣。これらを踏まえた北上の目標地点は――」

「……青森あおもりそのものではありません」

小雪が突如として口を開いた。

弥生の指が止まる。

俺も、思わず彼女を振り返った。

小雪の視線は依然として、何も見えないはずの暗澹あんたんとした夜色に向けられたままだ。

「貴方たちが今向かっているのは、単なる『街』ではないのです」彼女の声は低く、そして重い。「……そこへ至るまでの『みち』そのものが、すでに何者かに触れられています」

老高のテールランプが雪の向こうで鋭くカーブを切った。俺もハンドルを回し、タイヤが積雪をし潰す鈍い音が、車内の沈黙をより一層重く引き摺り出す。

「……どういう意味だ?」

「街はただのうつわに過ぎません」小雪はゆっくりと言葉を紡ぐ。「……路を先に侵食するのは、場所の意志ではなく、より巨大な『意志』です」

その一言に、博識な弥生でさえ沈黙した。

吹き出し口から漏れる暖房の駆動音だけが、虚しく響く。

数秒の後、保温瓶の中から牛小琴ニュウ・シャオチンが怯えたような声を上げた。「……今の言葉、ひどく不穏に聞こえるんだけど」

「あんたにしては、まともな直感ね」馬三娘マー・サンニャンが隣の車から通信越しに冷たく吐き捨てた。

雨瞳は霊体たちの雑談を無視し、真っ直ぐに小雪を問い詰めた。「……つまり、黒い油の狙いは青森への定着ではなく、青森が持つ何らかの『機能』を奪うことだと言うの?」

小雪はようやく視線を戻し、静かに頷いた。

「……ええ」

小雪は雨瞳リン・ユートンを見つめ、珍しく僅かな「真剣」をその瞳に宿した。

「……銀山のあの異形は、いかにして人を『屋敷の中』に留めるかを学んでいました」彼女は淡々と、けれど残酷な予見を口にする。

「……ですが北へ向かう奴が次に学ぶのは、留めることではありません。『受容し、分流し、送り出す』ことです。そこでは人は自ら現れ、列に並び、次の行程(路)を待ちます。奴がその『様式フォーム』さえ正しく模倣してしまえば、もはや獲物を追い回す必要すらなくなるのです」

彼女の言葉を聞きながら、俺の胃の底は不快なほどに引き絞られた。

こういう理屈が一番、性質タチが悪い。

それは次の戦いが単なる殴り合いではなく、俺たちの目の前にある日常の風景――バス停、待合室、カウンター、誘導灯、あるいは道案内をしてくれる親切な誰かまでもが、俺たちを「処理」するための器官に変貌している可能性を示唆しているからだ。

スマホの画面が、また無機質な光を放った。老高ラオガオから転送されてきたリアルタイムの路況データだ。

『代替ルート適用済み』

秋田縦貫あきたじゅうかん区間、風切かぜきり増強』

青森あおもり接応ウィンドウ、スタンバイ維持』

大湊おおみなと基地、後送こうそう終点変更なし』

俺は最後の一行を、穴が開くほど見つめた。

大湊おおみなと基地」

その名が出た瞬間、事態のスケールが塗り替えられた。

青森は中継点だ。北上する旅路の中で、人を一度飲み込み、そして送り出すための「ゲート」。

だが、大湊は違う。「軍港」という言葉には、おもてなしの欠片もありはしない。そこにあるのはただ一つの冷徹な結論だ。――事態の結末は、より「硬い場所」でしか収束できないと、誰かがすでに予測しているということ。

「……何を考えているの?」雨瞳が唐突に聞いてきた。

「……俺たちがトラブルを片付けに行っているのか、それとも巨大なトラブルの一部になりに行っているのか、考えてたところだ」

「両者は互いに排他的ではないわよ」

俺は力なく笑った。

「……最近のあんた、その台詞がお気に入りだな」

「……最近の事象が、すべてそうなっているからよ」

前方の車両が右のウインカーを出した。

俺もそれに合わせ、ハンドルを切る。車体が微かに揺れ、タイヤが雪を噛む。窓の外の吹雪は激しさを増し、温泉街の灯りから遠ざかるほどに、世界はより深く、果てしない「黒」へと沈んでいく。

俺はシートに背を預け、一度だけ目を閉じた。

掌に残る雨瞳の髪の温もりと、左手の指輪から伝わる小雪の氷のような拍動。二つの相反する感触が俺という一点で結ばれ、別々の方向へ俺の魂を引っ張り合っている。

……最悪だ。だが、この不快感だけが、今や俺にとって唯一の「現実」だった。

「……ジョウ・シーダー」雨瞳が、再び俺の名を呼ぶ。

「なんだよ」

彼女は俺を見ず、ただ前方の二つの赤い鬼火を見つめていた。

「銀山の一件は、まだ精算が終わったわけじゃないわ」彼女の声は低い。「……けれど青森に着くまでに、自分を整えておきなさい」

俺は沈黙し、しばらくしてから聞き返した。「……それ、心配してくれてるのか?」

「……警告よ」

「そりゃ助かる。あんたのままで安心したよ」

彼女の口角が、ほんの一瞬だけ震えた。微笑わらいかけたのか、それとも。

後部座席から、小雪が密やかに囁く。

「……この先は、さらに冷え込みます」

俺は目を開き、フロントガラスの向こう側、車光に切り裂かれた一本の白い道を見た。

右手の魂釘ソウルネイルが、その予言に呼応するように数値を跳ね上げる。

『39.1°C』。

銀山の熱ではない。

北から這い寄ってくる、未知の「熱」だ。

俺は不意に理解した。本当に厄介なのは、一軒の旅館でも、山姥の皮を被った怪異でもない。

銀山を離れた瞬間、もっと北にいる「何か」が、俺たちが向かっていることをすでに知っているということだ。

あいつは山の中で獲物を待ち伏せたりはしない。

人が集まり、人を解き放ち、人が自らその流れ(システム)の中に身を投じる場所で――静かに待っているのだ。

吹雪が視界を遮り、二台のハイエースは白銀のノイズを切り裂いて進む。

誰も、もう口を開かない。

北上序列ほくじょうシーケンス

その真の意味での幕が、今、上がろうとしていた。


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