0章 オープニング
スミレは、白いドレスのマユが新郎と並んで笑う姿をぼんやりと見つめていた。隣ではキッコが小さく拍手をしている。カメラのフラッシュが弾けるたび、マユの髪飾りが揺れた。
「……ほんとに、マユが結婚しちゃうなんてね」
隣の席のキッコがつぶやく。スミレは黙って頷いた。
乾杯のグラスが交わる音。スピーチ、ケーキ入刀、歓声。目の前の風景が祝福で満ちているのに、スミレの心はどこか遠くにあった。
5人席に、なぜか新郎の友人が2人座っている。一人は73分けのセルフレームの眼鏡の男の子、もう一人はツーブロックのいかにも体育会系ですという男の子。いずれにしても苦手だ。スミレとキッコは隣の席で「マユ、綺麗だね。」とか「ドレスも、式場に合わせたのかな、すっごいオシャレ」そう小声で言いながら時折笑う。が、スミレは空いた席に目をやる。欠席らしい。
(苦手だなぁ)
知らない男の子と同じ席なのもだけど、ブーケトスとか、いらない気遣いだ。
そして何よりも苦手なのが、一つの空席だった。
******
後日、マユが新婚旅行から帰ってきて、スミレ、キッコと女子会をした。
「最後の晩餐を見てね、それから、大聖堂のドゥーモにも行ってね。」
マユ。
昔から可愛いと思っていた。
肌が白くて、足が細くて、中学から高校にかけて歯を矯正していた時期がある。それでいじめじゃないけど、ちょっとやっかまれていたこともあって揶揄われたりしていた。でも歯の矯正のせいじゃない。彼女は細く、可愛く、出るとこは出ていて、頭脳は明晰だ。
(神は3物を彼女に与えた。)
スミレはマユの話に耳を傾けながら、うっとりと目を細めた。
(私の美点だ。)
誰かの自慢話を、まるで自分が体験したかのように浸れる。無数の天使達が控える扉を抜けて、大聖堂へ。荘厳なステンドグラス、差し込む光を浴び、屋上へ。屋上からは尖塔の立ち並ぶ街の頂上。そこからはイタリアのミラノの景色が一望できる。
スミレが目を開くと、目の前に空席がある。4人席の一つ。マユとキッコ、そしてスミレが座ってない空席。
(苦手だなぁ。)
空席はいつも彼女に強い圧迫感をもたらす。
*****
マユは大阪へ引っ越すとのことだ。マユと別れたあと、スミレが「私たちずっと地元にいようね」というと、キッコは「どした〜〜?寂しいか〜〜?」と抱きしめてくれる。スミレはキッコのこういうところが好きだ。欲しいところに、欲しいアクションをくれる。キッコが男の子ならすぐにでも結婚していたのに。
*****
裏切りの電話は早かった。
「鎌倉?の漫画家さんがアシスタント募集してて」
電話越しのキッコは荷物をまとめているのか声が籠っている。
こうして、スミレは一人になった。
*****
2008年。
能登島から能登半島へ伸びる橋は、冗談のように天に迫り上がっている。この地方は夏から秋にかけて曇り空が多い。23歳のスミレが昼間、そこをスクーターで渡る。まるで雲に向かって登るように。
「なんでこんなに橋が盛り上がっているの!?」
そう言う子供の頃のスミレに、彼女の父は
「そりゃ!こうしないと橋が落ちるからさ!」
と古びたワゴンを運転しながら答えた。スミレは、大きい橋というのは、反り上がっているものだ。そう覚えた。
彼女は横目に自転車で挑戦している若い男子に柔らかい眼差しを向けた。荷台に女の子を乗せている。2人とも制服だ。
(おー頑張れ頑張れ)
この橋はきついぞー。横目で追い越して前を向く。橋には電光掲示板がある。今日、何台の車が能登島に訪れたか表示する。風の強い日には通行禁止を知らせることもある。まぁ、いつも夜は渡れない。
*****
スミレがコンビニのバイトで品出しをする。と、店長が寄ってくる。
「ナカムラく〜ん。もうちょっと遅くまで入れない?」
「無理です。橋が渡れなくなるんで。」
スミレはにべもなく答えて仕事をする。
やがて人が来て、彼女はその相手をする。煙草の銘柄を言われ四苦八苦してパッケージを選び、会計をして。
スミレは地元を去った二人のことを思う。
(マユは結婚、キッコはアシスタントかぁ)
そういえばキッコは高校生の頃に、大手編集社の漫画の新人賞で佳作を受賞したことがある。
(私は不器用で、手伝えなかった。)
爪のネイル、白地にピンクの花、をカリカリとなぞりながら、彼女は人生について考えた。
スミレの両親は、普通、だっただろう。(2008年当時、親ガチャという言葉はなかった。と、思う。)彼女自身も関係は良好であった。
(父は、髪があるだけ偉い、と思う。)
白髪混じりの髪を明るい色の染めるようになった。でも、そこまで薄くは無い。
(母は、パートしているだけ偉い、と思う。)
「あんた、最近太ったんじゃ無い?」
そういうデリカシーの無い点を除けば、彼女は基本的にスミレの味方だった。スミレの希望は美大だったが、この2人が猛反対した。その道で食べていけるのはごく少数だと、優しい2人は知っていて、スミレと大喧嘩をしたことがある。彼女は結局地元の大学の教育学部に進んだ。が、この時期は就職難だった。
コンビニのレジで、両の肘をついて、両手で頬を包み、彼女は天井の明滅する蛍光灯に目を向けた。
(結婚ねぇ。)
元カレ1。体育会家系の爽やかで筋肉質の男だった。別れた原因は、彼の二股だった。が、当時のスミレは自身の家が能登島にあることだと思い込んだ。元カレと一緒にいれる時間が少なかったと考えたのだ。非道く自身の境遇を嘆いた。
元カレ2。結構年上のパチンコ・スロット中毒、彼は自身をギャン中と読んでいた。ギャンブル中毒の略らしい。
女の子の友達の中には別れた元カレが恋しいと思うこともあるらしいが、スミレの中には無い感情だった。
(二股は論外。ギャン中は、給料を全てスロットで溶かしたことがあるって噂を聞いて、問い詰めてみるとまるで芸人のように「いやぁあんときは死ぬかと思ったヨォ〜」と嬉しそうに話していた。その時に別れを切り出した。)
これじゃあ未来が見えない。
スミレは反抗期の際に父親と強く反発したこともあるが、思い返してみると彼女の男性経験が最悪の終わり方を思い出してみると「父はまともなほうだ」という結論に至った。それが自身の反抗期を終結させた。
が、それとは別に彼女の思春期に残ったしこりがある。
*****
”あの子”
シャトルランを100回以上走り、難解な数式をものの見事に解く、運動会も校内で行われたバドミントンの大会でも常に全力プレー。化学オリンピックと数学オリンピックに挑んだとかなんとか。
どこか聞いたこともない地方、山?から来たらしい。”あの子”。
(本当は、私たちは4人だった。)
”あの子”は17歳の夏、自殺した。
17歳には、死ぬ理由が多すぎる。
”あの子”は聞いたこともない地方からやってきた。文武両道。あまりにも正しい”あの子”。正しさを振り翳せばトラブルになる、そんな学びをどこかで置いてきたかのように”あの子”はいつも背筋を伸ばして胸を張って生きていた。
”あの子”は自殺した。
”あの子”はきっと、正しさのために死んだ。そう思う。
*****
休日、スミレはスクーターに乗ってぼーっと進んだ。金沢を越えて月うさぎの里へ。ここにうさぎに餌付けをするコーナーがある。
彼女はそこで何回か競争に負けたうさぎに餌を与える。隅で小さくなっているうさぎに餌を撒くと、強そうなうさぎがどっからかやってきて餌を奪ってしまう。
月うさぎの里を後にして、さらになんの目的もなく走る。横手にずっと巨大な山が見えている。
白山。地元と都会を分け隔てるかのように聳え立つ巨大な山。今年は気が早いらしく雪化粧に身を包んだ巨大な壁は、「お前には超えられないだろう」というような威圧感さえある。
(大阪に、鎌倉。鎌倉ってどこだろ、神奈川県?)
マユもキッコも遊びに来てと言っていた。
(そう簡単に行ける距離じゃない。)
さらにスクーターを走らせ、白山がよく見える地点に来た。
荷物から小さめのスケッチブックと鉛筆を取り出して、彼女は固まる。
(何を描きたいんだろう。)
昔から絵を描くのが好きだった。が、写実では写真に敵わない。”あの子”は、
「芸術ってのは引き算だ。」
そう目を細めていっていた。思うと4人の中で最も絵が巧緻なのは”あの子”だった。でも当時のスミレには何を言っているのかわからなかった。
引き算。
えんぴつを振りながら彼女は考える。”あの子”は正しさの中を生きていた。でも、
「足し算じゃ無い?」
スミレの言葉に、”あの子”は「ん〜」と唸っていた。
スミレの中にあったのは、扉のイメージだった。ずっと昔に東京に行ったことがある。在来線、新幹線、山手線、乗りついてたどり着いたのは上野美術館。ダリの作品を見た。
スミレは単純に
「私も描ける」
とそう思った。
(”あの子”はなんて言ってたっけ。デフォルメにこそセンスが問われる。でも彼女が好きなのはダリのようなシュールレアリスムじゃなかった。)
スミレは芸術とは足し算だと思っている。
(描いて描いて描いて、描き込むんだ。)
(白山を、飛び越せるような、橋。大きく反り上がって雲を突き抜けて。)
そんなイメージで、白山を中央に、それを乗り越える橋を書き込む。白山に根を下ろし雲を突きねける橋。夢中で描いては消し、線を足す。せめぎ合う山と橋。橋が浮き上がっているように白山に影を足し、足しては消す。
それを描いたからといって、スミレに何か起こるわけではないけれど。
*****
次の日の朝。
スミレの自宅は能登島にある一軒家だ。能登島には、大きなサメのいる自慢の水族館がある。その一軒家は水族館からはちょっと遠くにある。日本家屋の平屋。
朝、彼女が布団を畳み部屋の片隅に追いやって、欠伸をしながら居間に向かう。と、両親が米の入った茶碗を片手にニュースを見ている。その四角いブラウン管の中で、地元TV局の女性アナウンサーがスーツにヘルメット姿でマイクを握りしめ叫んでいる。
「橋です!白山に、橋がかかっています!見てください、雲を突き抜けています!」
スミレの頭はそれを理解しなかった。ただ、彼女はその橋をよく知っているような気がした。