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サラリーマンとミックスサンド①

「うああああ、あうあああああ」

 喫茶店の扉を開いた瞬間、得体の知れない声が聞こえてきた。愛は、開いた扉をすぐさま閉めようか迷った。愛の決断を鈍らせたのは、愛想のいい須崎の一言のためだった。

「愛さん、いらっしゃいませ」

「……コンニチハ」

 ついつい片言になってしまう。中に入ってからそおっと扉を閉め、その場に佇んだままじっと中の様子を伺う。

 今、喫茶店の中では、テーブルの上にちょこんと座った須崎を一心不乱に撫でくりまわすサラリーマンの姿があった。三十代半ばくらいのサラリーマンの客は、見るからに疲れ果てている。くしゃくしゃのワイシャツ、プレスの当たっていない灰色のズボン、乱れた髪。やや瞳孔の開いた目は須崎のみを映し出しており、両手で一心不乱に須崎のもふもふした体を撫で回している。

 ありていに言ってちょっと怖い。

 しかし須崎は、されるがままになっている。両手両足を胴体の中にしまい込むいわゆる香箱座りをして、顔をちょっと上げて喉下を撫でてもらいやすくしていた。尻尾は胴体に巻き付いている。そしてゴロゴロと喉を鳴らして目を細めてさえいる。とてもリラックスしている様子だ。

 愛は学生鞄を握りしめ、戸惑いがちに口を開いた。

「えぇっと……この状況は……?」

「常連の竹下さんの癒しの時間なのでどうぞお気になさらず。愛さんのご注文は、クリームソーダでしょうか?」

「あ、はい」

「では、私は今手が離せないので、大吉君にお願いしましょう。大吉くーん、クリームソーダをお願いします」

「えぇ? ……あぁ」

 奥からひょっこり顔を覗かせた大吉。どうやら今日は厨房にいたらしい。とはいえ右手にしっかりと火のついたタバコを持っているところを見るに、中で一服していたのかも知れない。彼の仕事意識はどうなっているのだろうと思わなくもないが、会うのがこれで三回目ともなるともはや愛としても慣れてきつつある。

 厨房に引っ込んだ大吉。愛のためにクリームソーダを用意してくれるのだろう。

 愛は、竹下という名前らしいサラリーマンと須崎を、少し離れた席に座ってじっと観察した。

 竹下は一心不乱に須崎を撫でくりまわし続けている。手つきは乱暴ではなく、あくまでも優しい。須崎のことを思って撫でているのがよくわかる。だからなのか、須崎もされるがままにされていた。竹下の口からは「ふああああ……ねこ……癒される……」と心の声がダダ漏れになっていた。いい年した大人のこんな姿を見るなんて、なかなか珍しい。そして愛の両手がムズムズし始めた。

 あの、須崎の灰色の毛を、自分でも触ってみたい欲求に駆られたのだ。だって絶対に気持ちいい。柔らかくてふわふわしていてもふもふしていて、絶対に触り心地がいい。愛がテーブルの下でひそかに手をグーパーさせていると、大吉がやって来て目の前にクリームソーダを置いた。

「どうぞ」

「あ、どうも」

 須崎と違って全く愛想のない大吉にペコリと頭を下げる。大吉は愛にかまわず、向きを変えて竹下に話しかけた。

「竹下さん、そろそろ須崎さん返して。でないと俺が働く羽目になる」

「ええぇえ……働けばいいじゃないですか。雇われの身なんだし」

「俺は竹下さんみたいに働きすぎたくない」

「どうせ私は社畜ですよ……!」

 竹下は大吉の言葉を前に絶望し、両手で頭を抱える。そんな竹下の様子を、猫ならではの柔軟性でぐるっと首を回らせて須崎が見上げた。

「まあまあ、竹下さん、そんなに落ち込まないでくださいよ」

「うううぅぅ……来る日も来る日もクライアントと上司と開発部の連中の板挟みになって、息つく暇もないんですから……私の味方なんて誰もいないんだ……癒しは須崎さんだけです」

 口から盛大にため息を吐き出す竹下の全身から哀愁が漂っている。愛は思わず、ポツリとつぶやいた。

「大人って……大変なんですねぇ」

 瞬間、竹下と須崎の視線が愛に集まった。なお大吉は客席でぼうっとタバコを吸っていて愛のことなど見てもいない。平常運転だった。

 やや気恥ずかしくなったのか、竹下は須崎を撫でくりまわす手を止めて背筋を伸ばした。

「コホン……お見苦しいところをお見せいたしまして、申し訳ありません」

「いえ、あの、こちらこそ至福の時間をお邪魔してしまってすみません」

「ところで竹下さん、ご注文はいかがしますか?」

 須崎の一言で竹下ははっとした表情になる。

「そうでした。私としたことが……須崎さんに癒されたいあまりに、注文をするのを忘れていました」

 一体なんの店なんだ、猫カフェかなと愛は心の中でツッコミを入れる。猫カフェだってドリンクオーダー制だろう。慌ててメニューを見る竹下に、香箱座りから背筋をしゃんと伸ばしたエジプト座りへと姿勢を変えた須崎が穏やかに話しかける。

「お腹は空いていますか?」

「あぁ……そうですね、昼を逃してこんな時間に休憩を取っているので……ですが、あまりしっかり食べる気にはなれないなぁ」

「でしたらミックスサンドなどいかがですか? 当店のミックスサンドはたまご、ハム、ジャムサンドの三種類の盛り合わせ。軽食にピッタリです。本日は曇っていて肌寒いので、ウインナーコーヒーと合わせると美味しさもひとしおですよ」

「いいですね。それにします」

 結局竹下は、メニュー表をろくに見ずにパタンと閉じ、須崎のおすすめを注文した。

 須崎はこくりと頷く。

「かしこまりました。では、用意して参ります」

「えっ、須崎さん行ってしまうんですか!?」

「はい。調理は私の担当ですので」

「うぐ……で、ですが、須崎さんの調理風景を見てみたい……というか、この店にいる以上、ずっと須崎さんと触れ合っていたい」

 この店は厨房が奥に引っ込んでいるので、覗くことはできない。竹下は何かしらの葛藤をしているようだった。

「すぐに戻りますので、少々お席でお待ちください」

「……わかりました。大人しく待っていることにします」

「では」

 須崎はすっくと立ち上がって一礼すると、軽やかにジャンプをし、そして当然のように二足歩行で去っていく。

 残されたのは愛と竹下と大吉の三名だ。

 普通、喫茶店で居合わせただけの客同士など、他人だ。興味を惹かれたとしても関わり合いになることなんてない。まして相手は愛よりも一回り以上年上の男の人だ。普段であれば無視を決め込むだろう。

 しかし治部良川の時同様、愛は竹下のことが気になってしまった。この喫茶店特有の雰囲気がそうさせるのだろうか。なんだか他人との距離が妙に近く感じてしまう。溶けかけているバニラアイスをすくって一口食べてから、須崎が去ってしまって寂しそうに肩を落とす竹下におずおずと話しかけてみる。


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