二刀流の万年学生 MLB投手 スクールボーイ・ロウ(1910-1961)
規定打席、規定投球回数を達成したのは大谷翔平が唯一無二であり、ベーブ・ルースと同じく規定投球回不足の3割二桁勝利は達成しているが、ルースやスクールボーイ・ロウらが記録した3割20勝にはまだ届いていない。近年ではアストロズのマイク・ハンプトンが1999年に22勝で最多勝に輝きながら、打率も'311と野手顔負けの記録を残しており、大谷にも是非チャレンジしてもらいたいものだ。
一九三二年、デトロイト・タイガース傘下の1A、ビューモント・エクスポーターズは巨漢コンビの活躍で連戦連勝、テキサスリーグを大いに賑わせた。
一人は後にタイガース不動の四番として数々の打撃タイトルを獲得するハンク・グリーンバーグ二十一歳。一九〇センチの巨体から放たれる打球の飛距離は群を抜き、この年二割九分〇厘、三九本塁打の活躍でメジャー再昇格が有力視されていた。
もう一人はグリーンバーグよりさらに大柄な一九五センチの右腕投手リンウッド・ロウ二十二歳。アマチュアからプロ入りしたばかりにもかかわらず、十九勝七敗、防御率二・三〇の好成績で、打のグリーンバーグとともにエクスポーターズのリーグ優勝の原動力となった。いや、正確に言えばロウは投打でセンセーションを巻き起こしたというべきかもしれない。
ロウは主戦投手でありながら代打にも起用され、二割九分五厘(一一二打数三十三安打)、十本塁打という素晴らしい打撃成績を残しているのだ。
グリーンバーグの三九本塁打が六〇〇打数を費やしたのに対し、ロウはその五分の一以下の打席である。フル出場すれば五〇本に到達したかもしれない。もちろん長打率も一九三〇~四〇年代最強の長距離打者といわれるグリーンバーグを遥かに凌いでいる。まさにマイナー版ベーブ・ルースといっていいほどの鮮やかな二刀流ぶりだった。
ロウのバッティングは、メジャー昇格後も下位打線の野手以上に警戒された。なぜなら投手として規定投球回数を満たしながら三割を打ったシーズンが三度もあるからだ(一九三四、一九三五、一九四三)。
いずれの年度も二桁勝利を挙げており、三割二桁勝利を三回というのはベーブ・ルースらと並ぶ史上二位タイの記録である。
ロウは野球でその名を知られるようになったのは、十五歳で地元新聞が出資しているセミプロチームに参加してからである。その投打に渡る活躍は目覚しく、元プロ野球選手も含む社会人チームを破ったことで、「奴らはスクールボーイにやられた」と新聞の見出しに書かれたのを機に、「スクールボーイ・ロウ」のニックネームが定着した。
メジャー昇格時には二十三歳になっていたにもかかわらず、「スクールボーイ」と呼称されたのは、セミプロ時代からこれが通り名になっていたからで、四十一歳で野球をやめるまでずっと「スクールボーイ」だった。
一九三四年、メジャー二年目のロウは投打で輝いた。六月六日、ロウが勝ち投手になってタイガースが首位に立つと、六月十五日からロウが十六連勝という圧巻のピッチングを見せる一方、グリーンバーグも若き主砲として長打を連発し、終わってみれば球団史上最高勝率(六割五分六厘)で常勝軍団ヤンキースを七ゲームも引き離すぶっちぎりの優勝だった。
リーグMVPは捕手兼監督のミッキー・コクレーンだったが、二四勝八敗、防御率三・四五のロウ、三割三分九厘、二六本塁打、一三九打点のグリーンバーグの「ビューモントコンビ」の貢献度も全く見劣りがしないものだった。
あと二勝すれば優勝決定というヤンキースとの首位攻防四連戦では、ロウが二勝。四戦目はシャットアウトで優勝に花を添えている。
バッティングの方も三割三厘、二本塁打、二十二打点と投手らしからぬ強打を披露した。五月七日には自らホームランを打って勝ち投手とまさに独り舞台だった。
一九三五年のペナントレースもヤンキースとの一騎打ちだった。
前年度よりはもつれたが、ヤンキース戦三完封勝利を含む十九勝十三敗とエースの責任を全うしたロウの存在は大きかった。
ワールドシリーズでは前年度三勝四敗と惜敗したカブスに四勝二敗と快勝し、ついに球団初のワールドチャンピオンの座を手に入れた。
一九三六年、ロウは十九勝十敗だったが、防御率は四・五一と大幅に落ち込み、ヤンキースの独走を許す要因にもなった(チームはリーグ二位)。これは腕の故障によるもので、翌年にはマイナー落ちするほど情況は深刻だった。
一九三七年、一九三八年の二年間で一勝しか出来ず、このまま消えてゆくかに思われたが、投げられなくともロウにはバッティングというもう一つの武器があった。
一九三九年七月二十二日、対アスレチックス戦のダブルヘッダー二試合目に先発したロウは、二回裏に先制の満塁弾を叩き込むと三打席目にもタイムリーを放ち五打点を挙げる活躍でチームの勝利に貢献した。
この日まで三勝八敗とぶがいない投手成績だったロウは、打の活躍を機に立ち直り、以後は七勝五敗と復活の兆しが見えてきた。
かくしてロウは翌一九四〇年に奇跡的な復活を遂げる。
残り二十五試合の時点で三位だったタイガースは、そこからロウの四連勝を含む十八勝七敗という猛烈な追い込みを見せインディアンスを一ゲーム差でかわしてリーグ優勝。ロウは十六勝三敗で勝率はリーグ一位だった。但し、肝心のワールドシリーズは二度のリリーフ失敗でチームの足を引っ張り、レッズに苦杯をなめた。
復活したのも束の間、一九四二年はわずか二勝しか挙げられなかったロウはシーズン途中でタイガースを解雇され、ドジャース経由で一九四三年にはフィリーズのユニフォームを着ることになった。
多分フィリーズは投げる方はあまり期待していなかったのだろう。最初の登板で敗戦投手になった後、代打で起用するといきなりタイムリー二塁打とバットスイングの方は相変わらずシャープだった。
これに味をしめたか、五月二日の対ブレーブス戦ダブルヘッダーの二試合目、四対〇のビハインドで六回裏一死満塁の場面に代打に送られたロウは見事期待に応える満塁本塁打で試合を振り出しに戻した。その後、味方のタイムリーでフィリーズは逆転勝利している。
投手による満塁本塁打二本というのは史上初の快挙であり、後にボブ・キブソンらが並んだが未だに三本打った選手は一人もいない。不思議なもので、この一発でまたしてもロウは甦り、シーズン十四勝八敗という成績を残している。
同年は登板数が二十七試合にもかかわらず代打出場が五十五試合にも上っており、打率三割ちょうど、四本塁打、十八打点と野手顔負けだった。
面白いのはその後二年間の兵役を経て再びグラウンドに戻ってくると、不調知らずだったバッティングの方がめっきり冴えなくなった代わりにピッチングの方は円熟味を増し、復帰初年度には自己ベストの防御率二・一二を記録したほか三年連続二桁勝利を挙げている。
ロウは現役実働十五年で一五八勝を挙げているように投手としてももちろん一流だったが、二割六分八厘、十八本塁打という打撃も投手の中では傑出したものだ。グリーンバーグを凌ぐ体躯とメジャーの投手が警戒するほどの長打力をもってすれば、最初に肩を壊した二十七歳の時に本格的に打者に転向していれば三割、三〇本塁打はゆうにクリア出来たと思われる。
スクールボーイ・ロウはルースの記録を脅かす年間58本塁打を放った同僚のグリーンバーグに匹敵する長打力の持ち主で、体格にも恵まれていただけに、早めに投手を断念していればMLBの打の主役にもなれたかもしれない。




