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特別編〈不融雪〉

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

シーン1:〈余熱よねついま退しりぞかず〉


夜の湯から戻って以来、どうにも自分がまだ湯船の中に浸かっているような感覚が抜けない。

それは、眠気を誘うような心地よい微温(ぬるま湯)などではなかった。熱が度を越して、全身の組織が蒸し上げられ、開ききったまま元に戻らなくなったような――そんな不快な残熱だ。旅館の個室は申し分なく静まり返り、暖房は安定した温風を吐き出し、畳は乾き、襖も固く閉ざされている。廊下を通り過ぎる足音さえも遠く、理論上、このクラスの客室なら、一人の人間を静寂の夜の内側へと完璧に収容できるはずだった。

だが、俺にはそれができなかった。

ベッドの縁に腰を下ろし、上着を放り出す。はだけた襟元から覗くうなじや鎖骨には、薄っすらと汗の膜が張り付いている。派手な発汗ではない。だが、それがひどく煩わしい。まるで体内の奥深くに消し忘れた小さな炉があるかのように、骨の隙間に沿ってじわじわと熱が焙り出されてくる。喉は乾き、胸の奥が昂ぶり、呼吸するたびに自分にしか分からない熱気が鼻腔を抜けていった。

俺は右手を持ち上げ、魂釘ソウルネイルに目を落とす。

『38.3°C』

上出来だ。まだ燃えてやがる。

こいつはもう単なる警報器じゃない。俺の命にへばりついた「体温計」だ。普段大人しい時はただの死鉄しがねの塊だが、周囲の状況が狂うか、俺自身の状態が狂うか、あるいはその両方か――そうなれば、こいつは真っ先に輝き出す。まるで職業倫理の固い看守のように、「おめでとう、また厄災アンラッキーだ」と告げてくるのだ。

右手を下ろし、無意識に左手の指輪リングを弄る。

紫色の石の面は冷たく、静まり返っている。

だが、その静寂こそが苛立ちを加速させた。静かだからといって、中身が空だとは限らない。むしろ、中にいる「彼女」が、俺以上に「声を出すべきではない瞬間」を熟知しているという証左あかしでもあった。

ベッドの柱に背を預け、二秒ほど目を閉じる。

脳裏には、先ほどの露天風呂の情景がこびりついて離れない。白く濁るほどの湯気、肌を刺すような外気の低温、空間の端が誰かに折り曲げられたかのような異様な違和感。そして、白すぎて汚らわしささえ感じる、あの姿。

寒気の中から彼女が現れた時、それは誘惑などではなく、屋根に積もりすぎた雪が音もなく崩れ落ちてくるさまに似ていた。もう二度と「なかったこと」にはできないと、本能が理解させられるほどの質量。

俺は襟元を掴み、布地を肌から引き剥がそうとする。

無駄だった。

一度汗を吸った衣類は、どれほど上質な素材だろうと、自分の体が発熱し続けている事実をより鮮明に意識させるだけだ。胸元、肩周り、腕の内側。すべてが逃げ場のない「乾いた熱」に侵されている。あの温泉で起きた寒暖の衝突は終わってなどいない。場所をこの部屋に移し、より静謐で粘り気のある形へと変貌しただけだ。

その時、左手の指輪が微かに脈打った。

明滅ではない。それは「呼吸」に近かった。

淡い氷藍色アイスブルーの光が指輪の縁から溢れ出し、指の節々に沿って広がっていく。まるでガラスの向こう側から誰かが吐息を吹きかけたかのように、極薄の霧が層を成し、やがてその霧が光へと圧縮されていく。

俺が指輪を見つめ、何かを口にするよりも早く、部屋の空気が変質した。

エアコンの乾燥した冷気でも、襖の隙間から漏れる山風でもない。もっと近く、もっと遅く、そして理不尽なまでの「寒」。それは外から吹き込んだのではなく、俺の手の中から生えてきたのだ。手の平、手首、前腕へと一寸ずつ這い上がり、ついには開いた襟元から侵入してくる。汗ばんだ鎖骨を撫で、胸元に残る熱を、優しく、だが逃さぬように抑え込んだ。

俺は反射的に息を呑む。

冷気が肌を擦過した瞬間、襲ってきたのは心地よさではなく、脳を痺れさせるような「覚醒」だった。

そして、彼女は現れた。

大げさな空間の裂け目も、怪異じみた騒音もない。ただ、部屋の照明が一段階ほど不自然に翳り、畳の端に白い人影が落ちただけだ。

長い髪、白い衣、そして赤裸あかだかな足。雪の中から直接踏み出してきたかのように、彼女の影は誰よりも淡い。俺から二歩ほど離れた場所に立つその姿は、今現れたというより、最初からそこにいたのに俺が気づかなかっただけのように見えた。

小雪こゆきが、俺を見た。

視線はまず右手の甲に落ち、次いで上へと這い、汗で色濃く染まった襟元の布地で止まる。最後に、俺の顔へと戻ってきた。

彼女の視線は独特だ。品定めでも、誘惑でもない。

ただ、目の前の「所有物」が焼き切れていないかどうかを、精密に確かめるような眼差し。

「……貴方は、まだ熱いのです」

彼女が口を開く。

その声は高くもなく、柔くもない。窓の外の積雪が木の手すりを圧するように、重くはないが、その感触を木材の芯まで刻み込ませるような響きだった。

「あんたのおかげで、まだ生きてるよ」

俺はそう毒づいた。だが、彼女はその言葉を拾おうともせず、ただ一歩、前へと踏み出してきた。

酷く緩慢な動作。

だが、その一歩だけで距離は決定的に埋まった。彼女の睫毛の端に宿る、淡く、儚い霜の欠片かけらが見えるほどに。彼女が纏う「冷気」は、香水の類ではない。古い木材に雪が深く降り積もった後にのみ漂う、潔癖で、薄く、それでいて微かな湿り気を帯びた「冬の匂い」だ。

彼女が近づくと、エアコンの温風さえもが恐縮したように道を譲り、部屋の空気は彼女が持ち込んだ低温によって一寸ごとに凝縮されていく。

「……サブ・スロットが不安定なのか?」俺は指輪を見下ろしながら聞いた。

「不安定なのではありません」彼女は言った。「貴方が熱すぎるのです」

「それも俺のせいかよ?」

「ええ」彼女の返答は凪のように平穏だった。「私をあの中に収めた時、そこはまるで、まだ焼きの入ったままの熱い鉄箱かなばこのようでしたから」

形容が失礼すぎると反論すべきか、あるいは彼女の指摘が正しいと認めるべきか。俺は一瞬、答えに窮した。

小雪は俺の目の前に立ち、右手のリベットを伏し目がちに見つめる。透き通るほど白い指先が持ち上がり、触れようとして、あるいは躊躇うように空中で止まった。彼女は無意味な思わせぶりをする性格ではない。だからこそ、その「停滞」が余計にこちらの意識を逆なでする。彼女が手を動かす時は、いつだって手加減など存在しないからだ。

「……何だ?」

「焼き切れてしまわないか、確かめるだけです」

「検品でもしてるみたいな言い草だな」

「似たようなものです」

言い終えるが早いか、彼女の指先が俺の頸筋くびすじに触れた。

その瞬間、俺の身体は弾かれたように強張った。

痛みではない。

――あまりにも、冷たすぎたのだ。

それは単に冷えた手が肌に触れたというレベルではない。深雪の底から剥ぎ取ってきたばかりの「薄氷」を、熱を持ち始めた頸動脈へ直接押し込まれたような衝撃。冷徹な感覚が肌に密着し、さらに内側へと浸透していく。過熱していた頸周りの皮膚は一瞬で引き絞られ、呼吸さえも半拍ほど強制的に止められた。

俺はベッドの縁を掴み、掠れた声で絞り出す。

「……あんた、手を出す前に一言くらい断れないのか?」

「断っても、貴方は熱いままです」

「少なくとも心の準備くらいはできる」

「死んだわけではないでしょう」

「慰めになってねえよ」

彼女は俺の言葉を無視し、指先を頸筋に沿ってゆっくりと滑らせた。鎖骨のすぐ傍――そこは、俺の身体の中でも特に熱が籠もっていた場所だ。触れられた瞬間、肩が跳ねる。

「冷」と「熱」が真正面から衝突する感覚は、筆舌に尽くしがたい。それは鎮痛でも緩和でもなく、相反する二つの概念を無理やり力で抑え込み、どちらが先に屈するかを競わせるような拷問に近い快感だった。

皮肉なことに、俺の身体はあまりにも素直な反応を返してしまう。

冷気に追い詰められた汗が、かえってその存在を主張し始めた。皮膚の表面に細かな粟立ち(鳥肌)が走り、鎖骨の下に淀んでいた鬱熱は半分だけ抑え込まれ、残りの半分は胸腔を伝ってじわじわとせり上がってくる。雪に蓋をされた火が消えるどころか、より深く、内側で燻り始めたのだ。

「……あんたは助けに来たのか、それとも仕返しに来たのか。どっちだ?」

俺は彼女を睨みつけるように問うた。

小雪はようやく視線を上げ、俺を見た。その瞳は淡く、けれど空虚ではない。彼女に見つめられると、自分という存在が雪に覆われ、消えゆくのを待つだけの「物体」になったような錯覚に陥る。

「どちらでもありません」彼女は言った。「ただ、私が出てこなければ、貴方は今夜……きっと眠れないと思っただけです」

俺は口角を皮肉げに歪めた。

「あんたが出てきてから、余計に眠れる気がしなくなったんだがな」

その言葉を最後に、部屋に沈黙が降りた。

小雪はすぐには言い返さず、ただ俺を見つめていた。その視線は半ばはだけた襟元、そして彼女の指が触れた頸筋へと静かに落とされる。冷気が残るその場所は、自分の吐息が触れるだけで過敏に反応するほど、剥き出しの熱を帯びていた。

彼女が、さらにもう一歩踏み込む。

もはや二歩の距離など残っていない。

白い衣の裾が俺の膝に触れ、垂れ下がった長い髪が、霧のような涼気を伴って俺の肌を撫でる。

彼女は俺を見下ろしていた。容器を焼き切る寸前の、制御不能な「火」を見つめるように。

静かで、冷たく、そして酷く専念いちずな眼差しで。

「……ならば、眠らなければ良いのです」

彼女が、密やかに囁いた。

「……まずは、この熱を抑えろ」

俺は彼女を見上げ、喉仏を揺らした。

この女――いや、彼女をまだ「女」という枠組みで語れるのならだが――の最も厄介な点はここにある。その言動には、人を弄ぶような色気エロティシズムなど微塵も含まれていない。だが、それゆえに、彼女をただの「消火装置」として扱うべきか、あるいは事態をより泥沼化させる別の「災厄」として警戒すべきか、その判断を狂わせる。

視線を落とし、右手の甲を確認する。

魂釘ソウルネイルに刻まれた数字が、一刻一刻と刻みを下ろしていく。

『38.1°C』

……皮肉なことに、効果は覿面てきめんだった。

二秒ほどの沈黙の後、俺は顔を上げた。

「いいだろう」俺は吐き捨てるように言った。「だが、はっきりさせておくぞ。これはあくまで『調律チューニング』だ。それ以上の意味は持たせない」

小雪は小首を傾げた。なぜ俺が、これほどまでに執拗に事象の定義を細分化しようとするのか、理解できないといった様子で。

そして、彼女は淡々と、無慈悲な正論を返してきた。

「……生者あなたたちは、物事に名前を付けて自分を納得させるのが、本当にお好きなのですね」

その言葉に、俺は二の句が継げなくなった。

彼女はただ、静寂そのものとなって俺の前に佇んでいる。頸筋に触れた指先の冷たさは、退く気配すら見せない。

部屋の暖房は乾いた音を立て続け、窓の外では雪の声が微かに響く。襖の向こうの廊下は、もう誰も通りかからないのではないかと思えるほど静まり返っていた。だが、俺は知っている。この静寂は終わりではなく、夜がまだ「裏返って」いないだけに過ぎない。

銀山ぎんざん山姥やまうばの皮を被っていた「あれ」は砕け散った。だが、俺の身体に残る熱も、指輪に宿る雪も、そして北の地からじわじわと鎌首をもたげつつある「何か」も、まだ完全に退いたわけではないのだ。

今はただ、目の前の事象を処理するしかない。

人間とは思えないほど冷たく、けれど俺の膝元に寄り添い、この熱を一寸ずつ押し殺していく――この「雪」という名の怪異を。





シーン2:〈副槽サブ・スロットの試泊〉

「まずは熱を抑える」――そう彼女が口にした時点で、今夜が安穏あんのんとしたものにならないことは覚悟していた。

問題は、今の俺には選り好みをする権利などないということだ。

俺はベッドの縁に腰掛け、小雪は俺の膝元に立っている。指先はまだ頸筋に押し当てられたままだ。その「冷」はもはや皮膚の表面に留まらず、脈動に沿って一滴ずつ、確実に浸透していた。血管に薄い氷の破片を貼り付けられ、中の熱を無理やり減速させられているような感覚。右手の甲の『魂釘ソウルネイル』は鈍い光を放ち続け、数字は38.3°Cから38.1°Cへと落ちたが、それは決して「安全圏」への脱出ではない。火勢が明火からくすぶるような悶焼もんしょうへと切り替わっただけだ。

「……あんた、いつもそうなのか?」俺は聞いた。

「何がでしょう」

「先に触れてから説明するやり方のことだ」

小雪は俺を見つめた。その表情はどこまでも淡い。

「先に説明してしまえば、生者あなたたちは逃げるでしょう?」

言葉に詰まった。皮肉なことに、彼女の言うことは常に理に適っている。

彼女は雨瞳リン・ユートンのように一言で相手を三回殺すタイプでもなければ、シキのように露骨に挑発してくるタイプでもない。もっと性質タチが悪い。その口調があまりにも平穏すぎて、追い詰められている自覚を持たせないまま、逃げ場のない場所へとこちらを誘い込むのだ。

「わかったよ」俺は彼女の手を見下ろして言った。「それで、どの程度まで抑えるつもりだ?」

「貴方がどこまで耐えられるか、次第です」

「……随分と危うい言い方だな」

「貴方の存在そのものが、今は危ういのですから」

そう答えると、彼女は頸筋から指を離した。

その冷気が去った瞬間、あろうことか俺は本能的に「惜しい」と感じてしまった。次の瞬間には、温泉に長く浸かりすぎて脳までふやけたんじゃないかと自分を疑い始めたが。

だが、小雪は俺に思考を巡らせるいとまを与えなかった。

彼女は俺の隣に腰を下ろした。突き放すような距離ではない。同じベッドの縁、俺が少し首を傾ければ、彼女の肩のラインと垂れ下がった髪が視界を埋め尽くすほどの至近距離だ。白い衣が彼女の肢体に寄り添う。布地は軽やかだが、決して扇情的なデザインではない。それなのに、現代とも、この旅館とも、そして正常な室温とも断絶した彼女の「冷たさ」が、嫌が応にも存在を主張してくる。

ベッドの縁が微かに沈んだ。

彼女が近づいた瞬間、暖房はその存在意義を失い、吹き出す風はただの無機質な背景へと成り下がった。俺の左半身が、まず彼女を感知する。腕の外側、肩、ももの横。彼女が纏う低温が、静かに、けれど逃れようのない質量を持って密着してくる。

副槽サブ・スロットは、部屋ではありません」彼女が囁く。

「分かってるよ」

「貴方にとってはそうでしょう。ですが、私にとってはそれ以上です」

俺は横を向いた。

「……居心地が悪いのか?」

「そうとも言い切れません」彼女は伏し目がちに、血の気の失せた白い指を自らの膝に置いた。「ただ、あまりに狭く、そして熱すぎる。呼吸する鉄の箱に閉じ込められているようです」

「……あんた、本当に失礼な比喩が好きだな」

「正確だからです」

口角が引きつったが、反論はできなかった。

指輪の副槽など、もとより快適な住環境として設計されたものではない。それは収納であり、転送路であり、封印のための仮初の檻だ。寒冷な性質を持つ怪異を一時的に繋ぎ止めておけるだけで、システムとしては及第点だろう。ただ、小雪という存在は、そこに詰め込める他の「収容対象」よりも明らかに厄介だった。彼女は単なる残魂でも、一方的に使役される霊体でもない。彼女には意思があり、自我があり、そして自然現象に近いレベルの「低温」という本能が備わっている。

俺は膝に手を突き、溜息を吐き出した。

「それで、あんたが今出てきたのは、中が熱すぎたからか?」

「それが半分」

「残りの半分は?」

彼女が、ゆっくりとこちらを向いた。

物理的な距離が、もはや「他人」のそれではない。

睫毛まつげの影に潜む淡い陰影までもが判別できるほど、距離は失われていた。彼女の唇は薄く、雪原に最初の一歩を刻む前の、穢れなき霜の層を思わせる。感情の起伏を削ぎ落としたその眼差しは、あまりに確かな重みを持って俺を射抜き、視線に「触れられている」という事実を無視することさえ許さない。

「もう半分は、貴方です」彼女は言った。

喉仏のどぼてなが、無意識に上下する。

「……俺が、どうした」

「貴方が外側へと燃え広がっているのです」彼女はなぎのような平穏さで告げる。「サブ・スロットは貴方に密着している。だから、中の私には、貴方の発熱が誰よりも先に伝わってくるのです」

……その言い草は、あまりに不穏すぎた。

それは「肌を合わせる」という行為よりも、さらに深い階層での密着を意味している。彼女が指輪の中に留まっている限り、俺の熱がどう脈打ち、どう広がっていくのかを、彼女は俺自身よりも先に知ることになるのだ。

二秒の沈黙。俺は理性を繋ぎ止めるために、あえて軽口を選んだ。

「なるほど。つまりあんたは今、メンテナンス(修理)に出てきたってわけか」

「その解釈で間違いありません」

「アフターサービスが万全で助かるよ。礼でも言った方がいいか?」

「不要です」彼女は淡々と応じる。「ただ、貴方が自分を焼き切ってしまわないようにすれば、それで」

言い終えると、彼女はさらに距離を詰めてきた。

今度は錯覚ではない。

彼女の膝が、俺のももの横に微かに触れた。白い衣の裾が重なり合い、二人の間に薄い雪の層が堆積したかのような錯覚に陥る。彼女が纏う「冷」が、その僅かな隙間からじわじわと滲み出し、腿を、腰の曲線を掠め、最後には胸元を音もなく圧迫していく。それは単なる冷たさではない。身体が否応なく彼女の「位置」を意識させられるような、逃げ場のない圧迫感だ。

後退しようとしたが、背中にはベッドの支柱が立ちはだかっていた。退路は断たれている。

小雪はすべてを見透かしたように、伏し目がちに俺を見つめると、極めて自然な動作で手を伸ばした。

そのてのひらが置かれたのは、左胸の、心臓に近い場所だ。

微かに汗ばんだシャツを隔てて、直接。

俺の全身が、瞬時に硬直した。

「……どこを触ってやがる」

「最も、熱い場所です」

「心臓の真上だぞ、ここは」

「知っています」

「知っててやってるのか?」

彼女はついに視線を上げ、俺を真っ向から見つめた。その声には、やはり何の熱もこもっていない。

「……では、どうしろと? 遠隔で処理してほしいとでも?」

言い返せる言葉が、見つからなかった。

彼女の掌は、先ほどの指先とは性質が異なっていた。指先が鋭利な「薄氷」だとするなら、掌は一面に降り積もる「重雪」だ。冷たさはより厚く、より緩慢に、シャツの繊維を透過して内側へと浸透してくる。汗を吸って肌に張り付いた布地の質感が、彼女の冷気に追い詰められることで、かえって生々しく皮膚へと刻み込まれる。その冷えが、芯に燻る鬱熱うつねつを四方へと散らしていく。

思わず深く息を吸い込み、肩に力が入った。

「力を抜いてください」

「……胸元に氷塊を押し付けられて、リラックスできる奴がどこにいる」

「私は氷ではありません」彼女は囁くように言った。「貴方の方が、焼きすぎた鉄のようです」

「そいつは、どうも。相変わらず失礼な奴だ」

愚痴をこぼしても、彼女の手が離れることはなかった。それどころか、その掌は胸元の熱を追うようにゆっくりと上方へ滑り、鎖骨の縁で止まった。はだけた襟元から剥き出しになった肌に、まだ乾ききらぬ汗が浮いている。そこに彼女の冷気が触れた瞬間、俺の呼吸は乱れた。

冷たい。

あまりに、冷たすぎる。

だが、その冷気は単に拒絶を誘うものではなかった。肌に触れるたびに感覚を麻痺させ、さらに深い場所にある熱を強制的に引き摺り出す。雪で蓋をされた地面の下から、蒸気が噴き出すような感覚だ。鎖骨、頸筋、胸元。すべてがその「冷熱の交錯」に支配されていく。皮膚の下で相反する二つの温度が互いを喰らい合い、どちらも引こうとしない。その摩擦が、自分の呼吸、鼓動、そして――彼女がどれほど近くに座っているのかを、残酷なほど鮮明に際立たせていた。

俺は顔を背け、低い声で漏らした。

「……小雪」

「はい」

「あんた、本当にこれが『調律』か?」

「はい」

「俺をサブ・スロットに押し込めたことへの、腹いせじゃないだろうな」

彼女は沈黙し、一瞬だけ思考を巡らせたようだった。

そして、こう告げた。

「……もし私が報復を望むなら、今、ただ座っているだけでは済ませません」

その一言は、下手に認められるよりもタチが悪かった。

俺は彼女を見つめ、そのかおに微かな「悪意」の兆候を探したが、何も見つからない。彼女はただ、事実を陳述しているだけなのだ。だからこそ、どう対処すべきか分からなくなる。

暖房の温風、窓外の風の音、そして襖の向こうの無音。世界がこの距離を黙認し、雪の中から現れた異形が俺の隣に座り、不条理な低温で俺の熱を削いでいくのを許容している。

黒化した鋲の数値が、また一つ跳ねた。

『37.9°C』

その数字を見つめながら、俺は不意に悟った。

今夜、最も恐るべきは銀山の怪異でも、黒油でも、副槽に収まった小雪でもない。

――これほど近くに座る彼女を、俺の身体が「受け入れ始めて」いることだ。

小雪は俺の視線を追い、その数値に目を留めると、指先を僅かに止めた。

「……下がりましたね」

「見ればわかる」

「ならば、手法は間違っていないということです」

「やり方はな。だが、代償が高すぎる」

「私が冷たすぎると?」

「……あんたが近すぎるんだよ」

その一言が落ちた瞬間、部屋に、刺すような静寂が満ちた。

彼女は、すぐには退しりぞかなかった。

ただ俺を見つめ、睫毛まつげを僅かに伏せる。それは水面に雪が落ちる直前の、刹那の静止に似ていた。次いで、彼女は微かに身を乗り出した。額から零れ落ちた一房の髪が、俺の肩を掠める。その冷気は糸のように細かったが、これまでのどんな接触よりも俺をさいなんだ。

なぜなら、それはもはや単なる「接触」ではないからだ。

彼女という存在そのものが、俺の呼吸の領分を侵食し始めたのだ。

「……ですが、貴方は逃げませんでした」

彼女の声は低かった。

あと数センチ顔を近づければ、彼女が吐き出す氷のような吐息を直接受けてしまうほどに。

俺は彼女を見つめ返したが、喉は砂を噛んだように乾いていた。

「……俺の背後はベッドの柱だ。逃げ場なんてねえよ」

「それは、ただの理由(言い訳)です」

「じゃあ、なんだってんだ?」

彼女は静かに、凪のような声で言った。

「……貴方も理解しているはずです。今ここで退けば、熱がまた跳ね上がるということを」

その一言が落ちた瞬間、もう取り繕うことは不可能だと悟った。

彼女の言う通りだったからだ。

逃げたくなかったわけじゃない。逃げられなかったのだ。距離の問題ではなく、この「局面」からだ。彼女が離れれば、サブ・スロット内の寒熱バランスが崩壊するかもしれない。俺自身の異常高熱が暴走するかもしれない。今確かな事実はただ一つ――彼女がここに座り、俺の胸を抑え、冷気が確実に浸透している間だけ、魂釘ソウルネイルの数値は確実に下がっているということ。

この「合理性」こそが、最も厄介だった。

理屈が通っているというだけで、あらゆる不条理が「不可避の選択」へと書き換えられてしまう。

俺は一度目を閉じ、肺の中の熱を吐き出した。

「……分かったよ。今夜は、そこにいろ」

小雪は肯定も否定もしなかった。

ただ、胸に置いた手に再び確かな重みを込め、音もなく寄り添ってきた。

圧し掛かってくるような無粋な密着ではない。肩と肩の間を隔てていた僅かな「空気」が消失する程度の、密やかな接近。だが、それだけで俺の左腕は強張った。衣類を透かして伝わる彼女の冷気は、繊細で、薄く、それでいて逃げ場を一切与えない。俺の熱は彼女に追いつめられ、身体の奥深くへと縮こまっていく。胸の奥へ、鼓動の中へ。心拍の音だけが、皮肉なほど鮮明に脳内に響いた。

彼女は伏し目がちに、俺の胸の内で燃える「熱」を聴いているようだった。

俺は正面のふすまの木枠を凝視し、彼女がどれほど近くにいるのかを直視しないよう自分に強いた。

数秒の後、彼女が密やかに囁く。

「……まだ、足りません」

眉間が跳ねた。

「……何が足りないって?」

「貴方の内側の熱が、まだ上へとせり上がろうとしています」

彼女は言葉を切り、鎖骨の縁を極めて微かに圧した。

「……これでは、表面を抑えているに過ぎません」

俺はゆっくりと、彼女へと首を巡らせた。

「……それで?」

小雪が顔を上げる。

感情を削ぎ落としたはずの淡い双眸が、先ほどよりもさらに近くにある。

「ですから、」彼女は言った。

「……今夜は、もう少し長く、私を側に置くべきです」




シーン3:〈不融雪ふゆうせつ、あるいは境界の喪失〉




今夜は長く側にいろ――そう彼女が告げた時、俺の最初の反応は言葉ではなかった。

さらに半寸はんすん、彼女が近づいたことを肌で感じ取ったのだ。

大げさな動作ではない。ただ肩のラインが俺の方へ傾き、胸に置かれた掌がより確かな重みを持ち、膝と腿の間に辛うじて残っていた「空気」が完全に押し潰されただけだ。だが、人間同士の距離というものは、派手なアクションで決まるわけじゃない。そのわずか数センチの差が、すべてを「近くに座っている」から「退くことができない」という逃げ場のない関係へと変質させる。

俺の呼吸が、半拍ほど乱れた。

彼女が重いわけでも、無理やり押さえつけているわけでもない。むしろ、その逆だ。彼女はほとんど力を使っていない。だが、彼女が纏う「冷気」があまりに純粋で、完成されているがゆえに、ただ寄り添われるだけで全身の熱が追い詰められ、行き場を失っていく。

魂釘ソウルネイルの数値が、また微かに落ちた。

『37.8°C』

その数字を見つめ、俺は掠れた声で漏らした。

「……あんたのやり方は、どうにも理不尽だな」

「効果があるのなら、それで良いはずです」彼女は言う。

「世の中には、効果があっても理不尽なやり方はいくらでもある」

「……今更、それを言うのですか?」

彼女はそう言い捨てると、指先を滑らせた。鎖骨の傍ら、まだ熱を帯びた皮膚の上を、羽毛のような軽さで。撫でるでも、まさぐるでもない。ただ熱源の境界を確かめるような、無機質な確認作業。だが、その性愛的な意図を削ぎ落とした動作こそが、かえって俺の意識を強引に引き摺り出す。

指先が触れるたび、その冷気が皮膚を、布地を、呼吸を突き抜け、層を成して内側へと浸透していく。俺の中の「熱」は彼女に追いつめられ、深淵へと引き籠もろうとするが、それでも消えきれずに足掻いていた。

「……あんた、以前もこんな風に処理してたのか?」俺は聞いた。

「どのようなことでしょう」

「焼け付くような熱を持った男に張り付いて、熱が引くのを待つなんて真似だ」

小雪は沈黙した。

彼女は伏し目がちに、俺の胸の下で未だ安定しない鼓動を聴いているようだった。数秒の後、彼女は淡々と答えた。

「……いいえ」

「じゃあ、俺が最初か?」

「生きたままここに座り、これほど長く私に触れさせているのは……貴方が初めてです」

その言葉を、どう受け取ればいいのか分からなかった。称賛ほめことばとして受け取るには、あまりに冷えすぎている。

俺は彼女を見下ろした。

距離が近すぎて、彼女が言葉を紡ぐたびに吐き出される冷たい吐息が、俺の顎を微かに掠めていく。もう一歩だけ顔を寄せれば、彼女の瞳の中に宿る、雪夜のように淡い光さえも鮮明に捉えられるだろう。彼女のかおに感情の兆しはないが、その平穏こそが致命的なまでに毒を孕んでいた。彼女は「近い」という概念を知らないのではない。ただ、生者あなたたちが反復して確認したがるような「危険域パーソナルスペース」という概念自体が、彼女には欠落しているのだ。

「……そんな風にされると、」俺は言葉を絞り出す。「誤解を招くぞ」

「何を誤解するというのですか?」

「自分が今、どれほど……」

言葉が、喉の奥でつっかえた。

彼女は視線を上げ、俺の言葉の続きを待っている。

だが、そのあまりに凍てついた貌を前にすると、普段なら簡単に口にできるはずの言葉が、なぜか形をなさなかった。雨瞳リン・ユートンなら軽口で誤魔化せた。シキなら挑発として返せた。だが、小雪は違う。彼女はあまりに真っ直ぐで、あまりに静かだ。一度言葉にしてしまえば、彼女はその意味の深淵まで執拗に問い質してくるだろう。

だから俺は、別の言葉を選んだ。

「……近すぎる、と言いたいんだ」

彼女は二秒ほど俺を見つめると、小首を傾げた。

「……ですが、貴方は私を退けようとはしていません」

俺は目を閉じた。

まただ。

この怪異の恐ろしさは、一切の攻撃性を持たず、ただ事実を羅列することで退路を断つその手法にある。彼女は問い詰めているのではない。ただ事実を提示しているだけだ。

退けないのは、彼女が止めているからではない。彼女が離れれば再び熱に焼き切られることを、俺自身が知っているからだ。止めないのは、俺が高潔だからではない。今この瞬間、彼女を必要としている自分を否定できないからだ。

この「明確さ」は、曖昧な誘惑よりも遥かに俺を摩耗させる。

「……あんたの勝ちだよ」俺は言った。

「勝ち負けの話などしていません」

「……それが一番、厄介なんだ」

彼女は答えず、額に垂れた一房の髪を肩の後ろへと流した。その些細な動作に伴い、衣の襟元が僅かに揺れ、透き通るような白磁の頸筋うなじが露わになる。暖房の温風は部屋を埋め尽くしているというのに、彼女に触れている場所だけが熱を吸い取られ、不快感と中毒性が混ざり合った奇妙な感覚へと変容していく。

耐えきれず、俺は問いを投じた。

「……なぜ、ここに残った?」

彼女の手が、一瞬だけ止まった。

今度は熱を測るためでも、数値を確認するためでもない。

彼女は、本当に「思考」していた。

暖房の吹き出し口から漏れる低い駆動音だけが、部屋の静寂を際立たせる。窓の外には雪が降り積もっているはずだが、その音さえも、この部屋に漂う「何か」を邪魔立てすることを恐れているかのようだ。彼女は俺の隣に座り、その冷徹な重みを俺の胸と鎖骨に預けたまま、視線をふすまの木枠へと向けた。

まるで、銀山よりもずっと遠く、果てのない場所を見つめるように。

「最初は、」彼女は言った。「貴方が私を、その中に収めたからです」

「……ひどい理由だな」

「まだ、話の途中です」

俺は手を軽く挙げ、先を促した。

小雪は伏し目がちに、だが先ほどまでのどの言葉よりも明瞭な響きで紡ぐ。

「私のような存在が、二度目の問いを投げかけられる機会など、普通はありません」彼女は続ける。「多くの場合、追い払われるか、封印されるか、あるいは道具として試されるか……そのどれかです。貴方のやり方は、決して優しくも丁寧でもありませんでした。むしろ、少しばかり粗暴で……」

「おい」

「ですが、貴方は私を最初から『道具』とは見なさなかった」彼女は俺を見た。「貴方はまず、私を『自分を凍えさせる厄介な隣人』として扱ったのです」

俺は虚を突かれた。

……相変わらず辛辣な評価だが、不思議と、彼女の口から語られるとその言葉はどんな甘い美辞麗句よりも真摯に響いた。

「それで、俺に付いてくることに決めたと?」

「いいえ」彼女は首を振る。「ただ、今はまだ立ち去らないことに決めただけです」

胸に置かれた掌の冷気が、より一層安定する。まるで、一時的に留まるべき「居場所」を見つけ出したかのように。魂釘ソウルネイルの数値が、また一つ、その刻みを下げた。

『37.6°C』

「……その先は? 他に理由があるんだろ」

「後に気づいたのです。貴方の内側には、『みち』があるのだと」

俺は眉をひそめた。

「路……? どういう意味だ」

「地図に記されるような道ではありません」彼女は言う。「貴方の身体、指輪、サブ・スロット……そして貴方自身さえ把握していない領域を、異質なモノたちが行き交う際に残していく『痕跡』のことです」

小雪は指先に僅かな力を込め、俺の胸を圧した。それは比喩ではなく、実在する感覚なのだと突きつけるように。

「貴方の熱は、単なる体温ではありません。貴方の身体は『記憶』しているのです。貴方に触れた霊圧、呪い、油、雪、そして残魂。それらは貴方を通り過ぎる際、必ず痕跡を残していく。ですが奇妙なことに、その痕跡は貴方を引き裂くのではなく、貴方の内側で自律的に『居場所』を整えていくのです」

彼女の説明を聞いて、俺は納得よりも先に、背筋に薄寒いものを感じた。

それは、俺が人間であるというより、自己調整機能を持った「容器」へと変貌しつつあることを示唆していたからだ。ただ、今のところ破綻パンクしていないから、周囲も俺自身も「正常」なふりをしているに過ぎない。

「……つまり、俺の中のシステムが、勝手に居候たちの部屋割りを決めてるってことか?」

「ええ」彼女は頷く。「そしてそれは、今もなお成長(拡張)し続けています」

「そいつは早く言ってほしかったな。今すぐ逃げ出すかどうか決めるために」

「……もう手遅れですよ」

「そりゃどうも。最高の慰めだ」

彼女は皮肉を無視し、俺の左手の指輪へと視線を移した。

「サブ・スロットは表面的なものに過ぎません。私が留まる決意をした真の理由は、貴方の『可動性』にあります」

「可動性?」

「ええ。貴方は山ではない。屋敷でも、温泉でも、誰かが落ちるのを待つだけの固定された『穴』でもない。貴方は歩き、逃げ、過ちを犯し、強がり、関わりたくないと言いながらも手を伸ばす。貴方の構造は不安定ですが……常に『動いて』いる」

彼女は言葉を切り、今度は逸らすことなく俺の瞳の奥を射抜いた。

「……私にとって、それは不動の安定よりも、遥かに安全クリアなのです」

その瞬間、胸の奥で抑え込まれていたはずの熱が、形を変えて再燃した。

熱度が上がったのではない。より「深く」沈み込んだのだ。

至近距離で、これほどまでに真っ直ぐに。それは情愛の言葉ではない。ただの冷徹な判断の羅列だ。だが、それゆえに抗いようがない。なぜ彼女が、清浄な雪のままでいることを捨て、俺という泥沼のようなシステムに身を投じることを選んだのか――その理由が、氷の塊となって俺の無防備な場所へねじ込まれた。

俺は彼女を見つめ返し、しばらくして問いを絞り出した。

「……なら、あの『黒い油』はどうだ?」

小雪の瞳が、僅かにかげりを見せた。

ようやく、本題だ。

銀山の戦いの後、誰もが問い続けてきた。あれは何なのか、どこから来たのか。弥生は計器で、雨瞳は位相で、老高は経験で、希は刃で。だが、小雪は違う。彼女は自らの「冷」をもってあの異形に直接触れたのだ。彼女が知る真実は、他の誰とも階層が異なるはずだ。

「黒い油は……何を学ぼうとしているんだ?」

俺の問いに、小雪はすぐには答えなかった。


彼女は胸元に置いていた手をゆっくりと頸筋くびすじへと移動させた。未だに燻る熱を、一つずつ丁寧に整理していくかのように。指先が触れた瞬間、俺の身体はまた僅かに強張ったが、彼女はそれを指摘せず、ただ冷気を均一に這わせ、俺が自力で呼吸を整えるのを静かに待っていた。

「……あれが最初に学んだのは、『うつわ』です」彼女はようやく口を開いた。

山姥やまうばのような、外見の器か?」

「ええ」彼女は頷く。「外形、習わし、その地に根付く人々の認識。それらは最も表層にあるものに過ぎません。物語の蓄積と、十分に汚れた『油』さえあれば、器を借りることは容易い」

俺は眉をひそめた。

「だが、銀山にいた『あれ』は、単に山姥を模倣していただけじゃないはずだ」

「その通りです」彼女は言う。「あれが次に学んだのは、『位置』でした」

「位置……?」

「人を、介抱する位置です」小雪は続けた。「人を喰らう姿勢ではなく、慈しむ位置。扉を開け、部屋へと招き、湯を沸かし、寝床を整える。ひやねつのすべてを、人が無防備に弛緩しかんする絶妙な加減に調整する。……唐突に襲いかかるのではなく、まず『ここには、自分のために整えられた場所がある』と思わせるのです」

俺は沈黙した。

その言葉を聞いた瞬間、銀山に漂っていた「気配」のすべてが鮮明に蘇ってきたからだ。

血の臭いでも、腐臭でもない。旅館という場所において、最も容易く警戒心を奪うものたち。

行灯の灯り、木材の温もり、沸き立つ湯、柔らかな被褥ひゆく、茶の香り。そして、付かず離れずの距離を保つ仲居。扉が閉ざされた瞬間に脳を掠める、「ようやく休める」という致命的なまでの錯覚。

そして、客は自らその内側へと足を踏み入れるのだ。

「あれはこのすべを学んだことで、もはや単なる妖怪の模倣ではなくなりました。あれが模倣し始めたのは……『貴方たちが、いかにして受け入れられたいか(おもてなし)』という欲望そのものなのです」

胸の奥に、重いなまりが沈み込んだ。

それは単に山姥の皮を被るよりも、遥かにたちが悪い。

「器」には形があり、伝承があり、対抗策がある。だが、もし「あれ」が「対象が最も望む受け入れられ方」を学習してしまったとしたら、次の場所では全く異なる姿で現れるだろう。銀山は旅館であり、旅人を迎え入れる「秩序」だった。北へと向かう道中で、あれが次は何を学ぶのか、想像するだけで肌が粟立つ。

「だから……あれは銀山に留まる気はなかった、ということか」

小雪は頷いた。

「銀山が教えたのは、第一の階層に過ぎません。どうすれば人の警戒を解けるのか。次は、より相応しい場所を見つけ、さらに巨大な『受容じゅよう』を学ぶでしょう」

「……さらに、巨大な?」

彼女は俺を見つめ、指先を頸動脈の上に置いた。

微かな、けれど確かなあつ。それは俺が最も認めたくない本能の直感を、直接押し潰してくるかのようだった。

「一軒の旅館よりも大きく、一つの部屋よりも整備された何か。それは道であり、景色であり、秩序そのもの。……そこにいる誰もが、自分たちは『正しい方向へ進んでいる』と信じて疑わないような、巨大なシステムです」

俺は、言葉を返せなかった。

彼女が何を指しているのか、察しはついていた。だが、それを名指しにする勇気はまだなかった。

それは「樹氷じゅひょう」そのものではない。

そこへと至る道筋。

そこへ向かうことを自ら望み、そこへ行くのが当然だと思い込まされる、完璧に整えられた「配列シーケンス」。

部屋の静寂が、より一層濃くなる。

彼女は俺の隣に座り、その冷徹な意思を退けることなく寄り添っていた。俺の熱は消えていない。ただ、彼女の低温に圧し殺され、めいからあんへと、より深い場所へと潜行しただけだ。

この状態は、残酷なほどに神経を磨り減らす。彼女が語る言葉の重要性を理解しながらも、その一方で、彼女の「近さ」を、指先の感触を、肌を掠める吐息を、強烈なまでに意識させられ続けている。

情報の重さと、身体的な官能性が混ざり合い、脳を侵食していく。

俺は掠れた声で、彼女に問いを投げた。

「……なら、なぜあんたは残った? 俺自身が、いつかあれに『学習』されてしまうとは考えなかったのか?」

小雪は俺を見つめた。その瞳は凪のように静かだった。

そして、彼女はゆっくりと、俺の方へ顔を寄せた。

唇の端に宿る、極微ごくびの白き霜が見えるほどに。

吐き出される冷たい気が、俺の口角を直接撫でるほどに。

「……だからこそ、私はここに留まるのです」

呼吸が、止まった。

彼女は口付けるわけでも、それ以上の明確な動作をするわけでもなかった。

ただ、冷徹なまでの決意を、その距離感をもって俺の魂に刻み込もうとしていた。

ただその距離で静止しているだけだというのに、部屋の空気は膨張し、爆発寸前の圧を孕んでいた。彼女は意図しているのか、それとも無自覚なのか。事態の危うさを理解しているのか、あるいは単に言葉を正確に届けるために、これほどの至近距離を選んでいるのか。

彼女が不可解であればあるほど、俺は分からなくなる。彼女を、この熱を冷ますための「雪」として扱うべきか、あるいは体温を制御不能に陥れる「毒」として拒絶すべきか。

彼女は俺を見つめたまま、密やかに囁く。

「……あれが『いかにして人を介抱するか』を学ぼうとしているのなら、」彼女は言う。「私はまず貴方の傍に留まり、あれが貴方から何を奪おうとしているのかを見極める必要があります」

俺は彼女を凝視した。喉の渇きはもはや限界に近い。

「……あんたのその言い分、半分は保護で、もう半分は監視に聞こえるな」

「ええ」彼女は肯定した。「どちらも正解です」

「……なら、残りの半分は?」

彼女は僅かに伏し目になり、自らの指先が冷やし続けている俺の頸筋をなぞるように一瞥いちべつした。そして、再びその瞳を俺の瞳に重ねる。

「残りの半分は、」彼女は言った。「……副槽サブ・スロットよりも、ここ(貴方の隣)の方が居心地が良いからです」

……その一言は、決定的に不味まずかった。

俺は本能的にシーツを握りしめ、軽口を叩いてこの空気を強引に押し返そうとした。だが、彼女の手はまだ頸筋に置かれたままだ。あまりに静かで、あまりに近く、あまりに冷たい。言葉を発しようとすれば、声は無様に掠れ、あと数ミリ身体を傾ければ、彼女に触れてしまう。

結局、俺が絞り出せたのは、警告ともつかない一言だけだった。

「……自分が今、どれほど不穏なことを言ってるか、分かってるんだろうな」

小雪は静かに、ただ静かに俺を見つめていた。

「……ですが、貴方の体温はまた下がりました」

俺は視線を落とす。

魂釘ソウルネイルが表示しているのは――

『37.3°C』

……クソ。

またしても、彼女の方が正しかったわけだ。

もはや、返す言葉もなかった。俺はベッドの支柱に背を預けたまま、隣に座る彼女をただ受け入れるしかなかった。白い衣、長い髪。いつまでも溶けることのない「雪」そのものであるはずの彼女が、今やどんな熱源よりも鮮烈な存在感を持って俺を支配している。

銀山ぎんざんの異変は終わっていない。北の地では何かが胎動を始めている。

そんな中で、彼女はここに留まることを選んだ。居場所がないからでも、俺に収穫キャプチャーされたからでもない。

彼女は、自らの意思で判断したのだ。この場所に座ることを。

俺のももの横に寄り添い、てのひらで頸筋の脈動を抑え込み、その不条理なまでの低温をもって、俺の過熱を削ぎ落としていく。

そして、俺にとっての最大の誤算は。

この状況が致命的なまでに危ういと理解していながら、先ほどほどには、彼女を退けたいとは思わなくなっている自分に気づいたことだった。





シーン4:〈黎明れいめいの前に、雪を収める〉



魂釘ソウルネイルの数値が37.3°Cまで落ちると、部屋に満ちる静寂は、より確かな質感を帯び始めた。

何も起きなかったことによる静寂ではない。

あまりに多くのことが起きてしまい、けれど誰もそれを最初に認めようとしない――そんな、沈黙の合意だ。

小雪はまだ隣に座ったままだ。距離は縮まったままで、手も頸筋くびすじに置かれたまま。彼女の掌がもたらす「冷」は、もはや初期の鋭利な刺突ではなく、薄く均一に降り積もる雪の層のように、静かに皮膚を覆っている。外へと奔流していた熱は一寸ごとに平伏させられ、俺の呼吸もようやく落ち着きを取り戻した。だが、なぎが訪れたからこそ、彼女の「近さ」はより鮮明に意識を侵食してくる。

肩と肩が重なり、ももが密着している。

二人の間に垂れ下がる白い衣は薄く、けれどそこから滲む冷気は重い。まるで冬の欠片を直接ベッドに置いたかのようだ。暖房の温風は空しく部屋を巡っているが、もはやそれは生者ひとを安心させるための書き割りに過ぎない。この部屋の温度を支配しているのは、間違いなく彼女だった。

俺は視線を落とし、彼女を見やった。

「……あんた、昔からそうやって人をいたぶるのが趣味か?」

小雪は顔を上げ、表情を変えずに応じる。

「私は、貴方を救っているのです」

「その救い方は、尋問(拷問)の手口によく似てるぜ」

「それは、貴方が熱すぎるからです」

当然だと言わんばかりの返答に、俺は反論する気力さえ失った。雪を相手に道理を説いたところで、碌な結末おわりにならないことは分かっている。

俺は背中をベッドの支柱に預け、彼女の掌が今どこを、どう圧しているのかを考えないように努めた。ほんの僅か身体を傾ければ、額や鼻先、あるいは唇が彼女に触れてしまう。そんな「もしも(If)」を、身体が俺の意志を追い越して細部までシミュレートし始めてしまう。この距離の最も厄介な点は、そこにある。

彼女はそれを察したのか、伏し目がちに指先を動かした。頸筋をなぞる、極めて微細な動作。

それだけで、俺の肩は本能的に強張った。

小雪は俺を見つめ、淡々と問う。

「……まだ、熱いのですか?」

「あんたにそんな風に触られりゃ、熱くもなるだろ」

彼女は二秒ほど沈黙した。俺の言葉が不平なのか、真実なのか、あるいは単なる強がりなのかを判別しているようだった。結局、彼女は追及することなく、頸筋からゆっくりと手を離した。そして、その手を俺の左手首の内側へと移動させる。

俺は、今度こそ深く息を呑んだ。

そこは、頸筋よりもさらに「急所」だった。皮膚は薄く、脈動は鮮明で、神経が過敏に集まっている場所。彼女が触れた瞬間、冷気は血流に直接乗り、腕を伝って一気に駆け上がった。左手の感覚が半寸ほど麻痺する。だが、その衝撃と引き換えに、胸の奥に澱んでいた鬱熱うつねつに亀裂が入り、じわりと霧散していった。

魂釘ソウルネイルが、また瞬く。

『37.1°C』

その数字を見つめ、俺は乾いた笑いを漏らした。

「……認めざるを得ないな。あんたの手法やりかたには、確かな効果がある」

「当然です」彼女は言う。

「だがな、あんた。こんな光景を他人に見られたら、どう言い訳すればいいか考えたことはあるか?」

「……リン・ユートンのことですか?」

彼女がその名を口にした瞬間、部屋の空気に微かな緊張の糸が走った。雨瞳が実際に扉の向こうに立っているわけではない。だが、この一夜をどれほど低く抑え込み、記憶の奥底へ押し込めたところで、完全に「痕跡」を消し去ることなど不可能だと、俺たちは理解していた。特に、あの鋭利な指揮官(元カノ)相手に隠し事をするのは、闇夜にサーチライトを向けて歩くようなものだ。

「……あいつなら、あんたが出てきたことに気づくはずだ」

「ええ。そうでしょうね」

「気にならないのか?」

小雪は伏し目がちに、俺の手首の脈動がようやく落ち着いていくのを確かめていた。

「……私が気にしているのは、彼女がそれを知った後、貴方をより困難な(面倒な)状況に追い込みはしないか、ということです」

冗談で返そうとしたが、言葉が喉の奥で消えた。

彼女は冷たい。生者ひとの都合など顧みないほどに。だが、そんな彼女が紡ぐ言葉は、あまりにも真っ直ぐすぎて、胸の隙間に容赦なく入り込んでくる。それは媚びでも慰めでもなく、彼女が真摯に思考を巡らせた結果としての「事実」だった。

「……随分と、俺のことをおもんぱかってくれるんだな」

「私は、私自身のためにそうしているだけです」彼女は瞳を上げ、俺を射抜いた。「貴方が早くに壊れてしまえば、私はまた別の居場所を探さねばなりませんから」

「そりゃどうも。そっちの言い方の方が、しっくりくるよ」

彼女の唇が、微かに揺れた。微笑わらったのか。それは淡雪あわゆきのように儚い一瞬の表情だったが、その刹那、彼女はただの「低温の怪異」ではなく、この世界の秩序に留まろうとする一人の「存在」に見えた。

危険だが、災禍わざわいではない。

静寂が降りる中、俺は低い声で告げた。

「……夜が明ける。そろそろ、戻るべきじゃないか?」

小雪はすぐには答えず、白み始めたふすまの向こうを見つめた。それは黎明ですらない、夜の闇が最も薄く引き伸ばされた時間。旅館は死んだように静まり返り、遠くで家鳴やなりが響く。まるでこの建物自体が今夜の出来事を記憶し、けれど沈黙を守っているかのようだ。

「……ええ。戻らなくては」

彼女が視線を左手の指輪へと戻す。俺は頷いたが、その瞬間、胸の奥に言いようのない喪失感が広がった。

厄介なことだ。

さっきまでは、近すぎるとか、言い訳ができないとか、そんなことばかり考えていたのに。いざ彼女が「帰る」と言い出すと、強がりで抑え込んでいた違和感が、空白となって身体を蝕み始める。それを「名残惜しさ」と呼ぶほど、俺は素直じゃない。だが、あまりに冷え切った部屋に長く留まりすぎると、その冷たさが奪われることにさえ、身体は恐怖を覚えるらしい。

沈黙に耐えかねたのか、小雪が淡々と問う。

「……戻ってほしくないのですか?」

「……明日の朝、俺の部屋に『雪』が降っていたなんて、ユートンに説明したくないだけだ」

彼女は二秒ほど静止し、頷いた。

「ならば、痕跡を最小限に留めましょう」

「……その言い方、余計に不安になるんだが」

「最小限にすると言っただけです。消すとは言っていません」

「正直だな」

「その方が、貴方が誤判しなくて済むでしょう?」

言い終えると、彼女は手首から手を引いた。

冷気が引いた瞬間、肌の感覚がごっそりと抜け落ちたような錯覚に陥る。彼女は背筋を伸ばし、その白い衣が床で波打った。雪が影の中に溶けゆくような、不可避の退去。

――だが、その刹那。

俺は本能的に手を伸ばし、彼女の手首を掴んでいた。

彼女が止まる。俺も止まる。

部屋には、自分の耳にまで届きそうなほど激しい鼓動だけが響いていた。

小雪は掴まれた自分の手首を見下ろし、それから俺を見た。振り解くでもなく、理由を問うでもなく、ただ静かに。その沈黙は、どんな問い詰めよりも残酷に俺の動機を暴き立てる。

俺は乾いた喉を鳴らし、苦し紛れの言葉を絞り出した。

「……せめて、外に出ても気づかれないくらいには、温度を下げていけ」

あまりにも、無様な言い訳だった。



魂釘ソウルネイルが36.9°Cを指すと、部屋の静寂は唐突に現実味を帯び始めた。

何事もなかったかのような無音ではない。

決定的な何かが起きてしまい、けれど誰もそれを言葉にする勇気を持てない――そんな、重苦しい静寂だ。

小雪はまだ隣に座っていた。距離を置くでもなく、手も頸筋くびすじに添えられたまま。彼女の掌がもたらす冷気は、もはや鋭い刺突ではなく、薄く均一に降り積もる雪の膜のように、静かに皮膚を覆っている。呼吸の乱れはようやく収まったが、静まり返ったからこそ、彼女の「近さ」が残酷なほど鮮明に伝わってくる。

肩と肩が触れ合い。

ももが密着し。

二人の間に垂れ下がる白い衣は、薄く、けれどその冷気は重い。まるで冬の欠片かけらを直接ベッドに置き忘れたかのようだ。暖房の温風は虚しく部屋を巡っているが、もはやそれは生者ひとを安心させるための書き割りに過ぎない。この部屋の体感温度を決定づけているのは、間違いなく彼女だった。

俺は視線を落とし、彼女を見やった。

「……あんた、ずっとこうやって人をいたぶるつもりか?」

小雪は顔を上げ、表情を変えずに応じる。

「……私は、貴方を救っているのです」

「その救い方は、尋問(拷問)の手口によく似てるぜ」

「それは、貴方が熱すぎるからです」

当然だと言わんばかりの返答に、俺は反論する気力さえ失った。雪を相手に道理を説いたところで、碌な結末おわりにならない。

俺は背中をベッドの支柱に預け、彼女の掌が今どこを、どう圧しているのかを考えないように努めた。ほんの僅か身体を傾ければ、額や鼻先、あるいは唇が彼女に触れてしまう。そんな「もしも(If)」を、身体が俺の意志を追い越して細部までシミュレートし始めてしまう。この距離の最も厄介な点は、そこにある。

彼女はそれを察したのか、伏し目がちに指先を動かした。頸筋をなぞる、極めて微細な動作。

それだけで、俺の肩は本能的に強張こわばった。

小雪は俺を見つめ、淡々と問う。

「……まだ、熱いのですか?」

「あんたにそんな風に触られりゃ、熱くもなるだろ」

彼女は二秒ほど沈黙した。俺の言葉が不平なのか、真実なのか、あるいは単なる強がりなのかを判別しているようだった。結局、彼女は追及することなく、頸筋からゆっくりと手を離した。そして、その手を俺の左手首の内側へと移動させる。

俺は、今度こそ深く息を呑んだ。

そこは、頸筋よりもさらに「急所」だった。皮膚は薄く、脈動は鮮明で、神経が過敏に集まっている場所。彼女が触れた瞬間、冷気は血流に直接乗り、腕を伝って一気に駆け上がった。左手の感覚が半寸はんすんほど麻痺する。だが、その衝撃と引き換えに、胸の奥に澱んでいた鬱熱うつねつに亀裂が入り、じわりと霧散していった。

魂釘ソウルネイルが、また瞬く。

『37.1°C』

その数字を見つめ、俺は乾いた笑いを漏らした。

「……認めざるを得ないな。あんたの手法やりかたには、確かな効果がある」

「当然です」彼女は言う。

「だがな、あんた。こんな光景を他人に見られたら、どう言い訳すればいいか考えたことはあるか?」

そして、何よりも厄介なのは。

明日、雨瞳リン・ユートンがこの部屋に踏み込んだ時、彼女がまず「どこ」を注視するのかを、俺がすでに想像し始めていることだ。

不自然なほどに低く抑え込まれた、俺の体温か。

指輪の奥底で、まだ収まりきれずに揺らめいている寒気か。

それとも、暖房が効いているはずなのに、どう拭っても「たった今、雪が止んだばかり」のような匂いが染み付いた、この部屋の空気か。

俺は重い溜息を吐き出し、指先で眉間を強く揉んだ。

夜は、まだ明けていない。

雨瞳が目を覚ます前に、この一夜の出来事を「なかったこと」として処理しておくのが最善だ。

だが、左手の指輪を見つめる俺の心は、冷徹なまでの事実を突きつけてくる。

――雪は、確かに収まった。

だが、決して融けてなどいないのだ。

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